スウィートホーム・シンフォニー 24話
ロケバスは高原へと出発した。必要なシーンは、今日中に撮り終えなくてはならない。スケジュールに余裕があるとは言えず、到着するや否やすぐに撮影が始まった。
一成の最初のシーンは、絵の飾られた美術館への道中の場面だ。
もともと雨天として設定されたシーンで、ロケ地の天候によっては雨の演出が加えられることになっていた。雲一つない晴天では、人工的に雨を降らせても不自然さはぬぐえない。その場合は天気の設定を変更する予定だったけれど、幸い現地の空はどんよりとした雲が立ち込めていた。
曇天であれば、違和感なく雨を降らせることができる。これなら問題ないと判断した染井監督は、キャスト・スタッフに雨のシーンとして撮影することを告げた。
メイクや衣装の準備を整えた一成は、現場に入りスタッフへ挨拶をする。いくらかのやり取りを交わしたあと、染井監督は物憂げな顔で口を開く。
「予定通りの画が撮れそうでありがたいのですが……あまりのんびりと撮影はできそうにないですね。にわか雨の予報が出ています」
曇天であるからこそ、人工的に雨を降らせても自然な映像を撮影できる。ただ、雨に濡れると機材に影響が出てしまうため、天気が崩れたら撤収しなくてはならないのだ。一成はこくりとうなずいてから、口を開く。
「西の方に黒い雲があるのは気になります。でも、すぐに降り出しそうな感じではないみたいだし、まだここは明るいです」
見上げた空は雲で埋まり、青空はかけらも見えない。ただ、完全な黒雲というわけではなく、まだ雨が降り出すには猶予があるような明るさを持っていた。
恐らく撮影終了までは持つのではないか、と希望的観測含めてそう言う。染井監督は一成の言葉に、「そうですね」と唇に笑みを上らせた。
「――それでは、早々に撮影へ入りましょう。三好さんの準備はできていますか」
「ばっちり! いつでもオッケーです!」
指でオッケーマークを示すと、染井監督はこくりとうなずいた。周りのスタッフにもあれこれと指示を出している様子を見守る一成は、心の中でそっと言葉をこぼす。
(ばっちり仕上げてもらったから完璧だよねん)
思い出しているのは、メイクを施された時の会話だ。連日の疲労に加え昨晩の徹夜がたたって酷い顔をしていた自覚はある。もしもここに莇がいたら、辛辣な言葉がいくつ飛んできたかわからない。
ただ、映画のメイク担当スタッフは気頃知れた仲とは言え、言葉は選んでくれた。それに、一成が無理をした理由はよくわかっているのだ。
アクシデントによって失われた、作品の鍵となる絵。一日のみの撮影のため、どうしても今日中に用意しなくてはならなかった。
だからこそ、全ての時間と能力を使って一成は絵を描いた。結果として無理をすることになったものの、きちんと絵を仕上げてきたことはスタッフ全員知っていた。だから、あとは自分たちの番である、とメイク担当は力強く言ってくれた。
メイクの魔法なら、ずっと前から知っている。MANKAIカンパニーの舞台で、莇によって施されたメイクは、役を生きる自分たちの背中を何度だって押してくれたのだ。
だから、今日の撮影だって心配は要らなかった。プロの手にかかれば、顔色の悪さも寝不足のクマもどこにもない。画面の中で確かに生きる、蒼生の姿が完成したのだ。
(全然調子悪そうに見えないし、プロ魂マジでありがたいな)
蓄積された寝不足と疲労が、体にのしかかっていることはよくわかっている。少しふらつく自覚もあった。しかし、メイクを施されて衣装に身を包んだ自分は、至って健康な蒼生だったのだから、プロの仕事のありがたみを心から実感したのだ。
(ちゃんと雨も降らせられるし、いいシーンにしよう)
どんな天候にせよ対応できるよう、演技プランは組み立ててある。ただ、予定通りに雨のシーンが撮れるとなると、やはり気合いが違ってくる。
メイクもきちんと雨に対応したものを施されているし、たくさんの人の手を経て今ここに蒼生として立っている。あとは演技で応えるだけだ。
一成は集中力を研ぎ澄ませながら、撮影の開始を待っている。
降りしきる雨の中を、蒼生は歩いている。
目的の美術館は、バス停から歩いて二十分ほどの場所にあった。歩き始めてしばらくすると、突然雨が降り出した。
