スウィートホーム・シンフォニー 30話






「ずるい手を使っているとは思いますが……二人の物語をどうしても作りたかった。天馬くんと三好さんの演じる二人が、あまりにも魅力的でどうにも心を打って仕方なかった。蒼生と遼一郎の物語を、あったかもしれない世界を、映画として撮りたかった。それは全て、あのストリートACTがあったからです」

 熱を秘めたまなざしで、染井監督は言葉を重ねる。
 配信を見たのは偶然だった。休憩時間の事務所で、スタッフが起動したパソコン越しに展開される、二人の物語。最初は演劇としての興味で、役者たちの様子をつぶさに観察していた。しかし、次第に天馬と一成の演技に引き込まれていく。

「どんな演出もない、生身の人間としての芝居からはお互いへの愛情が伝わってきました。呼ぶ名前が、触れる指先が、体中の全てが、たった一人の特別は目の前の相手だと叫ぶようでした。二人のキスシーンも、とても印象深かった」

 ストリートACTという特性上、演出の類は一切ない。ドラマチックな音楽もなければ、効果的な照明も存在しない。それにもかかわらず、配信される画面からは震える心があふれるようだった。
 この人が特別だ。大事にしたい。大切だ。好きだ。たった一人だ。オレの唯一だ。声にならない声が、重なる唇から伝わるようだった。

「それから、大急ぎでカンパニーや夏組のみなさんのことを調べて、配信も無事に購入しましたよ。存在は知っていましたが、チケットが取れなくても芝居を見ることができる、というのは画期的ですね」

 しみじみとした様子の染井監督は、公演のチケット抽選にも申し込んだらしい。ただ、恐ろしい倍率だったので落選して、潔く配信を購入していた。
 ツテを辿ればチケットを入手することはできたかもしれないけれど、どうやらそうしなかったらしい。不思議そうな空気を感じ取ったのか、染井監督は苦笑を浮かべて言った。

「仕事に必要ならいざ知らず、私の趣味の問題ですからね。そのためにツテを使うのはどうかと思いましたし……。落ち着いていい年齢にもかかわらず、熱を上げている様子を知り合いに見られるのが、気恥ずかしかったというのもあります」

 照れくさそうな染井監督は、秘密を打ち明ける素振りで続けた。
 ストリートACTを見て以降、MANKAIカンパニーや夏組について密かに調べ始めた。慣れないSNSを駆使する様子に周囲も驚いていたし、さらにはチケットの申し込み方やら配信の視聴方法まで調べて行動に移している。最初はごまかしていたものの、あまりに周囲がいぶかしむものだから、結局真相を告げたのだ。

「スタッフのみなさんが情報を教えてくれるので、結果としては打ち明けて正解ではありましたね。みなさん、情報収集の仕方が上手くて感心しました。おかげで、カウントダウン配信も公演後の配信も見逃さずに済みました」
「見てたんですかあれ!?」

 さらりと言われて、一成は思わずすっとんきょうな声を上げる。全世界に配信しているわけだから、それはまあ見ていても全然おかしくはない。頭ではわかっているけれど、心情的には不思議だった。ただ、染井監督はあっさり「もちろんです」と答える。

「公演も両日見てますよ。お二人の互いを思う心が、日を追うごとに増していくのを見守ることができて喜ばしかったです。キスシーンにも力を入れてくださいましたし、愛にあふれる二人の姿がいっそう印象的でした」

 にこにこと言われて、一成は何とも言えない表情を浮かべる。演技自体を恥ずかしいとは一片も思わないけれど、何となくこう、親戚にキスシーンを見られたみたいな気恥ずかしさがある。
 ただ、一成は納得もしていた。考えてみれば、染井監督は蒼生や遼一郎のキャラクター性を的確につかんでいた。その手がかりになるのは、ストリートACTと二日間の限定公演、それから演者の言葉くらいだ。全てを網羅している、と考えるのが自然だった。

「一つ一つの公演から、蒼生と遼一郎の間にあるものが、どれほどに深い思いなのかをことさらに感じました。お二人の演技の全てから伝わってきて、どうしようもなく心が打たれました。二人の間にあるものをもっと見たいと、私なりの愛の形を描きたいと思ってしまいました」

