スウィートホーム・シンフォニー 28話






 ゆっくりと意識が浮上する。まどろみと覚醒のあわいを漂うような、不思議な感覚。ああ、もうすぐ目が覚めるんだな、と思いながら夢の端っこを握りしめている。
 しかし、それも長い時間ではない。じわじわと意識ははっきりして、一成は目を開けた。
 閉め切られたカーテン。部屋全体を包むのは、うっすらとした明かり。ベッドから少し離れた位置には、ソファとローテーブルが一組。ソファには、台本に目を通す天馬が座っていた。
 テンテンだ、と一成は思う。天馬が座るソファにも、背景の部屋にも見覚えはない。ホテルの一室だからそれも当然だ。ただ、見慣れない場所でも一成の心は落ち着いている。天馬がいてくれるなら、それだけで充分だった。
 撮影は終わったのかな。今何時だろう。明日はどうなったのかな。聞きたいことはたくさんあったけれど、上手く言葉にはならなかった。ただじっと見つめていると、天馬が不意に視線を上げた。ぱちり、と目が合う。

「一成、起きたのか」

 ほっとしたように言うと、台本を閉じた。ローテーブルに置くと、大股でベッドへ近づいてくる。一成の額に手を当てて、「まだ下がってないな」とつぶやく。

「何か飲めそうか。水分補給した方がいいだろ」
「……うん」

 小さく答えて、体を起こそうと力を入れる。天馬が自然な動作で支えてくれて、一成はベッドの背もたれに寄りかかった。
 まだ熱はあるようで、体が熱い。ふわふわとした浮遊感も続いている。ただ、部屋に戻ってきた時のような疲労感はなかった。体を起こしていることも、話をすることもできそうだった。
 天馬はベッドサイドテーブルのスポーツドリンクを手に取り、キャップを外して一成に渡した。礼を言って受け取り、ゆっくりとペットボトルを傾ける。水分が体中に染み渡り、一成はふう、と息を吐き出す。熱い吐息だった。
 一成の様子を見つめた天馬は、「ちょっと待ってろ」と言って一成の前からしばし消える。戻って来た時には、冷却シートと体温計持っていた。すっかり温くなった首のシートを交換してから、体温計を受け取る。天馬は枕元に椅子を持ってきて座った。

「辛いなら横になってろ。無理に起きてる必要はないからな」
「うん。でも、ちょっと起きてよっかな。戻ってきた時よりは元気になってきたし」

 小さく笑みを浮かべて言えば、天馬は「そうか」とほっとしたように答えた。「元気になってきた」という言葉が嬉しかったのだろう、と察する。一成は深呼吸をしてから、おずおずと口を開く。

「あのさ、撮影は終わった感じ?」
「ああ。あれから、オレのシーンは撮り終えた。あとは一成とオレのシーンがいくつかあるだけだが、そこはおいおいだな。明日撮影できればするし、無理でも代替案はある」

 だから気にするな、と天馬は力強く告げる。一成の今の仕事は体を休めることだ、という言葉は心からのものだろう。一成は「そだね」とうなずいた。

「いがっちとかにもめっちゃ世話になっちゃった。あとでお礼しなくちゃ」
「やるべきとをしただけだ、とか言いそうだけどな。でも助かったのは事実だ。付き添いに買い出し、スケジュールも調整してもらったし」

 その井川は、別のフロアに泊まっているらしい。急な宿泊ということもあり、同じ階という希望を叶えることは難しかったのだろう。同じホテルは取れたのでまだ幸運だったと言ってたぞ、と天馬は告げる。

「井川は休ませた。今日は一日走り回らせたし、放っておくとずっと仕事してそうだったからな。一成の世話は、オレに任せろって言ってある」

 胸を張って天馬は言う。今日の井川は、一成の病院の付き添いから必要な物の買い出し、二人のスケジュール調整に忙殺されていた。あまりに根を詰めれば、今度は井川が倒れてしまう可能性があることは否めない。

「同じ部屋なんだし、一成の看病ならオレが一番だろ」

 至って当たり前の事実を告げる口調だ。井川が手配した部屋はツインルームとなっており、一成の隣にはもう一つベッドがあった。それぞれ別の部屋を押さえるという選択肢もあったけれど、井川はそうしなかった。
 具合の悪い一成を一人にしておくのが心配だった、ということもあるだろう。加えて、井川は天馬と一成の関係を知っている。いつも同じ寝室を使っているのだから、天馬が隣にいた方が一成も安心するだろう、と思ってのことなのかもしれない。
 いがっち、めちゃくちゃ優秀だしマジでいっぱい感謝しなくちゃ。心から思っていると、電子音が響く。体温計が測定を終えたことを告げていた。

