スウィートホーム・シンフォニー 21話




「――カット!」

 濃密で甘美な空気が満ちる中、声が掛かる。スタッフたちは、思わずといった調子で息を吐いた。遼一郎と蒼生が紡ぐ愛の光景は、あまりにも圧倒的だった。
 取り巻く空気が、体中の全てが、互いへの心を伝える。甘く滴る蜜が辺りにあふれるようだった。
 何もかもをさらけだして、愛を伝えたい。隔てるものは要らない。ただ身も心も差し出したい。
 触れたい。言葉も要らない。吐息を、熱を分かち合って、この世界のただ一人のあなたと、混ざり合って一つになりたい。
 ほとばしる心や、狂おしいほどの愛おしさを周囲に感じさせ、あらゆる全てを染め上げたのだ。
 しかし、カットの声が響いた瞬間、天馬と一成の雰囲気は切り替わる。それまでの、濃厚とも言える空気は途端に消えて、よく知るものへと変わっていく。
 天馬の力強いオーラに、一成の人懐こさ。明るい声で「いい感じじゃね!?」と一成が言えば、天馬は「ああ。全力で恋人演じたからな」と答える。一成はいっそう楽しそうに笑った。

「めっちゃラブラブだったよねん!」

 ベッドから抜け出しつつ、周りのスタッフにも気軽に「どうだった?」と声を掛ける。一成が雑談を振るのはいつものことなので、衣装を直していたスタッフは慌てることもなく「すごかったです」と答えた。

「思わず見入っちゃいました。こんなにラブシーンだったっけ?って感じでした」
「確かに。キスの先まで行くのかと思った」

 他のスタッフも加わって、告げられた感想を一成は嬉しそうに聞いているし、天馬も「ラブシーンのつもりで演じた甲斐がありました」と面白そうに言葉を添える。「やっぱりそうなんだ」「逆にキスしてないほうが不思議」と続いて、和気あいあいとした空気が流れた。
 二言、三言、他愛ない話をしてから一成と天馬はセットの居室を出た。モニターチェックがしたかったのだ。
 染井監督はすでに一通りチェックしていたようで、やって来た二人を笑顔で出迎えた。やけに楽しそうな、プレゼントを受け取った時のような表情を浮かべて。メイキングカメラが、その様子を余すところなく撮影している。

「愛を交わす場面だと思ってほしいとは言いましたが――キスシーンの先にゴールを設定してたんですね」

 心底面白そうに、染井監督は言う。曰く、想定していたのは、まるでキスシーンのような場面であること。実際に唇を重ねていなくても、口づけを送り合うような雰囲気を撮りたかった。だけれど、二人の演技を目の当たりにして悟る。

「ベッドシーンを撮る予定はなかったんですよ」

 きゅっと目を細めた染井監督は、笑い声で形作られたような響きで告げる。
 天馬と一成の演技は、親密な恋人同士の甘さにほとばしる情欲をたたえていた。触れたい。もっと近くに行きたい。境界線が邪魔だ。何もかもを溶けあわせて、一つになりたい。相手に向かう熱が根底にあるのだと、染井監督はしかと察したのだ。
 台詞だけを見てみれば、気安い二人が休日の前夜を遅くまで過ごす会話と言える。だけれど、端々に宿る熱が、仕草やまなざし、声の響きが全く別の意味を与えていた。
 そこまでは求めていない、とNGを言い渡される可能性はあった。欲を感じさせる場面はふさわしくない、という判断もあるかもしれないと思った。
 だけれど、天馬と一成は二人で話し合った結果、ここはあえて踏み込んで演技をしようと決めたのだ。様々な形で二人は愛を伝え合う。それならば、きっとこんな夜があるはずだと思ったからこそ。
 心配が杞憂だったことは、染井監督の表情からわかった。予想していなかった、とは言うものの不快に思っているわけではない。それどころか、予想外を楽しんでいる雰囲気さえある。

