スウィートホーム・シンフォニー 20話




 セットの片隅で、天馬と一成は台本を開いている。
 スタジオに作られたのは、見慣れた1LDKのリビングではなく、簡素な居室だ。ベッドを置いただけでいっぱいになってしまう、狭い部屋だった。
 スタッフたちは、慌ただしく撮影準備に追われている。スタジオ入りはしたものの、予定外に時間がかかっているらしい。開始の声はまだ掛からないことを見越して、二人は台本を読み直していた。

「やっぱり、今回のシーンは今までに比べると雰囲気が違うな。日常よりもドラマチックに寄ってる」

 台本を読み込んでいた天馬が顔を上げて、あらためてといった調子でつぶやいた。一成も視線を天馬へ向けると、こくりとうなずく。今までの日常的なシーンと一線を画すのは、スタジオセットの違いからも肌で感じていたし、染井監督からも説明は受けていた。

「だよねん。今までも、二人の気持ちが伝わる芝居はしてたけど、今回はちょっと方向性が違うっていうか、ラブシーンだかんね」
「ああ。根底は同じでも、ラブシーンらしい見せ方に変える必要がある」

 天馬も同意を返して、台本を読みながら何度も話し合った演技プランを確かめる。真剣な表情で、どうすれば最高の芝居を見せられるかと交わす言葉は、静かでいながら熱を宿していた。
 これでいい、なんて妥協をするつもりは二人になかった。芝居を終える最後の瞬間まで、ずっと上を目指すのだ。最高の演技で、今できるものの全てを、その先を形にするのだと決めている。

「目覚まし時計のシーンは、もう少し自由に動ける余地があるよな。ただ言及するだけじゃつまらない。いくつか考えてることはあるんだが――ちょっと試していいか」

 静かに告げる天馬は、言外に伝えている。詳しい演技プランをあらかじめ話すことはできる。必要ならいくらだって聞かせてやるが、一成にそんなものは要らないだろ?
 二人の生活を丹念に描く映画だ。言葉だけではなく、細やかな所作やまなざし、あらゆる全てで二人の人生を生きる。だからこそ、予定調和だけでは終わらない瞬間がほしい。何が起きるかわからない、初めての感覚を芝居に乗せるのだ。
 ともすれば、それはただの独りよがりになるだろう。しかし、天馬は知っていた。信じるよりももっと強く。
 ともに舞台に立ってきた。何度も同じ世界を生きてきた。一成ならできる。答えてくれる。わかっているからこその言葉だと、一成だって理解していた。きっぱりと答える。

「好きに動いておけまるだよん。何が来たって、ちゃんと受け取って返すから」

 唇に笑みを浮かべて、一成は答えた。普段の明るさより、もっと静かに、丁寧に。落ち着いた静謐さを感じさせる表情は、奥底に宿る意志を伝える。
 どんな芝居だって、最高以上に返してみせる。テンテンの期待に、求めるものに答えられる。今まで一緒の舞台に何度だって立ってきたオレに、できないわけがないんだ。
 静かに返された言葉に、天馬はこくりとうなずく。一成ならそう言うとわかっていたのだ。どんな謙遜もない確かな自信が嬉しくて、天馬の唇は笑みを刻む。そのまま、再び台本の確認へ戻ろうとしたところで、不意に声を掛けられる。

「二人とも、お待たせしてしまってすみません」

 振り向けば、恐縮した様子の染井監督が立っていた。背後にはメイキング担当のカメラマンが控えていて、ぺこりとお辞儀をする。
 染井監督の謝罪に、天馬と一成は慌てて首を振り、「必要なことだとわかってます」「夜の寝室だし、いろいろ難しいですもんね」と続ける。
 今回のスタジオセットは設定上照明をしぼっているものの、撮影に支障を来してはならない。そのための調整が続けられているのだ。染井監督は二人の言葉に安堵の表情を浮かべてから、口を開く。

「理想の画のためには、明かりが重要ですからね。カメラの相棒が照明と言われるゆえんです。もうすぐ美術館のロケですし、スケジュール通りに撮影を進めたい。そのために、撮影が滞らないよう事前準備をしっかり行ってもらっています」

 そう言って、セットへ視線を向ける。作業を見守るまなざしには、最高の画を撮るために最上の働きをしてくれるのだ、という信頼が浮かんでいた。
 そのまま少しばかり様子を見つめたあと、染井監督は顔を動かす。

「調整にはもう少し時間がかかるようですし、少しお話をしても?」

 二人へ順繰りに視線を向けると、おだやかに尋ねる。当然首を振るはずもなく、イエスを返せばほっとしたように笑った。
 いくらかの雑談をしたあと切り出したのは、これから撮影するシーンについてだ。

「このシーンについては、事前にお話しした通りです。いつもとは少し違った雰囲気を撮りたいと思っています」

 撮影の方向性については、染井監督からすでに説明は受けている。
 夜の寝室という舞台設定から察する通り、このシーンでのメインは「恋人同士の二人」だった。それまでの日常生活の空気を感じさせる必要はない。ただ、お互いだけを目に映す恋人同士を演じてほしい、と言われていた。

