スウィートホーム・シンフォニー 25話
スタッフが大量のタオルを持ち返ってきてからほどなくして、停電は復旧した。熱いシャワーを浴びて、新しい衣装に着替える。ドライヤーで髪も乾かして、すっかり装いをあらためた一成は、次の撮影に向かう。
今日のメインとも言える、美術館での撮影だった。第一陣はすでに出発しており、あとはスタッフ数名とキャストが合流すれば撮影が開始される。一成は指定されたロケバスに乗り込んだ。
バスにはすでに天馬や他のスタッフが乗っていた。天馬の隣は一成だろう、というのは暗黙の了解になっているので、笑顔でスタッフに挨拶をしてから天馬の隣に座った。
すると、一成の顔をまじまじと見つめた天馬が口を開く。眉根を寄せて「一成、お前……」と声を潜めて名前を呼ぶので。
「やっぱテンテンにはバレるよねん」
一成は、苦笑を浮かべて答えるしかなかった。スタッフには気づかれていないだろう、という自信はあった。明るい笑顔の裏側にいろんなものを隠しておくのは得意だったから、不調の気配を微塵も感じさせないことくらいできる。
ただ、天馬に通じるとは思えなかったし、結果は案の定だ。
「大丈夫だって。熱とかはないし何かちょっとふわふわするだけだから」
スタッフたちは少し離れた位置に座っているから、二人の声は届かないだろう。折よくバスが出発したこともあり、エンジン音に声は紛れる。それでも、声を潜めて一成は言った。天馬はますます眉間のしわを深くする。
「さっきの停電でさ、なかなかシャワー浴びられなかったのが良くなかったかも」
熱いシャワーを浴びて、着替えも終えた一成はどっと押し寄せるような疲れに襲われた。何だか体が上手く動かない気がしたけれど、時間が経てば戻るだろうと思った。
しかし、予想は容易く覆されて、むしろ力の入らない感覚は強くなる。なんだか風邪の引き始めのような――と思った一成は、こっそりと体温を測った。
結果としては平熱だったし、喉が痛いだとか鼻が詰まるということもない。それならきっとこれは気のせいだ、と思いたかったのに。
「めまい以外には何かあるのか」
「頭が痛いかな~っていうのとちょっと寒いかも」
天馬の問いに一成は素直に答える。天馬に不調を隠し通せるとは思っていないので、ロケバスに乗るまでに感じたことを伝えた。天馬は大いに顔をしかめてつぶやく。
「ただでさえ本調子じゃないからな……。疲れがたまってる所に体を冷やしたとなると、体調を崩すきっかけになる可能性はある」
期日までに絵を仕上げるため、一成はだいぶ無理をしていたのだ。それに加えて、今日のアクシデントである。
普段であれば、さして大事にもならなかっただろう。しかし、疲労困憊の体には大きなダメージになってもおかしくない、と天馬は思った。
「うん。ちょっとタイミング悪かった感じ」
明るい口調で言うものの、どこか無理をした空気が漂っていた。天馬はその顔をじっと見つめる。
言うべき言葉は、いくつも頭に浮かんだ。体調が悪いなら無理をするべきではない。撮影の延期を提案するのが妥当だ。大事を取って休め。
正しい言葉は確かに浮かんでいるのに、すぐ口に出すことができない。理由ならわかっていた。同時に、一成が考えていることだって天馬には手に取るようにわかっていた。
恐らく一成も、天馬の考えていることは理解しているのだろう。
二つの視線が混じり合い、声ではなく思いを伝え合う。正しい答えはわかっている。不調を押して撮影に臨む選択肢を取るべきではない。理解しながら一成は口を開く。
「撮影はできるよ」
天馬の目を真っ直ぐ見つめた一成は言う。力強く、凛とした響きで。今ここで選ぶのは、正しさではないのだ。進む方向は、最初から一つだけだということは、天馬だってわかっている。
だって、天馬は言っていた。心から伝えてくれた。
思い出すのは、一心不乱に絵を描いていた時のことだ。天馬が帰ってくるまで、時間の経過も気づかずにキャンバスへ向かっていた。あの時の天馬の言葉。
無理をさせたいわけじゃない。だけれど、どうしても無理をしなくちゃいけない場面はあると知っている。それに一成なら、きっとどんなハードルだって乗り越えられると信じている。だから天馬は一成の力になるのだと伝えてくれた。
「万全の体調じゃないかもしんないけど、熱があるとか倒れそうってわけじゃないし。それに、美術館の撮影は今日だけしかできない」
淡々とした口調で告げるのは、純然たる事実だ。
快調ではないものの、発熱しているだとか立っていられないというわけではない。そして、これから向かう美術館での撮影は、一日だけ許可されたものだ。今日を逃しては、撮影の機会は一切ない。
この状況なら、答えなんて一つだ。物語のクライマックス。二人の未来を決定づけるシーンにふさわしいのが、これから向かう美術館だ。二人の物語に欠かすことのできない場所だとわかっている。
「絶対最後までやりきる。今日の撮影は必ず成功させる」
強い瞳で告げられる言葉。一成は今まで、どんな約束も守ってきた。できると言ったなら、必ず実現してきた人間だと知っている。