「こうなると、引きのシーンももう少し撮り方を変えたいですね。他のカットも入れたいですし、次のテイクでいくつか試したいこともあります」

 染井監督はそう言うと助監督へと声を掛けて、撮影プランの変更を告げる。もともとの計画では、二人の演技に充分応えることができないという判断だ。
 より効果的に、いっそう強く、遼一郎と蒼生の夜を観客へ焼きつけるために。いつだって最高の画を撮ろうとする染井監督にとっては、柔軟に計画を変えるのは当たり前の判断だった。
 変更が発生したことから、現場は急きょ慌ただしくなる。天馬や一成も例外ではなく、台本の内容にも変更点が加えられる。
 前後の整合性を確認しつつ、染井監督とも場面の解釈を擦り合わせて演技を組み立てるのは、劇場での芝居を思い起こさせた。

「そうなると、このシーンはもう少しためたほうがいいですね。オレがすぐ動くと、蒼生の反応が見えづらい」
「そうですね……。三好さん、タイミングは難しくないですか」
「大丈夫です。テンテンの動きなら呼吸で合わせられます」
「なるほど。それなら、この路線で行きましょう」

 変更点に関して、染井監督の言葉で話がまとまった時だ。「染井監督!」という声が掛かって、見れば美術部のチーフスタッフだった。険しい顔つきで駆け寄ってくると、慌ただしく告げる。

「今、美術館担当の現地組から連絡があって――あの、絵を搬入中の車が事故に遭ったと」

 言葉が耳に届いた瞬間、染井監督の顔色がざっと変わる。天馬と一成も動揺を浮かべた。言葉は理解しているけれど、上手く頭に沁み込まない。
 四日後に迫った高原ロケのため、画家とスタッフは完成した絵を携えて現地へ向かっていた。撮影は一日だけではあるものの、閉館後の短時間であれば展示方法のカメラテストを行う許可は出ていると聞いていた。だから今日、美術館へ向かっていたはずの車が事故に遭った。
 しんとした沈黙が流れて、まだ事態を知らされてない他のスタッフたちの話し声が、やけに大きく響いた。思わず全員が固まっていると、染井監督が口を開いた。鋭い声で尋ねる。

「皆さんは無事ですか。事故の程度は?」
「近くの病院に搬送されてます。怪我をしてまして……」

 スタッフの数人がむちうちや捻挫などの症状を訴えており、さらには画家が腕を骨折したのだと言う。染井監督は眉間にしわを刻んだ。一成もぎゅっと唇を結び、天馬も険しい表情を浮かべる。画家にとって、手が使えなくなるということの意味は、とうてい常人では計り知れない。
 そんな雰囲気を察したのだろうか。美術スタッフはさらに言葉を添えた。

「あの、利き手はご無事です。むち打ちの症状もあって、しばらくの安静が必要だそうですが意識もはっきりしてますし、命に別状はないそうです」

 慌てたように続いた言葉に、染井監督がわずかに空気をゆるめる。骨折しているのだから手放しで喜べないけれど、利き手を怪我したわけではない、というのは不幸中の幸いだったのだろう。
 しかし、スタッフの顔は反対に曇った。染井監督はいぶかしげに尋ねる。

「どうしましたか。代わりのスタッフをただちに向かわせますし、怪我を押してまで撮影に合流しろとは言いませんよ」
「はい、スタッフの手配は済んでるんですが……」

 答える声は曖昧ではっきりとしない。うろうろと視線をさまよわせて、何かをためらうような雰囲気が漂う。しかし、このまま黙っているわけにはいかないと判断したのだろう。真っ直ぐ視線を上げると、緊張した面持ちで告げた。

「描いていただいた絵が損傷してしまった、と連絡を受けています」

 張り詰めた表情で、美術スタッフは事故の詳細を告げた。
 事前に連絡していた通り、画家のアトリエで画家本人と絵を車にピックアップし、美術館へ向かった。絵自体はケースに入れていたものの、車中で画家が「気になることがある」と言って絵を取り出していたらしい。
 納品直前まで手直しをすることが常だったし、美術館に着いたらもう少し手を加えたいと言う。そんな話をしていた矢先、事故が発生した。

「相手の車が結構なスピードで突っ込んできたみたいで……。その衝撃で絵が破損してしまったようです」

 画家はとっさに、絵をかばおうとしたらしい。ただ、思いの外大きな衝撃に上手く対処することができず、結果として手を骨折し、絵も損傷することになった。

「キャンバスがほぼ真っ二つになってますし、破れや剥離も見られるそうです」

 一通りの事情を説明するスタッフの表情は硬い。自分の告げる言葉が、撮影における大きなアクシデントであることを理解しているからだ。
 損傷した絵は、物語の鍵となる作品だ。春を告げるクロッカスの姿は蒼生の心に強く残り、それから先の行動に結びつく。美術館で絵と対面することで、蒼生は自身の心を見つめ直す。
 重要な作品だからこそ、一切画面に映らないままでは不自然だ。だからこそ、美術館の撮影へ間に合うよう絵を完成させたはずだった。それなのに。

