スウィートホーム・シンフォニー 26話






 撮影は順調に進んだ。
 雨に濡れた蒼生は、美術館の好意でタオルや着替えを借りることができた。人心地ついたあとここを訪れた訳を話し、クロッカスの絵と対面するのだ。
 他に客はいなかった。部屋の中で一人絵を見つめていると、遼一郎が現れる。
 蒼生の行方を探していた遼一郎は、クロッカスの絵のことを聞く。美術館の場所を尋ねていたことから、目的地に見当をつけてあとを追ったのだ。結果として蒼生を見つけて、互いに謝罪の言葉を伝えるシーンは撮り終えた。

 一度カットがかかり、モニターのチェックを行う。問題がないことを確認すれば次のシーンに移る。蒼生が自分の気持ちを、遼一郎へ告げる場面だ。
 普段あまり感情を表に出さない蒼生が、このシーンでは心の内をさらけ出す。感情を高ぶらせる場面でもあるので、一成は長椅子に一人で座って神経を集中させていた。
 役作りの精度を高めるためにも、センシティブな感情を呼び起こす必要がある。心が揺れ動いて、思わずこぼれていくようなシーンなのだ。
 どんな場面であるかは、周囲もわかっている。だから、一人で集中する一成に誰も声を掛けない。ありがたかった。純粋な役作りという意味でも――体調に気づかれる心配がないという点でも。
 撮影中から薄々気づいてはいた。少しずつ、ゆるやかに体調が悪化している。倒れ込むようなものではないものの、じわじわと体温が上がる感覚。頭の痛みが増している。体の芯がぶるりと震える気がした。
 天馬とて気づいているのだろう。他にわからないよう、一成に具合を問いかけた。素直に「ちょっと悪くなってる」と答えたものの、カメラが回れば体調不良は嘘のように消えているのも事実だ。
 蒼生になる。その瞬間、自分自身は切り離されて不調は嘘のようになくなっていく。
 一成の演技を受け止めている天馬は、それを強く理解していた。だから、心配そうではあるものの、撮影の中止を口にするようなことはなかった。実際、一成の演技に問題はなかった。

(――蒼生もちょっと体調悪いかなっていうのもあるし)

 作中で雨に濡れたことは事実だし、まだ寒い時期なのだ。台本で明言されてはいないだけで、多少の不調があってもおかしくはない。
 遼一郎と仲違いのように家を飛び出してきた後ということもあり、精神的な面でも不調を感じやすい状態ではある。

(遼一郎が来てくれて嬉しかったけど、混乱してる。押しとどめるものが何にもない)

 台本を読み込んで、蒼生の感情を何度もシミュレーションした。この時どんな気持ちだったのか、何を考えていたのか。自分の中に作り上げた蒼生の姿をなぞっていく。
 クロッカスの絵を見ながら、蒼生はこれからの未来に思いを馳せた。
 遼一郎と喧嘩をして飛び出したこと。何もかもを捨てて二人で生きようとしたこと。遼一郎が得られるはずだったもの。手放してしまった未来の姿。全てが蒼生の中でうずまいている。

「三好さん、お願いします!」

 掛けられた声に、一成ははっと我に返る。準備が整ったようで、スタンバイを告げられた。一成は返事をして立ち上がると、決められた位置に向かった。
 展示ケースの六十センチほど前。準備を終えた天馬と向き合った。
 とてもよく知る、見慣れた顔。十九歳の時に出会ってから、同じ時間を重ねてきた。決して最初から親密だったわけではないけれど、お互いの気持ちを伝え合って夏組として特別なつながりを結んだ。
 初めて自分の本音を受け止めてくれた。大事な夏組の、大事な一人。