周囲は木々に囲まれており、山の入り口とも言えるような場所だ。美術館までの道のりには店らしい店もない。傘を持たない蒼生は、ただ濡れるしかできなかった。
しとしとと降る雨が全身を濡らしていく。
強い雨ではなかった。それでも、傘も差さずに歩き続ければしとどに濡れる。髪の先から雫が滴り落ち、着ていたダウンは水分を吸って重くなる。靴にまで水が入り込み、足取りはいっそう緩慢になった。
自分が何をしているのか。何をしたいのか。うつろな表情で、蒼生はのろのろと足を動かす。
遼一郎のことや、これからの未来のこと。喧嘩別れのように飛び出してここまで来たのだ。決して明るい表情は浮かべないはずだ。
雨に濡れる不快さだけではなく、二人の関係性を憂えているからこその雰囲気を醸し出しながら、一成はのろのろと足を進めた。
事前に告げられた道順を通り、一本道の道路を途中で右に折れる。こんもりとした木々が生えた区画は駐車場だったが、映画ではこの先に美術館があることになっていた。
実際の美術館までの道のりはカメラを入れることが難しいため、今回のロケの拠点となるスタジオ近くで、徒歩のシーンは撮影しているのだ。編集で上手くつなぐのだろう。
「カット!」
駐車場に入って数十秒後、よく通る声が響いて一成はほっと息を吐く。放水による雨はすでに止んでいるものの、濡れ鼠になったことは変わらない。今来た道を戻ると、衣装担当スタッフが大量のタオルを持ってきて、水分を含んだダウンを脱がせていく。
「憂いの表情が強めの蒼生でしたね。これも悪くはありませんが、別のパターンも試したい。憂いや不安の底に、決意を秘めた表情がほしい」
「わかりました」
モニターを見つめた染井監督に言われて、一成はすぐに演技プランを変更する。
感情の抽出割合を調整するイメージだ。凛とした強さをにじませるけれど、表に出しすぎることはしない。憂いや不安は少し控えめに。
バランスを考えている間に「着替えの準備できました!」と声が掛かる。雨のシーンを何度も撮るため、一成の衣装は何組もそろえられていた。
乾いた洋服で始まらなければおかしいし、夏場とは言え全身が濡れたままでは風邪を引く可能性もあるからだ。一成は染井監督に会釈をしてから、「今行きます」と駆け出した。
数パターンの撮影を繰り返して、ようやくOKが出た。染井監督が満足げにうなずき、スタッフたちは慌ただしく動き始めた。
予報の通り天気は下り坂で、黒い雲が頭上には立ち込めていたからだ。雷の音が聞こえ始めていて、いつ降り出すかわからない。
「撤収急いで! 機材濡らすなよ!」
ばたばたと撤収していくスタッフの中、制作部スタッフに伴われて一成もスタジオに戻る。雨のシーンの撮影は終わった。逐一着替えをしたとは言っても、何度も水に濡れたことは間違いない。体を温めるという意味で一度シャワーを浴びることになっていた。
「奥になってしまうんですが、すみません」
「大丈夫だよん! てか、ちょっと濡れたままなんだけど平気?」
どうせシャワーを浴びる時に脱ぐのだから、というわけで、タオルで拭きはしたものの着替えはしていない。滴るほどではないとは言え、濡れた服の人間が動き回って問題はないのだろうか、と思ったのだ。
「水浸しというわけではないので、大丈夫だと思います。機材があるようなスタジオではないですし……」
言いながら案内されたのは、こぢんまりとしたビルといった趣の建物だった。大きな倉庫のようなスタジオではなく、会議室や事務室などが入っているという。
中に入ると、廊下を薄ぼんやりとした明かりが照らす。天気が悪いせいでぐっと暗さが増したように思えた。
「この奥です」というスタッフに案内されて廊下を進むと、たん、と音がした。
視線を向けると、雨粒が窓を叩く。たん、たたん、たたたん、と雨粒は大きくリズミカルになり、しまいにはざあざあと叩きつけるような雨となった。
さらに、うなるような雨音にも負けじと雷が響き渡る。轟く雷鳴と光はほとんどタイミングにズレはなく、近い場所で鳴っているようだ。
「結構荒れてる感じだねん。撤収間に合ったかな」
「機材班はすぐに戻ったので大丈夫だと――ああ、ここですね」
スタッフが電気のスイッチをぱちり、と押した。人工的な明かりは、シャワーブースへつながる扉とその前の空間を照らした。着替えやタオルは用意されているので、それを受け取ってシャワーを浴びればいいのだ。
