スウィートホーム・シンフォニー 27話






 一成の言葉へ呼応するように、天馬は両腕で強くその体を抱きしめる。あふれだす喜びや愛おしさを隠す必要はなかった。
「ああ」とうなずいて、掻き抱く腕に力を込める。一成も背中に手を回して、二人の体はぴたりと重なった。
 言葉は要らない。二人の姿を、回るカメラは静かに撮影し続ける。何もかもが満たされた、幸福な瞬間。丹念に、余すところなく収めていき、ようやく声が掛かる。

「――カット!」

 その途端、一成の体から力が抜ける。ただ、天馬はすぐに察して支えてくれたので、倒れてしまうようなことはなかった。

「よくやった」

 支える腕に力を込めて言うと、一成はふにゃりと笑う。あどけない子供のような笑みに、天馬は思わず頭を撫でる。
 一成が力の全てを注いで蒼生を演じきったことはわかっていた。だけれど、やわらかい髪の毛が汗で湿っていて、触れた額の熱さにドキリとする。
 具合が悪いことは知っていた。それに、今日の一成の演技はいつもと雰囲気が違っていた。
 決して悪い演技ではない。むしろ、普段以上に感情が乗っていて、今この場面で演じられる最高の蒼生だったと言っていい。
 ただ、いつもの一成のような理性的な演技ではなかった。感情を高ぶらせるような、心を直接ぶつけられるような芝居は、一成の調子がいつも通りではないことを如実に示していた。
 カメラが回っている間は、全ての神経を演技に注いでいた。「撮影はできる」と言った通り、何一つ不調を表に出すことはなかった。しかし、カットの声が聞こえた瞬間、張り詰めたものが切れたのだと察した。
 すぐに休ませてやりたかった。一成の体を支えながら、周囲へ視線を巡らせたところで、染井監督が歩いてくる。

「二人の感情が切に伝わるシーンが撮れました。ここまでのものとは期待以上です。身に迫るような、とはまさにこのことで――」

 弾んだ声は、途中で途切れた。衣装やメイクを直そうと周りに集まったスタッフも、戸惑うように立ち止まったのは、一成の様子が明らかにおかしかったからだ。
 抱擁のシーンは終わったのに、二人の体勢は変わらない。それどころか、一成は天馬に寄りかかるようにしてぐったりしており、目を閉じている。

「恐らく、少し熱があります。雨のシーンの撮影のあと、停電ですぐにシャワーが浴びられなくて、体を冷やしたのが原因かもしれません。徹夜も続いていたので」

 体を支えながらそう言うと、一成が目を開けた。茫洋としたまなざしを周囲に送り、そこで染井監督の存在に気づいたらしい。はっとした表情で、慌てて体に力を入れようとするものの、上手く行かない。

「すみません。少し気が抜けちゃって……ちょっと休めば大丈夫です」

 天馬の腕の中にいる状態では、説得力もまるでない。わかっていたけれど、一成はできるだけ明るい笑顔を浮かべて告げた。
 実際、熱は出ているものの意識が飛びそうというわけではないし、休みを取れば回復するはずだ、と思ったのだ。
 染井監督はじっと一成を見つめた。真剣な表情で、普段の温和な顔ではなく、厳しささえ漂う雰囲気。一成はただその視線を受け止めるしかない。

「――わかりました」

 しばらくの沈黙のあと、染井監督はそう言った。静かな声だった。それから、ふっと唇に笑みを浮かべるとおだやかに続けた。

「今日の撮影は終わりにしましょう。今のシーンはテイクを重ねる必要もない。三好さんの撮影分はほぼ撮り終えていますし、数カットでしたら後日に持ち越しても問題はありません」
「でも――」
「これは監督命令ですよ。ちゃんと休んでください」

 厳しさを感じさせる声で言われてしまえば、一成も従うしかない。ただ、自分のせいで撮影スケジュールに変更が出てしまった、という事実がどうにも後ろめたかった。
 気落ちしたような雰囲気で、小さく「はい」とうなずく。染井監督は一成の反応に苦笑を浮かべてから、一転して真剣な表情で言った。

「むしろ、気づくのが今になって申し訳ありません。謝るべきは私の方です。撮影中に役者に無理をさせることは多々ありますが、健康を損なうことをさせてはいけない。これでは、監督としての資質に欠けていると言わざるを得ません」