 全ての公演を見て満足できればよかった。しかし、それだけではとうてい収まらず、染井監督は二十数年ぶりに脚本を書き上げる。さらには、絵コンテまで完成させ、実際の撮影スケジュールまで組むに至ったのだ。
 最初は自己満足で終わらせるつもりだったそれらが、どんな結末を辿ったのかは一成もよくわかっている。

「単なるファン活動のつもりだったのですが――結局のところ、こうして映画製作にまで至っていますからね。これは、今まで映画を撮ってきたからこその幸運といったところでしょうか」

 照れくさそうに染井監督は言うし、確かにその通りではある。映画監督としての功績があるからこそ、こうして実際の映画撮影にまでこぎつけているのだ。単なるファンでは実現しないだろう。

「ですので、三好さんの起用は当然なんですよ。そもそも、私は天馬くんと三好さんの演じる二人のファンなんですから」

 染井監督は、一成の目を真っ直ぐ見つめて告げた。きらきらとした輝きで、憧れの人を前にしたような表情で。真正面から受け取った一成は、数秒黙ったあと面白そうな笑みを浮かべた。
 忘れていたわけではないけれど、事の発端をあらためて認識したからだ。全ては染井監督の、熱烈なオファーから始まったことを。

「――そういえばそうだったなって、今思いました。二人のことを好きになってくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ、二人の新しい表情を見られて嬉しかったですよ。さすがに撮影中はファンの顔はできないので、表に出さないようにしていましたが」

 ファンではあるものの、あくまで撮影中は監督としての務めを果たすことに専念していた。作品を私物化しては、独りよがりになってしまう。だからこそ、ファンの顔は封印して、映画監督として振る舞っていた。
 ただ、撮影自体は無事に終わったので、多少はファンの顔をしてもいいだろう、と判断したらしい。

「とはいえ、ファンの欲目を抜きにしても、お二人の芝居は期待以上のものばかりでした。映画監督としての目で見た結論です」

 少しばかりあらたまった空気で、染井監督は言った。これまでの言葉がひいき目から来たものではない、ということはきちんと言っておきたい、という調子だった。一成はこくりとうなずく。
 染井監督の仕事ぶりは、一成とてよくわかっている。今日まで近くで見てきたし、今までの作品という実績が物語っている。
 作品作りに妥協することなく、厳しい目で芝居の一つ一つを見つめる人だと知っている。だから、芝居への評価は、これまで多くの作品を目にしてきた映画監督としてのものだ。

「――三好さんについては先ほど伝えた通りですが、天馬くんにも期待以上のものをいくつも見せてもらいました」

 遠くを見つめる目で、染井監督はつぶやく。脳裏には、今日までの撮影で目にした天馬の演技が浮かんでいるのだろうか、と一成は思う。しかし、続いたのは別の言葉だった。

「天馬くんのことは、子役時代から知ってはいたんですよ。皇夫妻の息子という意味でも有名でしたが、子供とは思えない演技力の持ち主でしたから」

 子供ながらに様々な役を演じる天馬のことを、染井監督は認識していた。映画監督としての活動をしていなくても、芸能界とのつながりが切れたわけではない。天馬の演技力については、各方面から聞き及んでいたし、実際に自分の目で見たこともあったという。

「真面目で妥協しないところは、今も変わらないですね。周りが気を遣ってオッケーを出しても、納得がいかないと自分からテイクを申し出ているところを見たことがあります」

 染井監督の言葉に、一成の唇はほころぶ。子役時代についての話を聞いたことがないわけではない。ただ、積極的に話題にする機会もあまりなかったので、何だか新鮮な気持ちだったし、同時にテンテン変わらないなぁ、と嬉しくなってしまうのだ。

「子役時代の話って、あんまり聞く機会なくて。どんな感じだったんだろって思ってたから、聞けて嬉しいです」
「おや、そうなんですか。私もそこまで詳しいわけではないですが――昔からプロ意識の高い役者ですね、天馬くんは。子供だからと甘えないし、一人の役者としての自負がある。それでいて、必要であれば子役としての顔もできる」

