スウィートホーム・シンフォニー 23話






 夜明けまで筆を握り続けて、一成は絵を完成させた。様子を見にきた天馬に向けて浮かべたほほえみは、疲れていたものの満足そうだった。

 仮眠を取らせてから、迎えに来た井川の車で集合場所であるスタジオへ向かう。ここからロケバスに乗り、高原へと向かうのだ。
 張り詰めていたものがゆるんだのか、ぐったりした様子で一成は天馬に体を預けていた。今までの疲れが出ていることはわかった。それでも、ここで撮影を止めるわけにはいかない。天馬はただ無言で、労わるように一成の手を握っていた。
 スタジオに着いた一成は、雰囲気を切り替える。それまでの不調など微塵も感じさせない、明るい表情で車を降りたのだ。いつもの笑顔でスタジオに入り、スタッフたちへ軽やかに挨拶をしていく。心配を掛けまいと振る舞っていることはわかっていた。
 ただ、天馬に視線を向ける時はほんの少し違う表情が混じる。気まずげな、照れるような様子は、一成の不調を天馬だけは知っているからだろう。
 その事実は、天馬の胸をくすぐる。自分にだけは取り繕うこともなく、弱いところも見せてくれる。一成の内側に自分がいるのだ、という事実をしかと思い知ったからだ。
 一成は一通りスタッフへ挨拶をしてから、染井監督の姿を探した。完成した絵を見てもらう必要がある。ここでうなずかれなければ、撮影に絵が使われることはない。
 ロケバスの集合場所である駐車場やスタジオセットに、染井監督の姿はなかった。周囲の人に尋ねれば、事務室でこれからのスケジュールを確認しているはずだ、という答えが返る。
 礼を言った一成は、絵の入ったケースを持って事務室へ行ってくる、と告げる。天馬はきっぱりと言った。

「オレも行く」

 出発まではもう少し時間もある。それまで天馬に取り組むべき仕事はなかったし、疲れのたまった一成を一人で行かせるのも不安だった。何でもないように振る舞っているとはいえ、決して本調子ではない。思いがけないアクシデントに見舞われる可能性だってある。
 何よりも、天馬はちゃんと一成の仕事を見届けてやりたかった。一番近くで、ずっと一成を見守り続けてきたからこそ。最後までちゃんと隣にいるのは、自身の役目だとさえ思った。
 そんな天馬の決意を、一成は感じ取ったのだろう。静かにうなずいて「一緒に来てくれると嬉しいな」と、ささやくように告げた。


 事務室は、オフィス機能を詰め込んだ近代的なビルの中にある。誰もが慌ただしく仕事をしている部屋に顔を出せば、驚いたように「皇さん」「三好さん、どうしたんですか」と声を掛けられる。俳優が事務室に顔を出すことはあまりないからだろう。
 染井監督の所在を確かめると、事務室の奥にある会議室にいると言う。これからのスケジュールについて、各担当者と最後に確認をしているらしい。一成は少し不安そうに「邪魔になっちゃうかな」とつぶやく。

「早めに見てもらった方がいいのは確かなんだ。それに、満足の行く絵が描けたんだろ。なら、ちゃんと見てもらえ」

 力強く天馬は告げる。一成を勇気づけたいというより、純粋な事実を告げる気持ちで。
 物語上でも重要な意味を持っているし、早く確認したいと思っている可能性だってある。それに、一成が力の全てを込めて描いた絵だ。堂々と見せればいいのだ、と天馬は思っている。

「――うん。そだね」

 天馬の言葉に、一成はうなずく。不安そうな表情は消えて、しんとした落ち着きが宿っている。
 こんな風に、一成は自身の心を立て直してきちんと前を向く。進むべき方向を見定めて、自身の為すべきことを果たすのだ。そんな一成を天馬は心から誇らしく思っている。
 広い事務室を横断し、教えられた会議室の前に立つ。落ち着いた風合いの木製扉をノックするとすぐに声が返り、名前を告げると中へ入るよう告げられた。
 会議室にはスケジュール表や地図などが貼られていて、今日の動きについて入念なチェックが行われているようだ。染井監督以外に、助監督や制作部、車両部や各種技術部のチーフたちが集まっている。
 二人は、それぞれに「おはようございます」と挨拶をしつつ、時間はあるのかと様子をうかがった。話が一段落しなくては絵を見せることもできないだろう。
 なごやかに挨拶を返した染井監督は、二人の来訪の意味をすぐに察した。一成の持つ専用ケースに気づいたのだ。目を細めて、静かに言う。