「いよいよだな。準備はいいか」
「もちろん、ばっちりだよん!」

 明るい笑顔で答えれば、天馬も白い歯をこぼして笑った。
 強いまなざしは未来を見据えて、きらきらと輝く。これから始まる芝居を前に、挑みかかるような雰囲気と真摯な情熱を燃やす様子に、一成は「テンテンだなぁ」と思う。
 演技に真剣な努力家で、現状に満足することなくいつだって空高く駆け上がろうとする。その力強さに引っ張られて、夏組はどこまでだって高く飛んでいくのだ。そんな天馬と共にいられることが嬉しかったし、誇らしかった。

「――テンテンこそ、用意はオッケー?」
「誰に聞いてるんだ。当たり前だろ」
「だよねん」

 イタズラっぽく尋ねれば、傲然とも言える様子で答えが返る。一成はくすぐったい気持ちで笑った。
 ずっと天馬と歩いてきたのだ。大事な仲間として友達として。それから、人生を共にするたった一人として。
 今日に至るまでの日々を、一成は一つだって忘れはしないだろう。天馬と過ごした友人としての日々も、もう一つ別の名前を与えあった日々も。
 決して平坦な道のりではなかった。友達の顔に戻るべきだと思ったし、手を放す選択の正しさも理解している。実際行動にも移したし、そのままただの友達として天馬の近くにいるつもりだった。
 だって、天馬の隣に立つのに自分はふさわしくない。
 男同士で人生を共にすること。これから先の未来で、互いを特別なたった一人にすること。必ずしも多くの人に祝福される関係性ではない。きっと自分の存在は、天馬にとっての傷になる。
 二人の関係が公表されたなら、心無い言葉を向けられ、嫌悪や拒絶を示される。一成のせいで天馬は傷つくのだ。
 わかっていても、一成は選んだ。
 傷つけて悲しい顔をさせても、それでも一緒に生きたい。これから先の人生で、天馬を一番大事にするのは自分でありたかった。悲しい時も苦しい時も、幸せな時も、一番近くにいたかった。
 どんな未来を歩むとしたって、これから先の何もかもを分かち合う。天馬の手を取って、一緒に生きることを選んだのだ。

(蒼生も知ってるよね)

 自分ではない自分自身に、一成はそっと声をこぼす。一緒に生きたい人を知っている。共に人生を歩むことで相手に失わせるものも理解している。それでも共に生きたくて、互いの手を取り合って逃げ出した二人だ。
 間違っているのかもしれない。正しくないのかもしれない。わかっていても、自分の心と相手の心だけは確かだった。その最後の終着点こそが、これから演じるシーンだ。
 慌ただしく動いていたスタッフたちの動きが、少しずつ落ち着いていく。声や身じろぎの音が消え、現場の空気が張り詰めていく。
 天馬に目を向ければ、すっと雰囲気が変わっていくのを察した。天馬から遼一郎へと塗り替えられていく顔に、一成は息をこぼす。吐き出す息は冗談みたいに熱くて、熱に浮かされるように一成は思った。

(――蒼生になる)

 目を閉じて、蒼生の姿を溶け込ませていく。オレは蒼生だ。蒼生はオレだ。この感情を知っている。蒼生の答えは、蒼生の言葉は、オレのものだ。これはオレの声。オレの心。
 普段一成は、客観的に役を演じることが多い。理性的な思考回路で、一つ一つをコントロールする芝居がメインだ。
 だけれど、今この瞬間は少しばかり様子が違うという自覚はあった。
 もともと二人の関係が天馬と一成をベースにしていることも関係しているのだろう。加えて、普段よりも体調のコントロールが上手く行っていないことや、センシティブな役作りも拍車をかけた。
 蒼生の心情がダイレクトに重なってくるような、自分自身と蒼生が溶け合って混ざり合っていくような感覚があった。

(これはオレの、オレと蒼生の物語だ)