「――やっぱりまだ熱あるな」

 一成が差し出し体温計を受け取った天馬は、顔をしかめる。微熱程度ではあるものの、まだ体温はいつも通りとは言えない。一成は申し訳なさそうに「うん」とうなずいた。

「別にお前が悪いわけじゃない。それより、何か食べられそうか。多少は胃に入れた方がいいだろ」

 やさしく目を細めて言ってから、天馬は雰囲気を切り替えて尋ねた。無理をしてまで食べる必要はないけれど、もしも食べられそうなら栄養を取った方がいい。
 一成は天馬の言葉に少しだけ考える素振りをしてから、「ちょっとなら食べられそうかも」と答えた。食欲がまったくないわけではなかったし、天馬に話を向けられるとお腹空いたかも、という気持ちになったのだ。
 天馬は嬉しそうに顔を輝かせると「待ってろ」と言って、席を立った。
 ドアの方へ歩いていく姿を見送り、一成はあらためて室内を見渡す。
 部屋へ入った時は、室内の様子を気にする余裕はまったくなかった。ベッドへ倒れ込むしかできなかったけれど、今ならばきちんと把握することができる。
 部屋は思ったよりも広い。ツインのベッド以外にソファとローテーブル、大き目のテレビ、イスとテーブルのセットがもう一つ。壁には飾り棚が設置され、花の活けられた花瓶が置かれていた。
 高級感のある調度品から考えて、ビジネスホテルといった類でないことだけは理解できた。ハイクラスのホテルなんだろうな、と思ってすぐに納得する。
 天馬が泊まる部屋ともなれば、それなりのグレードが必要だ。庶民的な場所に宿泊するなんて天馬らしくないだとかそういうことではなく、セキュリティー的な観点から考えて妥当な結論だと思った。
 一成自身、今は注目度が高い状況だ。簡単に人が出入りできるホテルは危険と考えたのかもしれない。急きょ手配したにもかかわらず、それなりのグレードの部屋を押さえているという事実に、一成はあらためて井川の優秀さを実感した。
 未だ本調子とは言えない体に、はやく元気にならなくちゃ、と一成は思う。迷惑を掛けたことは事実だったし、撮影はもう少しで終わりなのだ。ゴールまで辿り着き、作品をきちんと完成させたい。
 熱を宿す息を吐き出して、芽生えた決意をぎゅっと抱えていると天馬が戻ってきた。手にはお盆を持っている。
 差し出された器には、ふんわりとした黄色が広がる玉子粥。一成は、思わずといった調子で声を上げた。

「え、テンテンが作ったの?」
「レトルトを温めただけだけどな」

 天馬は肩をすくめて答える。スポーツドリンクなど、必要なものと一緒に買いそろえておいてくれたのだろう。
 天馬が歩いていった先には、電子レンジなどを収めたキャビネットがあるらしい。そういえば冷蔵庫とかはベッドから全然見えなかったな、と思う。
 恐らくそういったものが、まとめられたスペースがあるのだろう。電子レンジの作動音にも気づかなかったので、思いの外ぼんやりしているのかもしれない。
 一成は礼を言って、添えられたスプーンを手に取る。ゆっくりと器に差し入れ、口元へ運んだ。
 うっすらとした出汁に玉子のまろやかさが合わさって、やさしい味が広がる。あたたかいものを口にすると、気持ちもほぐれていくような気がした。
 少しずつとは言え、順調に器の中が減っていく様子に天馬はほっとした雰囲気を漂わせる。食欲はあるようで、そこまで症状がひどくないからだろう。

「食べられるなら、ゼリーとかもあるぞ。風邪の時はゼリーが食べたくなるって言ってただろ。お前が好きだって言ってたやつ、買ってきたんだ」
「……テンテンが買ってきたの? いがっちじゃなくて?」