「約束通り、ですね」
「はい」

 同じくらいの静けさで、一成は返した。四日という期限を設けられた。決して充分な時間ではない。それでも、求められるものに応えたのだと。力の全てで描き切ったのだと。絵に対する自負が確かに宿る、そんな声だった。
 染井監督は少しだけ沈黙を流したあと、「打ち合わせはおおむね終わりましたよ」と言う。用事を済ませてくれて構わない、という意味くらいすぐに察した。
 だから一成は、深呼吸をしてからケースへ手を掛ける。周囲のスタッフたちは、部屋を辞した方がいいのではないかと戸惑うような空気を流すので、染井監督は「構いませんよ」と答える。一成にも「いいでしょうか」と尋ねるので、「もちろんです」と答える。

「むしろ、みんなに見てもらいたいくらいです。これは――蒼生の見た絵だから」

 きっぱりと言った一成は、ケースから絵を取り出した。夜明けまでずっと向き合っていた。重ねた思いを、込めた希望を、形にして紡いだ一枚の絵。
 できたよ、テンテン、と告げる一成を天馬は脳裏に思い浮かべる。
 あちこちに絵の具をつけて、普段は入念にセットしている髪も乱れたまま、それでも満足げな表情を浮かべていた。心に描いたものを、頭の中にしか存在しなかったものを、確かに一成は描きだしたのだ。
 カーテンは閉め切られていたから、朝の光は差し込まない。漂う気配にかろうじて朝を感じても、どんな日光も部屋には入り込まない。それでも、あの時天馬は確かに思った。一成の絵を見て、今目の前でケースから取り出される一枚の絵に、確かに思った。

(――ひかりだ)

 最初に一成の絵を見た時に浮かんだ言葉が、今もまた胸に落ちる。
 目の前に現れるのは、黄色い花弁を持つクロッカス。空へ手を伸ばすような姿で、一株から三つの花を咲かせている。可憐ながら確かな生命力を感じさせ、画面にまばゆさを与える。葉の色は瑞々しい緑を宿し、あざやかさに磨きをかける。
 何より、クロッカスのそこかしこには、光が宿っていた。花弁の先に、おしべとめしべに、すっと伸びる茎に、線形の葉に、その裏側に。これは光で作られた花なのだ、と言葉ではなく理解する。目の前に切り取られた四角い世界は、まばゆい光に包まれていた。
 三好一成の描く絵だ、と天馬は思う。他でもない一成が、希望を形にするのなら。これから先の未来を描くなら。これから訪れる季節を――春を希望と呼ぼうとした蒼生の心に宿る絵なら。一成が描く世界は、こんな風に光にあふれている。
 一成はいつだって、光を掲げて立っている。明るくぴかぴかした笑顔で、暗くなりそうな雰囲気を打ち破って。楽しい、嬉しい、大好きを隠すことなく表に出す。その明るさに、何度救われたかわからない。
 同じくらい、奥底に宿るやさしい光も知っている。普段あまり見せることはないけれど、静かで聡明な、やわやわとにじむ光で。何もかもをやわらかく抱きしめるように、一成は寄り添ってくれた。
 光をまとって、一成は笑うのだ。泣きたくなるほどのまばゆさで、包み込むやさしさで、いつだってどんな時だって、確かな光を身に宿していてくれた。
 そんな一成だからこそ、こんな風に光をすくいとって絵筆に込める。きらきらと、たおやかに。降り注ぐ光を、こぼれでる輝きを、丁寧に紡いで一枚の世界を描き上げる。
 こんなにも光に満ちた絵を、天馬は知らない。一成だから描ける。蒼生を演じる一成だから描き切った一枚だと、ただ理解していた。
 それは恐らく、周囲の人間も同じだった。一成が掲げたクロッカスの絵を、誰もが声もなく見つめていた。長い沈黙が漂う。
 だけれど、どんな気まずさもなかったし一成とて理解していただろう。一心に絵を見つめているからこそ、全身で絵を受け取っているからこそ、どんな言葉も声になることはないのだと。
 誰も何も言わない。外を走る車の音や、事務室から漏れ聞こえる声だけが時間の経過を知らせている。どれほど経った頃か、染井監督が動いた。足を踏み出し、一成の絵に近づくと真正面から向き合ったのだ。
 じっとクロッカスの絵を見つめる。視線は強く射るようでもあり、同じくらいに慈しむようでもあった。何も言わず、ただ光のあふれる世界を見つめている。
 しばらくの間、誰もが沈黙に身を浸していると、染井監督の唇から声がこぼれた。誰かに聞かせるための言葉ではなかった。ただ、心が形になった響きで言う。