 熱い息を吐き出した一成は思う。芝居のコントロールは忘れていない。恐らくこの場面は、感情をあらわにするのが望ましい。自分自身の奥底から出てきた演技が必要だ。だからきっと、このままでいい。オレはオレの心を芝居に乗せる。
 たぎるような熱を抱えて、一成は決意する。いつもと違う感覚はある。ふわふわとして体が熱い。だけれど意識は不思議と研ぎ澄まされて、何もかもがクリアに見えるような気がした。
 客観的なコントロールも必要なく、ただダイレクトに蒼生の感情や心が伝わってくる。ここに生きているのは一成であり、蒼生だった。
 目を開けた。天馬の――遼一郎の顔をじっと見つめる。
 最初は嫌な人間だと思った。だけれど、本当は純粋で誠実な、愛情深い人間だと知る。大事だった。好きだった。一生大切にしたかった。自身の心を握りしめるような気持ちでいると、声が響く。
 何度も聞いてきた。撮影が始まる合図。カチンコの音がした。一成は深呼吸をする。撮影が開始され、カメラが回り始める。


「――オレは、遼一郎が好きだよ」

 わずかな沈黙を流したあと、一成は震える声で言った。ここまで追いかけてきた遼一郎に向けての言葉。別れを選ぼうとしているのではないか、という疑念を打ち砕くため、蒼生の思いを告げるシーンだ。
 一成はそっと天馬に歩み寄り、恐る恐るといった調子で手を伸ばす。ぎこちない動作で、天馬の体を抱きしめた。

「オレが遼一郎を好きなことは、普通じゃないんだ。変な目で見られるし、気持ち悪いって言われる。わかってる。だけど、遼一郎が好きなんだ」

 泣き出しそうな声で告げる言葉。繊細で、触れたら壊れてしまうのではないか、という雰囲気が端々からにじむ。天馬はそれに戸惑うような仕草をしたあと、一成の背中に腕を回した。強く抱きしめ返した。
 一成はぎゅっと眉根を寄せて、吐息をこぼす。熱い。抱きしめられた腕の力強さが、確かに伝わる鼓動が、ここで生きている命がこんなにも熱い。

「普通じゃいられなかった。おかしいって言われる。目障りなんだって、消えろって言われる。だけど、どうしたって好きだった。遼一郎が好き。好きなんだ」

 ゆらゆらと揺れるまなざしで、吐息を紡ぐような声が一成の唇からこぼれる。愛の告白であると同時に、懺悔のような響きをしているのは、今までに投げつけられた言葉を覚えているからだ。
 それを聞く天馬は、ぎゅっと眉根を寄せて抱きしめる腕に力を込める。同性を好きであること、遼一郎と生きていく選択が、決して歓迎されなかったことを知っている。
 抱きしめられる力強さに、一成も背中に回した腕に力を込める。すがりつくように、腕の中の体を確かめるように、ぎゅうっとしがみついて声をこぼした。

「オレたちを、なかったことにしないで」

 台本に書かれた台詞を口にする一成は、蒼生の演技をしながら思っている。なかったことにしないで。これはオレの言葉だ。オレの心だ。思いながら、泣き出しそうな声で続けた。

「遼一郎が好きなオレは、ここで生きてる。勘違いじゃない。気の迷いじゃない。ここで生きてるオレが、確かに遼一郎を好きなんだ」

 台詞の裏側にあるもの。一成の頭に浮かぶのは、本家で遼一郎の親族と対峙したシーンやファミレスでの一幕だ。
 男同士であることへの否定に、蒼生の気持ちそのものをなかったことにする言葉。最初から存在しないみたいに、やさしい顔で告げられる。

「受け入れてくれなくていい。歓迎してくれなくていい。理解できなくたって、共感できなくたっていい」

 あらゆる全てを受け入れてくれとは思わない。どうしたって、理解できないものはあるだろう。思うことや感じることは自由で、どうにかできるわけもないし、するつもりもない。だけれど、思い浮かぶものがある。
 ファミレスで対峙して、向けられた言葉が頭に響く。
「今ならまだ、全てはなかったことにできる」と言っていた。今戻ってくれば、蒼生との日々なんていずれ忘れられると。二人の日々は小さな傷だ。いずれ跡も残さず消えていく。全ては気の迷いで、交わした心も伝え合った気持ちも、全てはなかったことになる。二人の関係はそれだけのものなのだと。
 あれはきっと、彼なりのやさしさだったのだとわかっていた。遼一郎の未来を思っての言葉でさえある。