「私はここで待っていますので、しっかりあたたまってくださいね。本当ならお風呂を用意できればよかったんですけど」
「撮影中にシャワー浴びられるだけで充分! ありがとねん!」
朗らかに言って、着替えやタオルを受け取った時だ。頭上の明かりが点滅して、数秒ふっと消えた。
次の瞬間、辺りが光に包まれる。間髪を入れず何かを叩きつけるような音が響き、全ての明かりが消えた。
「えっ!?」
「……停電っぽい?」
夜ではなかったことが幸いして、完全に暗闇に閉ざされたわけではなかった。スタッフがきょろきょろと辺りを見渡す様子も視認はできる。
ただ、全てが薄墨色に染まったようにはっきりとしない。電気が落ちたのも確かなようで、雨と雷鳴に混じって、あちこちから慌ただしい声が聞こえてきた。
「雷が落ちたみたいですよね」
「っぽいよね。撮影大丈夫かな」
「非常電源もありますし、すぐに復旧すると思うんですけど……」
言いながらスタッフは胸元からペンライトを取り出した。いつでも常備しているらしく、一成は「さすが~!」と誉めそやす。スタッフは照れたように「暗い所での作業もあるので……」と言いつつ、シャワールームの入り口付近を照らした。
どうやらそこに給湯器のスイッチがあるらしい。ただ、いくら電源ボタンを押しても反応しないようで顔を曇らせる。
「――三好さん、すみません。停電が復旧するまでシャワー使えないみたいで……ひとまず体拭いてください!」
焦ったような声で言うのは、一成が未だに濡れたままの格好をしているからだろう。
すぐにシャワーを浴びられるなら特に問題はない。ただ、このまま停電が長引くことになったら、濡れたまま過ごさなくてはならないのだ。
ある程度タオルで拭いたとは言え、服や髪などはじっとりと濡れている。ドライヤーの類も当然使えないので、乾かすための手段もない。
「タオルもこれだけじゃ足りないしあと何か体を温めるものとか持ってこないと……!」
「真冬ならともかく、夏だし大丈夫じゃない? もうちょっと待ったら直るかもだし」
今にも駆け出しそうな様子に、一成はそう答える。焦ったような雰囲気が漂っていて、このまま飛び出していっては何か失敗をしそうに思えたからだ。
落ち着かせる意味あいで声を掛けると、スタッフは数秒黙る。それから「そうですね」とうなずいた。焦っても仕方がない、ということに思い至ったらしい。
「確かにもう少し待ったら直るかもしれないですけど――三好さんが暗い所平気なら、中で着替えとかしててください。タオルももう少し持ってきますね」
「おけまる~。ちょっと着替えてんね」
「はい。あ、でも、そのタオルだけじゃ足りなかったら、申し訳ないんですけど着替えるのちょっと待っててください。ちゃんと水分拭かないと意味ないですし」
「りょっす!」
軽やかに答えると、スタッフは恐縮しながらシャワールームを出て行った。一成はその背を見送ってから、シャワーブースへつながる扉を開く。
薄暗いとは言え、一応物の形は判別できる。手前のブースへ入り、濡れた服に手を掛ける。
(――テンテン、撮影大丈夫かな)
一成が雨のシーンを撮影している間、天馬はスタジオセットで遼一郎の親戚と対峙する場面を撮っているはずだった。しばらくは蒼生とのシーンがないので、その間にシャワーを浴びる算段だったのだ。
非常電源なり何なりで撮影は続行されているだろうし、アクシデントにも強いから心配する必要はないのだとわかってはいたけれど。
(何にもないといいな)
順調に撮影が進んでいてほしい、と思うのは至って自然な心の動きだ。天馬に憂いや障害がないことを願うのは、一成にとって息をするのと同じようなものなのだから。
(テンテンのことだから、アクシデントもいい感じに利用しちゃいそうだけどねん。メイキング見るの楽しみだな)
メイキングカメラは、天馬の撮影の方へ同行していた。アクシデントへ対応する様子もばっちり撮影してくれているだろう。
天馬の姿を想像した一成は、ふふ、と笑いながら濡れた衣服をはぎ取った。想定外に長く濡れていたからか、体はすっかり冷えている。手足や頭の先まで冷たくなっていて、一成は思い切りくしゃみをした。