「……わかりました」

 染井監督は、ゆっくり答えた。強い意志が宿るようにも、動揺を隠そうとしているようにも聞こえる声だった。
 今、染井監督の脳内では目まぐるしく思考が働いているのだろう。この事態を切り抜ける方法をどうにかしてひねり出さなくてはならない。
 美術館の撮影は四日後だ。しかし、損傷した絵を使うことはできない。画家本人は安静を命じられており、とても絵を描けるような状態ではない。このままでは、肝心の絵がないまま当日を迎えることになってしまう。

「絵を見せないカット割り、アイデア出しはできてます!」
「監督、小道具班であれば、絵を用意することはできるそうです」

 考え込む染井監督に駆け寄ったのは、各部署のチーフスタッフだった。すでに情報は入っていたらしく、事情を知らされた時点で、自分にできることはないかと考えて行動に移したのだろう。
 メイキングカメラマンも、物言いたげな視線を染井監督へ向ける。カメラを持つ者の性として、撮影の手を止めてはいない。しかし、明確なアクシデントであることは確かだ。撮影を続けてもいいのか、止めるべきか、と視線が問うている。
 全ての判断が自身にゆだねられている、ということを染井監督は理解していた。数秒目を閉じ、開く。大きく深呼吸をすると、静かなまなざしで周囲を見渡した。
 一人一人を見つめてから、落ち着いた雰囲気で口を開く。まず、メイキングカメラを止める必要はないと伝え、チーフスタッフの提案に礼を告げてから答えを返していく。

「確かにカットで進行することはできますが、実際の絵がないと説得力がない。二人の未来に関わる重要な作品です。きちんと作品に登場させなければ、決意すらも作り物に見える」

 丁寧でいながら、強い口調だった。染井監督には、確固とした理想のシーンが頭にある。それを実現するために、作品は必ず用意したいのだと告げる。

「小道具班であれば、確かに出来のいい絵ができるでしょう。実力は本物です。ただ、プロの画家が描いた絵がほしい。この道で生きるのだと決めて、絵筆に人生の全てを懸けた作品です。それほどの力がほしい」

 小道具で制作された絵の出来を、疑うつもりはない。しかし、映画の小道具として用意されたものではなく、プロの作品がほしいのだと言う。絵筆に全てを込めて、これを生業にするのだと決めた。人生の一部を描き出すような作品の持つ力が、二人には必要だ。
 静かな、だけれど熱のこもった口調。必ず作品を用意する。空白のままではなく、プロの描いた絵こそが映画には必要だから。凛とした決意を受け取ったのは、スタッフだけではなかった。離れるタイミングを失っていた天馬と一成にも、染井監督の言葉は届いた。

「ツテのあるギャラリーでしたら、いくつかあります。事情を説明すれば、貸し出しを了承してくれる作品もあるはずです。ただ、映画にふさわしい作品があるかどうかはわかりませんが――」