「だけど――なかったことにしないで。生きていることを否定しないで」

 震える声で、それでも奥底に強さを潜ませて一成は言った。
 二人の関係をなかったことにしてしまえば、事態は簡単だ。人生を共にする相手ではないのだとさえ言えば、糾弾する必要もない。何もかもをなかったことにして、普通の枠にさえあてはめてしまえば、否定することも攻撃することもしなくていい。
 だから何もかもをなかったことにしてしまえばいい、という提案に、一成は首を振るのだ。
 熱い吐息をこぼして、天馬にすがるように抱きついた一成の頭には、いくつもの言葉が浮かんだ。今ここで口にするべきは蒼生としての台詞だとわかっている。だから決して声にはしないけれど、一成は胸中で言葉をこぼす。

 ねえ、テンテン、どうしてだろうね。オレはテンテンが好きなだけなのに。大好きだって言いたいだけなのに。どうして叶わないんだろうね。

 夏組やMANKAIカンパニーのみんなが受け入れてくれて嬉しかった。家族が当たり前みたいに祝福してくれて嬉しかった。
 周りの人たちに恵まれていることは、よくわかっている。実際、一成は何度だってその幸福を噛みしめたし、ずっとずっと感謝している。
 だけれど、時々忍び寄る思いがあった。仕事関係の知り合いや、学生時代の友人たち。嬉しそうに恋人の存在を語る時、結婚するのだと伝えられた時。
 知った人の幸福は、一成にとっても喜ばしいことだから、心からおめでとうと言えたし祝福の気持ちは本当だ。ただ、同時に思ってしまう。

――どうしてオレは、テンテンのことを話せないんだろう。

 天馬や一成の仕事の関係から、大々的に語ることはできないのだということもわかっている。
 だけれど、もしもこれが異性同士であれば。タイミングはうかがうとしても、いずれ二人の関係を公にする日は来るだろう。きちんと報告して互いが人生の伴侶であるのだと、世間で認知されることになる。
 現状だって、その選択を取ることが不可能なわけではない。ただ、異性同士であることに比べて、あまりにもマイナス要素が多すぎる。同性である、それだけで降りかかる困難やハードルは比べられないほどに膨れ上がる。
 普通ではないからだ。大多数の道から外れるとはそういうことで、少数派でいるだけで攻撃の材料になってしまう。明確な悪意ではなくとも、何の気なしに放たれた言葉や振る舞いが、時として致命的な凶器になる。
 身を守るため、大事な人を傷つけないため、隠し事が増えていく。嘘を吐かなければ、きっと一緒にいられない。言えないことが降り積もって、ありのままに生きることができなくなる。
 本当は何も隠さないでいたい。嘘を吐きたくない。この人がオレの好きな人だと言いたい。これからの人生全部で大切にする人なのだと、大きな声で言いたい。
 それをしないと選んだのは自分たちだ。だからきっと、現状を受け入れなければならないのだと、頭では理解している。わかっているけれど、同時に思っていた。
 口をつぐむことは、全てを甘んじて受け入れたわけじゃない。隠れることを当たり前にしたくない。なかったことにしてしまうのを、肯定したいわけじゃない。
 だからそれなら、と一成は思っていた。最初に台本を読んだ時から。今までずっと身を隠して言葉を隠して心を押し殺して生きてきた、蒼生の言葉を受け取った時から。
 これは答えだ。蒼生に返す言葉で、この世界に生きている蒼生みたいな誰かに告げる、一成なりの答え。
 この世界に生きている、何もかもをなかったことにされようとしている人。今までの道のりで、存在を無視されてきた誰か。見えないことにされても、ここに確かに生きていること。
 そういう全部を抱きしめるのだ。蒼生に告げる答えのように、蒼生の心そのものみたいに、世界の全てへ返す言葉のように。祈るように、エールのように、決意のように、この台詞を口にしようとずっと思ってきた。
 一成は天馬の体を強く抱きしめる。たくましい腕を、広い背中を、かすかに香る天馬の匂いを、耳に残る呼吸の音を、体中に響く心臓の音を自分の体に刻んで、口を開いた。
 泣き出しそうではなかった。視界がにじんで呼吸が震える。だってこれは、オレの言葉だ。オレの声だ。オレの心だ。一成は息を吸う。
 なかったことにしてしまえば簡単で、いないことにしてしまえば楽だ。存在しなくて、視界には入らなくて、消してしまえば、オレたちがいなければ世界はきっとおだやかだ。
 だけどオレたちは生きている。同じ場所で同じ世界で、確かに生きている。だから、どうか。