何より、訴えかける言葉の切実さを、天馬は痛いほどに感じていた。逆の立場だったとしても自分は同じことを言うだろう、という自覚もあった。
「わかった」
天馬は一つ息を吐くと、一成の額に手を伸ばす。手のひらをあてて、ひとまず熱がないことを確かめると口を開いた。
「確かに熱はないな。それに、撮影を続けたいって気持ちも充分理解できる。今日を逃すと撮影できないのも事実だし、今回のシーンは作中でも重要な意味がある」
これから撮影するのは、美術館で再会を果たした蒼生と遼一郎のシーンだ。互いの思いを確かめ合った二人の象徴であり、未来への誓いを懸ける場所として美術館は登場する。
ラストに向けてのクライマックスと言えるシーンであり、そのための完璧な舞台設定がこれから向かう美術館なのだ。
「オレだって、撮影を延期したいわけじゃない。撮影はできるんだな?」
「うん。ちゃんと最後まで演じられるから、やらせてほしい」
凛とした答えに、天馬はうなずいた。ひとまず、一成の体調不良はここだけにしておいてやる、と言うので一成は顔を輝かせた。
「テンテンならわかってくれると思ってたよん!」
「そうかよ。ただ、本当にマズイと思ったらオレの判断で中断する」
一成の言葉に答えた天馬は、きっぱりと告げる。そこまでの不調ではないようだ、と判断したのでこのまま撮影には臨む予定だ。
ただ、予想外に体調が悪化する恐れはある。もしもそうなったら、一成が何を言っても問答無用で撮影は中止にする、と強い声で言った。一成はこくりとうなずく。
「うん。テンテンの判断に従うよ。ばっちり信用してるかんね!」
真面目な顔から一転して、冗談めいて答えるけれど。これは至って素直な一成の本心だ。天馬のことなら、ずっと前から信じている。一成のためを思っての行動であることは疑っていないし、引き際だって見極めてくれるだろう。
「テンテンがいるから、ちょっと無茶ができるんだよねん。ありがと!」
「信用されるのは嬉しいけどな。ほどほどにしろよ」
「おけまる~」
軽やかに笑えば、天馬も苦笑めいたものを浮かべる。そんな二人を乗せて、バスは美術館へとひた走る。
スタジオから三十分ほどロケバスで揺られて、目的の美術館に到着した。
うっそうとした木々が茂る中に突如として現れるのは、三角屋根が特徴の小さな建物だった。壁面に施された、石のモザイクアートがアクセントになっている。中央の三角屋根部分の窓は大きなステンドグラスになっており、幻想的な雰囲気も漂わせていた。
館長にそろって挨拶をしてから、一通り館内を案内してもらう。先に到着していたスタッフたちとは、ずいぶん打ち解けたようだ。一行の様子をメイキングカメラが余すところなく撮影する。
個人でそろえた絵画は独特の審美眼が発揮されており、有名な美術館とはまた違った趣があった。
一成は興味津々といった体で鑑賞していたし、館長も日本画家三好一成のことは知っていたようで、思いの外話が弾む。その様子を見守る天馬は、つくづくこいつのコミュニケーション能力はすごいな、と感心していた。
「ここが今日のメインですね。三好さんの作品を飾らせていただいています」
館長が案内したのは、三角屋根の部分にあたる場所だ。
木製の両開きの扉を開く。広がるのは、天井が高く奥行きのある部屋だった。落ち着いた色合いの木がふんだんに使われて、シックな雰囲気が漂う。
中央に一本通路が通り、通路の両脇には長椅子が整然と置かれている。突き当たりは大きな窓になっており、あざやかなステンドグラスがはめこまれていた。
「――教会みたい」
ぽつり、と一成がつぶやく。確かに、全体的なアイテムや雰囲気はどことなく教会を連想させる。ただ、美術館であることを示すように、部屋の中央には展示台が一つ置かれていた。
ガラスケースの中にあるのは、一成が描いたクロッカスの絵だった。
「メインの作品はどこからでも見られるよう、このような配置にしております」
館長は落ち着いた口調で、そう言った。椅子に座って、どの角度からでも鑑賞できるように、という考えのもとの配置だという。
基本的に、この部屋には一つの作品しか置かない。じっくり向き合ってほしいという思いからだった。
「鍵となる絵を前に、二人が再会を果たすにはぴったりの場所でしょう」
嬉しそうな声で言ったのは染井監督だった。
美術館のシーンを撮影するにあたって、様々な候補地があった。ただ、どれもがこれだという決定打に欠けていた。ロケ地の選定に難航していたところ、偶然スタッフがこの美術館に辿り着いたのだ。
「最初に見た時、ここだ!と思ったのです。こうして撮影を許可してくださり、本当に感謝しています」
染井監督が頭を下げれば、館長は鷹揚に首を振った。染井監督を始めとしたスタッフの熱意によるものである、いい映画を撮ってほしい、と答える。
その言葉に再度礼を言ったあと、いくつかの注意事項を聞く。事前に知らされていたことの繰り返しではあるけれど、スタッフもキャストも真剣な面持ちで耳を傾けている。
一通りを語り終えたあと、館長は「それでは」と頭を下げる。部屋を辞すのと同時に、スタッフたちがめいめい動き出す。撮影が始まるのだ。