 だから反省するべきは自分であって、一成ではない、と言い切った。一成は慌てて首を振るし、天馬も「オレも知ってて止めませんでした」と言葉を添えるけれど。染井監督は静かに「現場の責任を取るのも私の仕事ですからね」と答えた。
 何てことのない口調に聞こえて、宿る響きは凛としていた。映画監督として全ての指揮を取ることへの、自負と覚悟がにじんだ声だった。
 こんな風に、いつでも見守ってくれた人を知っている。何があっても大丈夫だと、力になるのだと、背中を押してくれた。
 監督と名前のつく人は、きっといつだって、そういう気持ちでこの場所にいるのだ、と天馬も一成も思った。だから、その覚悟を蔑ろにすることもできなくて、二人はただうなずくしかない。
 染井監督は、二人が受け取ってくれたことを察したのだろう。嬉しそうに笑ってから、「さて」と口を開く。

「三好さんはこのまま病院へ。立っているのも辛いなら、横になってくださっても構いません」

 染井監督直々の言葉に、一成の体から力が抜けていく。もう気負わなくていいのだ、と安堵したのだろう。ただ、具合が悪い様子を大々的に見せるのもどうか、という思いはあったので、「大丈夫です」と首を振る。
 とはいえ、天馬に寄りかかっているし、めまいがひどくて目は開けていられなかった。

「無理はしなくて平気ですよ。撮影もありませんし……。今後のスケジュールについては、後々相談しましょう」

 もともと、天馬も一成も日帰りの撮影予定だった。ただ、一成の具合が悪い状態で長距離移動は酷だろう。無理に帰れば容体が悪化する恐れもあるし、大事を取るなら今日は宿泊した方が賢明だ。
 そして、宿を取ることになれば、明日の朝も撮影が可能ではないか、と染井監督が考えていることは天馬も察した。制作陣はもともと一泊の予定だったし、酷い熱ではない。明日には下がる可能性はあるし、それなら翌日撮影できるに越したことはないのだ。
 そうなれば、天馬も必然的に今日は現地に逗留することになる。これからの撮影スケジュールは、恐らく大幅に変更されるだろう。
 オレのシーンを先に撮るとしたら、終盤にかけてだ。明日の仕事は何時の出だったか。あれこれと他の仕事のことを考えつつ、天馬は染井監督の言葉にうなずいた。すると、そのタイミングで声が飛び込む。

「三好さん、天馬くん!」

 駆け寄ってきたのは井川だった。一成がうっすら目を開くものの、すぐに瞼を閉じてしまう。倒れてしまわないよう、天馬は一成の肩を抱く手に力を込める。

「タクシーがそろそろ来ます! 病院にも予約を入れてありますし、ホテルも念のため手配してありますので」

 てきぱきとした言葉に、天馬は心から「助かる」と答えた。一成の調子が悪いことを見て取り、必要なことをすぐに察したのだ。井川は「当然のことですから」と首を振る。

「スケジュールについても、おおむね調整は可能だと思います。明日の夜には、東京へ戻る必要はありますが」
「それだけあれば充分だ。一成、聞いてただろ。今日はこっちで泊まりだ」

 意識を失っているわけではないから、声は聞こえているはずだった。案の定、今日中に戻る必要はない、という事実にほっとしたのか体のこわばりがわずかにゆるむ。天馬は井川へ視線を向けた。井川はこくりとうなずく。

「ゆっくり休んでくれ」

 ささやくように言ってから、天馬は一成を井川に預ける。一成は申し訳なさそうな顔をしていたので、「気にするな」とだけ言って現場から送り出した。








 意識はあった。ただ、何だかずっとふわふわしていて、上手く言葉や声にならない。染井監督の厚意がありがたかったし、スタッフもみんな心配してくれた。
 井川は病院やホテルでも、一成を献身的に支えてくれた。かろうじて絞り出した「ごめん……」という言葉に、井川はやさしくほほえんだ。
 それから、こっそりと「夏組ゲリラ告知後の公演を実現するため、天馬くんのスケジュールを調整した以上に大変なことは、たぶんこの世にないですから」と教えてくれた。
 やけにしみじみとした物言いに、一成は思わず口元に笑みを浮かべる。その様子に、井川はほっと息を吐き出していた。
 病院では、疲労による発熱と診断された。
 微熱以外に症状はなく、炎症なども見られない。ウイルスや細菌によるのものではなく、重なった疲労によるストレスに体を冷やしたことが追い打ちになったのだろう、という判断だ。対処として、ゆっくり休むよう言い渡された。
 手配したホテルへ向かい、どうにか部屋へ辿り着く。気力も体力も限界だった。倒れ込むようにベッドへ横たわる。体が重くて仕方ない。
 部屋まで付き添ってくれた井川に対して、「ごめん」と「ありがとう」をどうにか伝えた気はするものの、引きずり込まれるように眠りに落ちていった。