「オレたちを殺さないで」

 声がこぼれるのと同時に、一成の瞳から一筋涙が流れていった。
 カメラはその様子をしかと映像に収めている。張り詰めたような空気の中、切々とした一成の声が落ちる。震える心が形になったような。あまりにも澄み切って、痛いほどに冴えわたる言葉に、周囲は静まり返っていた。
 部屋の中央で抱き合う二人は、一枚の絵画のように完成されている。
 誰もが動くことなく、静謐な空気だけが流れる。本来であれば、ここでカットがかかるはずだった。しかし、染井監督はじっと二人を見つめたまま微動だにしない。
 すぐに察したのは天馬だった。腕の中の一成を抱きしめ直して、ゆっくりと髪の毛を撫でる。告げられた言葉を噛みしめるように目を細めると、静かに口を開いた。

「――ああ、そうだ。蒼生は生きてる」

 強い声で言うと、腕の力を抜いた。呼応するように一成も力を緩めて、わずかに体が離れる。距離ができて、天馬は一成の顔を見つめた。そっと頬を撫でる。

「蒼生は確かにここでオレと生きてるし、これから先だってオレと生きる。そうだろ?」

 やわらかな笑みを浮かべたあと、こぼれる涙をぬぐった。やさしく、丁寧に、心の全てを指先へ込めるように。
 台本にはない涙だったけれど、遼一郎ならきっとこうするだろうと思っての所作だった。一成の緑色の瞳は、涙で濡れていっそう輝きを増している。
 天馬は静かに息を吸うと、そっと声を紡ぐ。心やさしくて臆病な恋人の心を掬いあげるように、どうかこれから先の道を照らす言葉になりますようにと祈りながら。

「オレたちは一緒なら立ち向かえる。ここにいるって、いくらだって叫んでやる。お前と生きてるんだって、いくらだって言ってやる」

 殺さないで、と告げる言葉に天馬は答えた。蒼生の言葉であると同時に、どうしようもなく切実な一成の声だと知って、心からの言葉を返す。
 普通ではいられなかった自分たち。周囲の人に恵まれて、祝福を受けることができたとしても、隠しておかなくてはならない瞬間は何度だって訪れる。
 共に生きるために嘘を吐くと決めた。それを間違いだと思ってはいないけれど、本当は声を大にしてこの人が大事だと言いたいのだ。
 オレの人生の全てで大切にする。何もかもを分かち合って生きていく。この手を取って共に歩く。いくらだって言いたくて、だけれど口をつぐむことを選んだからこそ。

「否定されたらオレが何回だって肯定する。なかったことにされるなら、オレが何回だってお前を見つける。探すのは得意なんだ。今回だって、ちゃんと見つけられただろ」

 誇らしげに胸を張って言えば、一成は少しだけ沈黙を流したあとでやわやわと笑った。かろうじて笑顔と呼べるような、ささやかなものだったけれど。笑ってくれることが嬉しくて、天馬はさらに言葉を重ねた。