「二人の関係性が軸ではありますが、恋愛模様がメインの作品ではありませんからね。明確な愛の言葉や、キスシーンがあるわけではありません。むしろ、単なる日常会話のシーンとも言えます。ですが、ここは二人が愛を交わす場面だと思ってください」

 真っ直ぐと向けられたまなざしは力強い。台本通りに沿うならば、夜寝る前のささやかな会話でしかない。だけれど、奥底に宿るものは、言葉にせずとも表れるものは、声ではなく形作られる雰囲気は、互いへの愛を語るシーンなのだ。
 二人ならそれができる、と染井監督は思っている。舞台における遼一郎と蒼生を見ているからこその確信でもあり、今までの天馬と一成の演技を見てきたからこその信頼でもあった。それを真っ直ぐと向けられれば、返す答えなど一つしかなかった。

「はい。任せてください」
「ラブシーンだと思って臨みます」

 天馬が重々しくうなずき、一成は笑顔で答える。事前に二人で打ち合わせはしており、ここは唯一のラブシーンである、という見解は統一されている。お互いへの愛情を余すことなく表現するつもりだった。染井監督は二人の言葉に「心強いですね」と笑った。

「楽しみにしています。スタッフを赤面させるくらいの気概でお願いしますね――ああ、失礼」

 二人の答えに、染井監督はイタズラっぽい光をひらめかせて答える。それから、スタッフに呼ばれてセット内へと歩いていった。メイキングカメラマンも続いたので、今日は主に染井監督を中心に撮影しているのだろう。
 天馬と一成はその背を見送ってから、同時に互いへ視線を向けた。最初に口を開いたのは一成だった。

「だってさ、テンテン。オレら、めっちゃ期待されてんじゃん?」
「ラブシーンって認識は間違ってないってことだろ」

 もともと、二人はそのつもりだったのだ。染井監督も同じ見解であることはわかっているし、撮影前にわざわざ言及したということは、期待されていると言ってよかった。

「キスシーンは一つもないけどな。ただ、そんなものが必要ないくらいのシーンにすればいい」

 映画の雰囲気から考えても、わかりやすいラブシーンはそぐわない。透き通るような空気が根底に流れているからこそ、明確な欲を前面に出すようなシーンは、作中から浮いてしまうだろう。
 しかし、全てを捨てることを選んだ二人なのだ。互いに向ける愛情がどれほど強いものであるかは、駆け落ちという事実が伝えている。
 作品の雰囲気を損なうことなく、強く結びついた二人の関係性を表現する。キスシーンも睦み合いの一幕もないからこそ、まとう空気や雰囲気に密やかな色をにじませるのだ。
 それが二人で目指すゴールなのだと理解しているから、一成は天馬の言葉へ静かにうなずいた。




 準備が完了したという声が掛かり、撮影が始まった。セットの居室に入り、それぞれ所定の位置につく。天馬も一成もすでに役に入っている。夜も深まった時間帯という設定と、二人の持つしんとした空気があわさって、現場の雰囲気はどこかしめやかだ。
 撮影開始の合図が響き、カメラは静かに回り始める。目覚まし時計を手にして、ベッドへ入っている蒼生。遼一郎が居室へと入ってくる。
 蒼生は遼一郎に「明日もいつもの時間でいい?」と尋ねた。目覚まし時計をセットしていると、遼一郎は、ぎしり、とベッドの端に腰掛けた。不服そうな表情で告げる。

「せっかく二人とも休みなんだ。少しくらい寝坊してもいいだろ」
「でも、天気いいみたいだから洗濯したい」
「休みなんだから休め」

 言いながら、遼一郎は身を乗り出して蒼生へ手を伸ばし、目覚まし時計を奪い取る。驚いたように見つめるものの、遼一郎はまるで構わない。働き者の性分であることはわかっているから、放っておくと朝からあれこれ仕事を片づけかねないのだ。

「少しくらい寝坊しろ」
「でも――」

 蒼生は、奪われた目覚まし時計を何とも言えない表情で見つめる。遼一郎は大きく息を吐くと、時計をベッドの片隅へ放り投げた。手を伸ばしても届かない位置。台本にはない行動だったけれど、一成はありのままに天馬の演技を受け取った。
 強引で実力行使に出やすい、遼一郎らしい行動だ。放っておけば、いつものように働いてしまうであろう蒼生をきちんと休ませるためには、これくらいしなくては、と思ってのことなのだ。
 言葉や表情だけでなく、行動で思いを伝える。ともすれば乱暴なだけの所作さえ、天馬にかかれば愛の表現へと変わっていく。
 どうやって返せばいいかはわかっていた。蒼生は視線をさまよわせてから、そっと遼一郎をうかがう。何かを言わなくては、と口を開く演技。しかし、すぐにはっとした表情で唇を結ぶ。遼一郎の雰囲気の変化を察したからだ。