 井川が買い出しをしてくれたと聞いていたので、不思議に思って尋ねた。天馬は「ああ」と言って答えてくれる。

「基本的なものは井川が買ってきてくれた。ただ、一成の好きなものもあった方がいいかなと思ったんだ」

 スポーツドリンクや冷却シートにレトルトのおかゆなどは、井川が用意してくれた。
 もちろんそれだけでも充分だろうとは思ったものの、天馬は個人的にコンビニに寄ったらしい。必要なもの以外に、一成が好きだと言っていたものを用意してやりたいと思ったのだと言う。
 調子のよくない体に、撮影を続けられなかったこと。気にするなとは言ったし、疲労の原因は一成の責任ではないと天馬は思っているけれど、一成の性質ならよくわかっている。
 自分のせいだと落ち込むだろうと、元気づけたかったのだ。「フルーツいっぱい入っててお気に入りなんだよねん」と言っていた、コンビニのゼリーは覚えていた。
 ささやかではあるものの、好きなものがあったなら多少は気持ちが明るくなるかもしれない、と天馬はわざわざコンビニに立ち寄ったのだ。

「テンテン……」

 思わずつぶやいた名前は、一成のあふれる気持ちが形になったものだ。天馬が一成のことを思ってくれたことが嬉しい。元気づけたいと、一成が好きなものをわざわざ買ってくれた事実が、染み渡るように感じられた。
 そんな風に思ってくれる理由は、たった一つだと知っている。言葉にはならなくても、行動が伝えてくれる。一成を大事にしたい。大切にしたい。あふれるように届く心が、一成の心をじんわりと温める。

「ありがと。嬉しい」

 心は素直に声になった。あふれる喜びは、天馬にもしかと伝わったのだろう。嬉しそうにまばゆい笑みを浮かべるので、一成は目を細める。天馬が嬉しそうにしてくれることは、一成にとっても喜びに他ならない。

「でも、あとで食べよっかな。今はテンテンが作ってくれたおかゆ、味わって食べたいし」

 残り少なくなった玉子粥を口に運んでから、一成は言う。冗談めかした雰囲気で、確かな笑みをたたえながら。天馬は苦笑で答えた。

「別に温めただけだって言ってるだろ。大したものじゃない」
「そうだけど、テンテンちゃんと看病してくれてるな~って実感しちゃって。頼りになるよねん」

 心からの言葉だった。しみじみとした雰囲気が漂うのは、天馬が家事全般を不得手としていたことを知っているからだ。もともと、生活全般に関わる仕事に触れてこなかったことが原因だろう。カンパニーに入団した当初は、できることの方が少なかった。
 しかし、時間を重ねるにつれ天馬は諸々の仕事を覚えていった。今では一通りのことはできるようになったし、看病という点でも心強い。どうしたらいいかとうろたえることもなく、必要なことを理解してちゃんと動いてくれる。

「成長したな~っていうか、甲斐甲斐しいな~っていうか。お世話になっちゃってごめんね」

 天馬は比較的面倒見のいい人間ではある。なので、意外というわけではないのだけれど、具合の悪い一成に対して天馬はずいぶんと甲斐甲斐しい。
 体を支えてくれたり飲み物を取ってくれたり、一成の様子に目を配って細やかに対応してくれるのだ。

「これくらい当たり前だろ。むしろ、家だったらもっとできるんだけどな」

 天馬は一成の言葉に、意外そうな表情で答えた。謝ることなんてないのに何言ってるんだ、と表情が物語っている。一成は小さく笑みを浮かべた。

「そだね。家だったらおかゆ手作りしてくれそう」
「まあな。リンゴくらいなら剝いてやれるぞ」

 胸を張っての言葉に、一成は息を漏らして笑った。以前の天馬は、リンゴの皮なんて剥くことができなかった。それが今では、難なくできるようになっていることを一成は知っている。
 役作りのために包丁に慣れたいとか、生活をしていく上でできることを増やしたいとか。理由はいくつもあったけれど、天馬の努力の結果であることはよくわかっているし、それをずっと近くで感じられることが嬉しかった。

「テンテンの作ったウサギリンゴ、いつか食べてみたいな~」
「う……それはもう少し待て」

 イタズラめいた表情で言えば、天馬が決まり悪げに答えた。一般的な剥き方は習得したものの、飾り切りについては未だ練習中なのだ。だから答えはわかっていたし、一成はにっこり笑って「うん」とうなずいた。いつかきっと、天馬が誇らしげにウサギのリンゴを見せてくれるだろう、と想像すれば自然と胸が弾む。
 それから他愛ない話をしながら食事を進めて、器はきれいに空になった。天馬が嬉しそうに「全部食べられたな」と頭を撫でてくれるので、一成はくすぐったそうに笑った。
 子供みたいな扱いだけれど、弱った体にはそれが何だか心地いい。天馬はそんな一成の反応に、深い愛情をたたえたまなざしを向けた。