「どこに行ったって、ちゃんと追いつく。蒼生を一人にしない。お前のことを追いかけて、必ず迎えにくる」

 もしも未来が怖くなって、何もかもから逃げ出したくなったって。自分の前から姿を消そうとしたって、必ず追いかけて迎えにいくのだ。だってこれからの未来を、二人で歩くと決めたのだから。
 揺るぎのない言葉に、一成は今度こそ唇をほころばせた。

「――そうだね。遼一郎なら、きっと見つけてくれる」

 何も言わずに出てきた自分を、今こうして見つけてくれたみたいに。臆病で、逃げ出したくなる自分の背中を追ってきっと迎えにきてくれるのだ。どこに行ったって、何をしていたって。
 今までの行動が何よりも告げているから、ただ疑いなく信じられた。
 天馬は嬉しそうな表情で一成を見つめる。その瞳は真っ直ぐとした愛おしさにあふれていて、一成ははにかんで言葉をこぼした。

「ふふ。ガラスの靴はなくても見つけてくれるから、シンデレラの王子様より優秀かもしれない」

 わずかに目を伏せた一成は、照れ隠しのようにそう告げる。
 思い出すのは、図書館で借りてきた本を読み聞かせたワンシーンだ。お伽噺にはあまり縁がなかったのだと、きらきらした目で聞いてくれた。見つけてくれる。迎えに来てくれる。その姿に、お話の中の王子様が自然と浮かんでの言葉だった。
 すると、天馬はいささか不機嫌そうに眉を跳ね上げて答えた。

「好きな相手なんだ。靴がなければ見つけられないなんて怠慢なんだよ」

 憤慨するような口調に、一成は小さな笑い声を上げる。なるほど、そういう発想になるんだな、と思ったからだ。
 天馬はと言えば、一成の笑い声に目を細めると頬に触れていた手をゆるゆると動かした。両手でやさしく頬を包み込み、真っ直ぐ一成を見つめて口を開く。

「でも、蒼生が望むなら王子にだってなってやる。蒼生の王子様はオレだろ?」

 疑い一つなく放たれた言葉。当たり前の事実を告げるような口調に、一成は虚を衝かれた表情を浮かべるものの、すぐに目を細めた。愛おしいものを見つめるまなざしで、やわらかな光をたたえて。

「――うん。そうだよ。オレの王子様は一人だけだ。オレを迎えにきてくれるのは、遼一郎だよ」

 弱くて怖くて逃げだしてしまうオレを迎えに来てくれた人。どこに行ったって、つなぎとめてくれるのは目の前のこの人なんだ。
 そう思いながら一成は、自分の頬を包み込む両手にそっと手を重ねた。天馬が嬉しそうに笑った。きらきらとした輝きを放って、子供のような純粋さで。それが嬉しくて、一成の笑みがいっそう深くなる。

「ああ、どこへだって迎えに行く。だから心配するな。怖くなって逃げ出したっていい。ちゃんと見つける。お前に追いつく。オレたちは二人で生きるんだからな」

 射抜くようなまなざしで告げられる言葉は、誓いのような響きを帯びている。実際これは、人生を共にする誓いなのだろう。
 一成はこくりとうなずく。天馬はほっとしたように息を吐き、少しだけイタズラっぽい雰囲気をひらめかせて続けた。