「蒼生は働きすぎなんだよ。ちゃんと休んでくれ」

 きゅっと眉根を寄せて、懇願するような響きを宿して言う。真正面から蒼生を見つめると、布団の上に投げ出された手をそっと握る。蒼生がぴくりと反応して、遼一郎へ視線をそそぐ。

「休むことも仕事の内って言うだろ。無理したって効率が悪いだけだし、休む時は休んだほうがいい」

 噛んで含めるような言葉とともに、両手を握る力が強くなる。心からの願いであることくらい、蒼生だってわかっている。
 これは遼一郎のワガママではなく、蒼生のことを想ってのものだ。大事にしたい、大切にしたい、という気持ちの現れだ。わかっているから、蒼生はそっと笑みを浮かべて静かに告げた。

「――そうだね。それじゃ、明日はちょっと寝坊しようかな」

 照れたような表情を浮かべると、握られた手に力を込めた。近い距離で向き合って、互いの手を握りしめる。ここまでこうして歩いてきたように、この手だけ取って歩くのだと決めた時のように。
 蒼生は一つ息を吐き出すと、くすぐったそうな笑みのまま「そういえば」と口を開く。

「オレ、あんまり寝坊したこととかないな。何にもしてないと落ち着かないし、休もうと思って休むのって難しい気がする」
「それならオレが教えてやる。一日ベッドに寝転がってたっていいんだ」

 笑いの雰囲気をにじませて蒼生が言えば、同じ空気で遼一郎も言葉を返す。冗談めいた響きをしているけれど、声の端々には甘さがにじんでいる。おだやかな夜が、少しずつ色づいていく気配。

「夜更かしするのもいいな。このまま寝るのももったいない。もう少し、起きてないか」

 遼一郎は、静かな声で問いを投げる。何かを確かめようとするような響きに、蒼生は数度目をまたたかせる。
 二人は何も言わない。けれどそれは気まずいものではなく、言葉がなくても伝わるのだと互いに理解しているからだ。部屋に落ちる沈黙は、ひそやかな甘さをまとい始める。

「――うん」

 はにかむ笑みで蒼生が答えると、遼一郎は白い歯をこぼして嬉しそうに笑った。それから、蒼生の前髪が目に落ちかかっていることに気づいて、そっと払ってやる。
 指先でやさしく、壊れそうな宝物に触れるようなうやうやしさで。目の前の存在がどれほど大切なのか、指先一つで告げるような所作だった。
 まるで、心そのものが形になったような。そんな指先を受け入れる蒼生は、ゆっくりと深呼吸をした。深く息を吸い、吐き出す。
 一瞬だけ目を閉じて、まぶたを開くと言った。遼一郎から渡されるもの、そそがれる全て。何もかもから感じる声にはならない言葉たちへ、答えを返す気持ちで。

「今日はちょっと夜更かししようかな」

 普段の蒼生に似て、だけれど確かな艶やかさを潜ませた声だった。その声に導かれるように、遼一郎は蒼生の頬に手を滑らせた。至近距離で、真っ直ぐと瞳をのぞきこめば、蒼生も同じように視線を返した。互いのまなざしが混じり合う。
 言葉は一つも要らなかった。交わされる視線は確かな熱を宿していたし、隠す必要もない。蒼生の唇から吐息がこぼれて、遼一郎は目を細める。添えた手を動かして、蒼生の頬をゆっくりと撫でた。一つ一つ、丹念に慈しむように。触れる指先で、手のひらで、心の全てを伝えるように。
 蒼生はそっと笑みをこぼした。触れた個所から贈られる全てを、余す所なく受け取ったのだと告げるような笑みだった。
 お互いの心が、言葉もなく交わっていく。指先から、まなざしから、体中の全てから、ただ目の前の相手への愛おしさがあふれだしていくのだと、二人とも理解していた。部屋の空気が、かぐわしく色づいていく。

「――ああ。夜はこれからだ」

 答える遼一郎の声には、したたるような甘さがにじんでいる。蒼生はやわらかく目を細めると、そっと手を動かした。うっとりとした表情で、頬に添えられた遼一郎の手に己の手を重ねる。包み込むように握りしめると、とろけるように笑った。
 二人を取り巻く空気は、甘く色づく。部屋いっぱいに満ちて、全てが塗り替えられるようだった。かぐわしい香りが、くらくらするほどの強さで匂い立つ錯覚を覚えてしまうほど。
 それはセットの居室だけではなく、スタジオ内も同様だった。無言で天馬と一成を撮影するスタッフたちは、息を詰めてただ二人の演技を見つめている。
 手を握り、頬に触れるという所作はあるものの、キスシーンやベッドシーンがあるわけではない。恋人たちの気安い語らいとも取れる一幕は、しかし別の雰囲気を宿していた。
 具体的な行為はなくても、互いに向かう心情がありありと表現される。
 触れたい。もっと近くに行きたい。一番近い場所で、互いを感じたい。指先で、声の調子で、まなざし一つで、どれほどまでに目の前の存在を愛おしく思うのかと、二人の演技は如実に語る。
 スタジオ内の空気は、そんな二人に引っ張られて、とろけるような甘さを漂わせていた。