「ずっと起きてて疲れたんじゃないか。眠らなくていいから、横になってろ」

 食器を片付けた天馬が戻ってくると、そう声を掛ける。何だか少し体が重くなっている気がしたので、一成は素直にうなずいた。ただ、眠気があるわけではなかったし、天馬ともう少し話をしていたかった。

「ねえ、テンテン」
「どうした」

 横になったまま、一成は名前を呼ぶ。枕元の天馬はやさしく答えてくれて、一成の唇は自然とほころぶ。
 最初に比べて体調はよくなってきた。ただ、もちろん本調子ではないし、体を横たえると熱の気配を強く感じる。まだ頭はふわふわしていて、夢見心地のような気分だった。
 だから、心に浮かんだ思いはほとんどそのまま声になる。天馬なら大丈夫だと、受け止めてくれるのだと知っているから、ためらいはなかった。

「テンテンがいてくれてよかった」

 熱のこもった声がこぼれる。心の奥のやわらかい部分がほどけていくのだと、浮遊するような意識で一成は思っていた。

「一人じゃなくてよかった。知らない場所で一人だったら、きっとすごく寂しい。起きたらテンテンがいてくれてほっとした」

 もしも一人で目を覚ましたら、きっと心細くてたまらなかっただろうと一成は思う。
 熱のある弱った体で、見ず知らずの場所で目を覚ます。頼るものもなく、寄る辺ない気持ちでただ体を丸めるしかできない。だけれど、天馬はいてくれた。確かに近くで、一成を見守っていてくれた。

「――そうか。ならよかった」

 目を細めた天馬は、やわらかく答えた。
 普段、一成はあまり寂しいだとかそういったことを口にしない。ただ、それは寂しさを感じないわけではなく、上手く隠すことに長けているからだ。
 そんな一成が寂しさを口にして、だけれど天馬がいるからほっとしたのだと告げる。一成が素直に心を開示してくれることが天馬には嬉しかったし、頑是ない子供のような様子にいっそう愛おしさが募る。
 やわらかな声に、細められた目に、導かれるようにして一成は布団から右手を差し出した。何も言わずとも、天馬はすぐに意味を理解する。
 自分の左手を重ねると、強く握ったのだ。一成は同じように力を込めて、そっと口を開く。

「うちに帰りたい」

 熱のこもった瞳で天馬を見つめる一成は、うわごとのように言った。話の流れだとか論理的な思考回路だとか、そういうものは一切なかった。天馬を前にしたら、ただ心がこぼれ落ちて形になっていた。
 知らない場所でも、天馬がいてくれるなら安心できる。だけれど、弱った体と心は言う。
 ほっとできる場所を知っている。帰りたい。天馬と一緒に、どこよりも安心できる家に帰りたい。子供のように素直に一成は思った。
 オレのいたいところは。テンテンの隣でずっと過ごしたい場所は。世界で一番安心できる人と、一緒にいたいのは、望んだことは。

「オレたちの家に帰りたい」

 見知らぬホテルの一室ではなく、よく知った寝室のベッドがいい。天馬と寄り添って眠った。布団カバーとシーツはどれがいいか、真剣に話し合った。あの部屋に、あの家に帰りたかった。
 こんなこと、言ったところで意味はない。ただのワガママだ。わかっていても、一成の心を押しとどめるものは今ここに何一つもなかった。

「寝室のベッドで眠りたい。あのシーツ、肌触りが良くて好き。テンテンおすすめの選んでよかった。テンテンが隣にいると嬉しい。疲れてても平気になっちゃう。ねえ、プラネタリウムきれいだったね」

 思いつくままに声はこぼれていった。天馬は一成の手を握って、その言葉を聞いている。
 思い描くものが何であるか、天馬は理解している。ベッドの上で二人寄り添った。よく眠れるように、と贈り物のプラネタリウムで星空を映した。瞳に輝きを散らして、歓声を上げる一成の横顔は驚くほどにきれいだった。

「プラネタリウムカフェも面白かったね。リビングいっぱいに、星空が広がってて。星の形のクッキーも金平糖もかわいったし、銀河のデコレーションしたドーナツもきれいだった」
「――ああ。本当に銀河みたいだったな」

 リビングでプラネタリウムを投影して、宇宙にまつわるお菓子を集めた。プラネタリウムカフェだと言って一成はテンションが高かったし、銀河のアイシングをほどこされたドーナツは見事で天馬も感心したものだ。