「でも、たまにはオレも連れていってくれ。追いかけてやるけど、一緒に出掛けるのも悪くないだろ?」

 冗談めいた口調に、一成は苦笑を浮かべる。黙ってここまで来てしまったことを指しているのはわかったからだ。だから、少しだけ申し訳なさそうな響きで言った。

「ごめん、そうだね。今度は遼一郎も一緒に行こう」

 気落ちしたような様子に、天馬は手を動かす。頬を包み込んでいた手の平を外すと、「気にするな」と言うように頭を撫でた。それから、笑いを含んだ声で言った。

「ああ、行きたい場所を考えておいてくれ。今はまだ寒いけど、だんだん暖かくなってくる。出掛けるにはいい季節だ。もうすぐ春だろ」

 軽やかとも言える声で告げられて、一成は数度まばたきをする。それから、そっと口を開いた。一つずつを確かめるような、初めて聞いた言葉をなぞるような響きで言う。

「――春」

 つぶやきとともに、一成は視線を動かす。展示ケースに飾られたクロッカスの絵を、まぶしそうに見つめた。天馬も同じように視線を向ける。
 作中で何度も言及されてきた絵だ。物語の鍵となる作品であり、映画全体の象徴でもあると言えた。だからこそ、今この場面でもクロッカスの絵を観客へ印象付ける必要がある。
 二人はしばらくの間、無言で絵を見つめる時間を取った。急いで台詞を口にしてはいけない。言葉による説明は要らない。視線で、まとう雰囲気で、浮かべる表情で、この絵が特別なのだと伝える。

「クロッカスの花を見に行くのもいいな。もう咲いてる場所もあるんだろ」

 充分な沈黙のあと、天馬はゆっくりと台詞を口にした。まぶしそうに目を細めて、あざやかな花が咲く様子を思い浮かべるように。一成はその声を聞きながら、「うん」とうなずいた。

「きっともう、今の季節ならちらほら咲き始めてると思う」

 ギャラリーオーナーからクロッカスの花については、あれこれと聞いている。記憶を取り出す素振りで答えた一成は、蒼生はきっと、初めてクロッカスの絵を見た時のことを思い出している、と思う。
 たまたま通りがかった店先のショーウィンドウ。飾られた花の絵が目に飛び込んで、突き動かされるように店へ入った。遼一郎と口論になって部屋を飛び出した時にも、この絵が見たいと美術館までやってきた。
 いつだって背中を押したのは、あざやかに焼きついて離れなかったのは。この絵を描く時、筆に込めた思いは。
 一成はゆっくりとまばたきをして、そっと口を開いた。天馬の言葉に、クロッカスを描いた絵に、今ようやく思い至ったみたいに。今まで忘れていた事実を、ついに思い出したみたいに。

「春が来るんだ」

 ぽつりと落ちる声は、ささやかだけれど強い響きをしていた。
 一成は、絵に向けていた視線をゆるりと動かした。ガラスケースから、目の前にいるたった一人へ。天馬も視線に気づいたのだろう。同じように一成へ目を向ける。
 近い位置で、二人は向かい合う。天馬を見つめる一成の胸には、蒼生の気持ちが重なっている。
 凍える冬を超えて、いずれ春は訪れる。あたたかくて、光にあふれた春が来る。永遠の寒さにとじ込められてしまいそうにも思えたけれど、季節は確かに進んでいた。クロッカスは春を告げる花だ。この絵に託した気持ちのように、春は来る。
 永遠の冬に閉じ込められることもない。凍てつく日々は終わりを迎え、やがて花の咲き乱れる春が来る。
 疑いなく信じられる。だっていつだって迎えにきてくれるのだ。まばゆい光とやわらかなあたたかさを持って、両手を広げて抱きしめてくれる。
 一成はにじみだすような微笑を浮かべて、唇を開く。
 ああ、そうか、と思っていた。長い長い旅路の果て、やっと辿り着いたゴールのように。ずっとまぶたを覆っていた目隠しが、ようやく外れたみたいに。胸の奥底からじわじわとにじむ気持ちで思っていた。
 ああ、そうか。目の前のこの人こそが、オレにとっての春だった。いつだって、ずっと春みたいな人だった。
 全ての答えはここにあったんだ、と胸が詰まるような気持ちで言葉を形にする。まるで何かの宣誓のように、初めて愛を口にするように。

「春が来るよ」

 思い描いた希望、望んでいた未来。二人でいること。大事な人と過ごして、笑い合う未来。この絵に託したオレの全ては、ずっとずっとあなただったよ。