「――蒼生の見た希望は、春の形をしている」

 絵だけを見つめて、染井監督は言った。他の何も視界には入っていないような。まるでここには絵と自分だけしか存在しないような、そんな響きの声だった。
 以前、染井監督は一成に言っていた。クロッカスの絵は希望なのだと。春を象徴する花だからこそ、希望を感じさせる必要がある。未来の二人を思い描いた光景として、春の風景を形にしてほしいと画家には伝えたと。
 だからクロッカスの絵を描けばいい、というわけではないことくらい一成も理解していた。単なる風景画ではないのだ。春のような景色は必須だけれど、奥底にあるものを丹念に見つめなければいけない。
 その結果導き出したもの。一成の答え。
 光のあふれる春を待っている。二人の未来にはこんな景色が広がっている。そう信じることは、蒼生にとっての決意だ。遼一郎への限りない愛の言葉だ。
 一成は全てを絵筆に込めた。光のあふれる春を、そこに宿る想いを。二人で生きることを希望と呼ぼうとした蒼生が心を重ねたなら、この絵は。

「二人で生きることへの、限りない祝福の形をしている」

 揺れる声で、染井監督は言った。ただ、自身の心からあふれでるような。奥底に宿ったものが、思わず声になったような。そんな言葉だった。
 一成に向けて発せられたものではないことは、わかっていた。それでも、染井監督の反応は充分な答えだった。こんなにも無防備に、心をさらけ出すような言葉が落ちる。その事実で理解する。
 一成の絵は、真っ直ぐ届いた。一成の出した答えを、染井監督は目の前の絵から確かに受け取ったのだ。
 染井監督の反応に、天馬は内心で息を吐いた。
 一成には言っていないけれど、染井監督は次善の策としてツテのあるギャラリーへ絵の貸し出しを打診していた。もし、一成の絵が満足いく出来ではなかったら、代替として借り受ける予定だった。どうやら予定は白紙になりそうだ。
 染井監督は微動だにせず、じっと絵を見つめていたけれど。しばらくしてから我に返ったような顔で、一成に向き直る。
 体ごと相対すると、「ありがとうございます」と頭を下げた。さらに、いつもの柔和な表情に、凛とした空気を漂わせて続けた。

「想像以上のものを描いていただきました。これは、確かに蒼生が見た絵です。ぜひ使わせてください」

 きっぱりとした言葉。一成は数秒黙ってから、じわじわと笑みを広げる。大きな声で「はい!」とうなずいた。頬を紅潮させて、嬉しそうな様子に天馬の唇に笑みが浮かぶ。本当によかった、と横顔を見つめていると、視線に気づいたらしい一成が顔を動かす。
 ばちりと目が合って、一成はほっとしたように笑った。幼い子供のような、あどけない笑顔。ああ、できるなら今すぐ抱きしめてやりたい、と思うけれど人前でそんなことはできないので、もどかしくなる。

「本当に――短い時間にもかかわらず、よく絵を完成させてくださいました。しかも、想像以上のものをです。これは、もう少し絵の出番を増やしたいですね」

 心から、といった調子で言えば助監督からも「いや、本当にそうです」という声が上がり、技術部のチーフカメラマンも同意を返す。

「これは撮影のし甲斐がある絵ですよ。美術館だけに留めるのはもったいない」

 そんな言葉を皮切りに、スタッフたちの間で一成の絵をもっとフィーチャーするべきではないか、という議論が始まる。興奮した様子は、一成の絵が想像以上の力作だったからだろう。
 一成の実力を疑っていたわけではない。日本画家として活躍しているのは周知の事実だし、確かな実力で名前を知られているのだ。しかし、今回の絵は長く構想を練ったわけではないし、制作時間も限られている。油彩画に寄せるとは言っても限度はあるはずだ。だから、決して楽観視することはできなかった。
 しかし、蓋を開けてみれば蒼生が見た絵として、この上もない説得力のある絵が現れたのだから興奮するのも仕方がなかった。これなら、映画は最高の出来になるという確信を生むには充分だったのだ。
 何より、ここにいる誰もが映画作品という芸術に魅せられて生きている。種類は違えど、目の前の絵は、確かな実力によってこの世に生み出された芸術だ。宿る情熱が伝播して、自分たちの作品に向かっていくのは、当然のことと言えた。

「そうですね。まずは、今日のロケで長回しの時間を多く取りましょう。いろいろな場面で、絵を撮影する必要がありますね」

 スタッフの言葉に染井監督は丁寧に答え、指示を出していく。スタッフは真剣な面持ちでうなずき、一成の絵を高く評価していることが伝わった。
 そんな様子に、一成の唇はほころぶ。嬉しいような照れくさいような、くすぐったい気持ちで笑みがこぼれていく。
 全力を尽くしたのは確かで、持っているものは全て使った。力は全部出し切った。それが確かに報われたのだ。疲労も不調も消え去ってはいないけれど、胸がいっぱいで誇らしい。ふわふわとした高揚感に包まれた一成は、ぎゅっと拳を握った。