 それでも四日後の撮影までに、作品を用意しなくてはならない。できることをするのだ。諦めて事態を投げ出すことなどするものか。自分にできる精一杯で応えるのだ。ここにいる誰もが同じことを思っていた。
 だから、天馬は察していた。隣に立つ一成の気配が変わったことも。ぎゅっと拳を握りしめて、奥底に炎を宿らせて、染井監督へ視線を向けていることも。それらが意味することだって、全部わかっていた。
 だってこんな時、一成が何を考えるかなんて、ずっと近くにいた天馬には、息をするように自然と理解できた。
 緊張した面持ちだけれど、唇の端には笑みが浮かぶ。挑みかかるような、わくわくとした表情が奥底ににじんでいる。
 いつだって一成は、新しい世界へためらいなく飛び込んでいく。今この瞬間だってそうなのだ。一成の心が走り出したのだ、と天馬は思う。だからそれなら、何をすればいいかなんてわかっている。
 天馬はそっと手を動かした。隣に立つ一成。どんな時も美しいものを見つけ出す瞳が、きらきらと輝いて確かな炎を宿している。その熱で、光で、駆け出していくというなら。
 思いの全てを込めて、軽く背中を叩いた。行ってこい、という気持ちで。一歩を踏み出すなら、そのためのエールになるように。
 一成が弾かれたように天馬を見る。だから、天馬は何も言わずただ笑みを浮かべた。それだけでよかった。一成に答えるのは、これだけで充分だった。
 こくりとうなずいた一成は、はっきりとした笑みを浮かべてうなずく。言葉はなくても、どんな気持ちでいるのか天馬は手に取るように理解する。
 染井監督の言葉で、一成の気持ちに火がついた。
 鼓動が速くなり、力が体中にみなぎって、わくわくとした気持ちでいっぱいになる。やりたいと思ったなら、いつだって飛び込んでいくと決めている。何より、一成は揺るぎなく思っている。
 ――オレならできる。ここまで歩いてきたオレなら、応えられる。
 強がりでも驕りでもなく、自身の力を知っているから言える。だから、一成は力強い声で言った。

「オレが描きます」

 協議を続けている染井監督やスタッフに向けて、はっきりと言った。美術館に飾る絵。作品の鍵となる、蒼生が心を動かされた絵。

「オレに描かせてください」

 真っ直ぐと染井監督を見つめて、一成は言った。静かで落ち着いて、どこまでも熱い炎とまばゆい光を宿して。自信に裏打ちされた声で続ける。

「作品内でどんな意味を持っているかなら、よくわかっています。それに、オレはプロです。絵の道を歩くと決めて、絵筆を握ってきました」

 はっきりとした言葉は、ただの事実だ。一成が日本画家として活躍していることは、当然この場にいる誰もが知っていた。同時に、その才能が高く評価され、日本画界隈でも名前が知られた存在であることも。

「オレなら描けます。二人の人生の鍵になる力のある絵です。多くの人にそう思われる絵が描けるからオレは画家を名乗っています。何より、蒼生に働きかける絵として説得力のある作品は、オレだから描けます」

 告げられる言葉は力強い。それも当然だろう。プロとして確かな実力を持っていること。蒼生を演じる他ならない本人であること。二つの事実は揺るぎないのだ。一成が描く絵こそが最適解かもしれない、という空気が流れる。

「――ですが、撮影の合間に描けるものでしょうか?」

 遠慮がちに言葉を発したのは助監督だった。そもそも、件の作品を一成に頼むという選択肢もあった。だけれどそれを選ばなかったのは、あまりにも一成への負担が大きくなりすぎるのではないか、という心配があったからだ。一成はすぐに答えた。

「確かに簡単にできることではないです。でも、仕事を並行させるのはいつものことですし、絶対に不可能なスケジュールでもありません。日本画ならオレのテリトリーです。間に合わせます」
「オレは絵に詳しいわけじゃありませんが――確かに、一成は一度スイッチが入ると速い。ずっと近くでこいつの仕事を見てきました。役者もデザインも日本画も、全てをやると決めてから、全力の成果を約束通りに持ってきた。一成は、それができる人間です」

 一成の決意を後押しするように、天馬も言葉を添えた。援護というよりも、ただの事実を告げただけだ。一成はいつだって、何一つ手を抜かなかった。持てる限りの全てで応えたし、約束の期日はきちんと守る。天馬の記憶にある限り、一度だって締め切りを破ったことはない。
 それぞれの言葉を、染井監督はじっと聞いていた。あとは、彼の判断を待つだけだとわかっていた。周囲の人間が、じっと視線をそそいでいると、染井監督はゆっくり口を開いた。

「わかりました」

 きっぱり言うと、一成を見つめて言葉を続ける。真っ直ぐとして力強い。役者に向けるものとは少し違った雰囲気で言う。

「三好さんなら、確かに一番必要とされる絵を描けるでしょう。ただ、撮影スケジュールもある程度調整しますが、全ての日程を制作にあててはあげられない。それでも、四日後には絵を持ってこられますか?」
「はい。必ず完成させます」

 染井監督の言葉を受けて、一成は答えた。落ち着いてしんとした、静かな意志の宿る目で。日本画家三好一成は答えた。