「リビングにプロジェクター置きたい。公演みんなでもう一回見ようよ。旗揚げから始めて全部見ようね。夏組の公演ポスターいっぱい飾りたいな」

 天馬の手をぎゅっと握って、一成は言葉を続ける。その瞳に映るのはリビングでの風景なのだろう。一成の唇からは、ぽろぽろと言葉がこぼれ落ちていく。

「テンテンにいれてもらった紅茶おいしかった。おにぎり作ってくれたのも嬉しかった。一緒に料理作るのも楽しいね」

 一成が語るのは、共に過ごした毎日のワンシーンだ。
 並んでキッチンに立って、パンケーキを作ったこと。天馬の好きなハンバーグや、監督おすすめのカレーを作ったこと。ささやかな話をしながら、二人で作った食事を共に囲んだ。
 何でもない毎日を、一成は丁寧に言葉にする。
 毎朝テンテンの顔を見られるのが嬉しい。一日頑張ろうって思える。仕事に詰まった時、リビングでテンテンと何でもない話するのが好き。
 現場であった面白いこととか、帰り道に見た猫がかわいかったとか、すてきなことをテンテンに一番に伝えられるのが嬉しい。テンテンが疲れてる時、ぎゅってできるのはオレの特権。
 いつもよりやわらかい空気で紡がれる言葉を、天馬は聞いている。
 これは一成の限りない本心だ。いつでも明るい笑顔を浮かべているけれど、一成は見た目によらず理性的で、あまり素直に胸の内を見せない。それは周囲を警戒しているというわけではなく、時として本音は受け取る相手にとって負担になると知っているからだ。
 それに、天馬に対しては素直に言葉を口にしてくれることが多い。常に本音を隠しているとか、心を閉ざしているわけではないことはわかっている。
 それでも、こんな風に思いついたことをそのまま形にすることは、あまりない。だけれど、今一成はただ心を広げてくれている。
 熱のせいだろうか。理性と本心の境が曖昧で、心の内側が声になる。だからこその本音を、天馬はやさしく受け止める。
 一成の胸の内には、瞼の裏には、宝物みたいにしまってきた思い出がいくつもよみがえっていた。
 おかえりと出迎えてくれる姿。仕事をしていたら、飲み物を用意してくれること。ソファに並んで腰掛けて、一成のスマートフォンでおすすめの動画を見ていたこと。あくびする姿に面白そうに笑う顔。夜遅くに、二人でパンケーキを食べたこと。
 二人の大事なものを持ち寄って、一つの家になっていくのが楽しかった。何でもない瞬間も、明日には忘れてしまいそうな一場面も、二人で過ごした日々は積み重なって思い出になっていく。
 これからきっと、もっともっと思い出は増えていく。やりたいことも、見たい景色もたくさんあった。一成は重なった手の温みを感じながら、心のままに声をこぼす。

「オレ、あの庭が好き。ヤマモモの下で日向ぼっこしたり、食事したりしたね。木漏れ日がきらきらしてたよ。風が気持ち良くて、テンテンが隣にいてくれて、オレの絵を見て笑ってくれる。嬉しかった。あの風景を描きたいな。夏だけじゃなくて、春も秋も冬も全部」

 そう告げる一成の脳裏には、天馬と過ごした風景があざやかに浮かんでいる。
 あの家を訪れた時から、ずっと焼きついて離れない。木製の木枠に縁取られた、絵画のようなワンシーン。
 きらきらと降る木漏れ日の下で、天馬と二人の時間を過ごした。生命力にあふれるような日差しがまぶしかった。きらめく陽光を一心に浴びる天馬は、どんな風景よりも強い光を放って一成の胸に輝いている。
 瑞々しい光を宿した緑。髪の毛を揺らすささやかな風。梢の音が耳に心地いい。天馬がぱらりと台本をめくる。一成はスケッチブックに鉛筆を走らせる。
 時折交わされる言葉はおだやかで、特別なことを話すわけではない。ささやかな、何でもない時間。名前もつけられないような、ほんのひととき。だけれどそれが嬉しかった。心地よかった。この風景を、みんな大事に描きたいと思った。
 それはきっと、あの庭で過ごした日々が、二人で暮らした日常の象徴だからだ。初めて訪れた時から感じていた。庭の真ん中のシンボルツリー。家を見守るようにたたずんでいた。あの家の風景を、過ごした日々を象るならきっと、ヤマモモの下で過ごした時間になる。

「テンテン、来年は実ができるかな。そしたら一緒にジャム作りたいね。夏組のみんなを呼んで、パーティーしたいな。来年のお楽しみだね」

 ふふ、と一成の口元には笑みが浮かぶ。天馬の誕生日をみんなで祝った夜の庭。顔を合わせればいつだって、寮で過ごした日々の続きが始まるみたいなにぎやかな時間だった。きっと自分たちは、こんな風に未来まで過ごしていくんだと疑いなく思えた。
 来年の話をしたところで、叶うことはないとわかっている。期間限定の暮らしだ。たくさんの実をつけるヤマモモを見ることはない。
 それでも、一成は未来を思い描いた。見たいものは、胸に浮かんだ光景は、描きたい未来は、いつだって果てしなく広がっている。

「夏になったらヤマモモの季節だねって、夏組みんなで集まるんだ。恒例行事みたいになって、夏の思い出が増えるよ。お菓子持ってきて、どれが一番ジャムに合うかなんて話になる。きっとみんな美味しくて一番なんて決められなくて、楽しくなって笑っちゃう。みんなの笑顔がいっぱい見られる。そんな未来がいい。そういう景色が見たい」

 いつかの未来を一成は思い描く。緑のあざやかな庭で、夏組みんなが集まる。家で採れた実を使ってジャムを作って、みんなでワイワイと過ごす。最初は味付けもわからなくて、だけれど段々と自分たちの味を見つけていく。そんな風に時間を重ねていきたいと思った。

「オレたちがこれから先、長い時間を過ごしても、きっとヤマモモはずっとそこにあるよね」

 天馬と手をつないで、一成は言った。庭ができた時からずっとそこにあった木だ。あの家を象徴するような存在は、これから先の未来までずっと同じ場所にたたずんでいる。見守るように、いつだってそっと。

「ねえ、テンテン。そういうものを、たくさん作っていこうよ」

 ぎゅっと手を握った一成は、潤んだ瞳で天馬を見つめる。吐き出した息は熱いけれど、それはきっと発熱しているからだけではない。凛とした決意を宿した言葉だからこその熱だった。

「長い時間も一緒に重ねていこうね。繰り返す毎日を思い出にして、振り返ればいつだってここにあったねって。どんな時も見守っていてくれるみたいな、そういうものをたくさん作ろうよ」

 共に日々を過ごして、毎日を思い出と名づけて、宝物にしていく。だけれどそれは、ラベルを付けてきれいに箱にしまうのではない。
 庭にはいつだってヤマモモの木があって、全てを見守っていてくれるように。重ねた時間を確かに身の内に抱えながら、豊かに育って実りをつける木のように。二人の過ごした日々はお守りみたいにいつだってそこにあって、未来の道を照らすのだ。
 やわやわとした声で一成は告げる。
 ヤマモモみたいに。あの庭みたいに。思い出したら幸せになってしまうような、心の震える景色をテンテンとオレでたくさん作ろう。これから先の未来を、見たい風景を、一緒に積み重ねていくんだ。
 嬉しそうに言った一成は、一度言葉を切る。それからゆっくり深呼吸をすると、きらきらと輝く瞳で言った。
 誓いのように、祈りのように。初めて思いを告げた時のように、これから先の未来を共に歩くと決めた時のように。いつかの夕暮れの海辺で見た光景のように。きらきらとした、まばゆい光で言った。

「ねえ、テンテン。オレたちの家で、たくさん笑って、たくさん幸せでいようね」

 はにかむ一成の頬は薔薇色に染まっている。熱のせいだけではない。あざやかに紅潮する表情は、こぼれだしそうなほどの天馬への愛情で彩られている。

「――ああ、そうだな」

 一成の心をそのまま形にしたような言葉だった。天馬はたまらない気持ちになりながら、どうにかそれだけ言った。
 言いたいことはもっとたくさんあったけれど、胸が詰まって上手く形にならない。それでも、伝わったのだと言いたくて天馬は一成の頭をそっと撫でる。
 一成が嬉しそうに、子供のように笑うので天馬の胸はいっそう締めつけられる。けれどそれは、悲しみや不安ではない。狂おしいほどの愛おしさが、体中に吹き荒れているからだ。
 大事にしたい。守りたい。思う限りの全てで、この心を伝えたい。愛おしさには果てがないのだと、一成に出会って何度思い知らされたかわからない。
 天馬は一成の表情を見つめながら、胸に芽生えた決意を握りしめている。