 コマーシャル撮影の現場を訪れた際、天馬を見たことがあるのだと染井監督は言う。ちょっと顔を出しただけなので、天馬は染井監督の来訪を知ることはなかったけれど、染井監督は大人びた子役のことを覚えていた。

「求められたものに応えたい、という強い意志があるようでした。十にも満たない年齢でしたが、立派な役者でしたよ。天馬くんは」

 時には子供らしい顔を見せて、親の威光を理解して、己の演技を披露する。その姿は大人と遜色のない、一人の役者だった。

「ただ、真面目すぎるなという印象もありました。才能があることは見ているだけでもわかりましたし、本人にも華がある。申し分ない資質を持っているのは確かですが、少し生真面目だなと。このままの演技だけでは、いつか伸び悩むかもしれない、と思ったのは覚えています」

 真面目で熱心な性格は、役者としての武器になるだろう。ただ、同じくらいに危惧もしていた。
 大人顔負けの演技ができるからこそ、すでに演技の方向性が定まっている。性格的に、その道を真っ直ぐ進み続けることはできるだろう。わき目もふらず、一本の道だけを。
 しかし、それだけではあまりにも演技の幅が狭くなってしまう。いつかそれが壁になるのではないか、と思ったという。
 ただ、染井監督は天馬と関りがあるわけではない。当然声を掛けることもなかったし、接点を結ぶこともなく、時間は流れていった。

「だから、久しぶりに天馬くんの芝居を見た時は驚きました。子役時代の印象とは、まるで違う。愚直でひたむきな役から自由奔放なトリックスターまで、ありとあらゆる役を生き生きと演じていましたから」

 真面目すぎる、と染井監督は思った。実際、一時期まで天馬の演技は何をやっても同じだの、どんな役も全部皇天馬になる、などささやかれていたこともある。
 しかし、久しぶりに天馬の芝居を見て、今までの印象ががらりと変わったのだ。

「こんな芝居ができる役者だったのか、と失礼ながら思いました。天馬くんは比較的、爽やかで明るい役が多かったでしょう。だからこそ余計にかもしれません。落ちぶれた境遇の、惨めな生活を送る青年役にここまで説得力を持たせられるのかと」

 染井監督が指したのは、小規模展開で上映された映画だ。ギリギリの生活を送る青年が、犯罪に手を染めて転落していく姿を描く。
 静かなシーンが多いながら、天馬の確かな演技によって、少しずつ精神が削られていく様子が克明に描写されていた。口コミで評判となり、異例のロングランとなった映画だった。

「あれは、MANKAIカンパニーとの出会いを経たからこそだったんだな、とあとになって納得しました」

 ストリートACTの配信でも、染井監督は天馬の演技の違いを認識していた。蒼生に向ける心は、力強く鮮烈だ。燃え立つような、荒れ狂うほどの感情を端々ににじませながら、全身でただ一人への愛を叫ぶ。
 こんな風に愛を告げるなんて、昔の天馬からは考えられなかった。そこには爽やかさも、丁寧に整えられた心もない。嵐のように、いっそ叩きつけるように、ほとばしる情熱に身を焦がす一人の男がいるだけだった。
 演技が変わった理由は何か。ストリートACTを調べるうちに、MANKAIカンパニーに行き着いた染井監督はすぐに理解した。天馬の演技が変わった時期と、入団の時期から察することは可能だったし、過去の公演を見れば自ずと答えは出たのだ。

「面白い芝居をするようになりましたね、天馬くんは。真面目なところは変わりませんが、視野がずいぶん広くなった。一つの芝居に対してアプローチが多様になりましたし、何でも試してみようと率先するところも頼もしい。どんな芝居をしてくれるのか、と楽しみでした」

 現場での様子を思い浮かべたのか、染井監督の唇が笑みを描く。子供時代の天馬は、追うべき理想に一直線に向かっていくところがあった。
 しかし、今の天馬は少し違う。追うべき理想は持っている。ただ、それ以外の道を常に模索して、理想を上回る最高を目指すのだ。その姿勢はMANKAIカンパニーで培われたのだろう、と染井監督は思っている。

「寄り道も遠回りも、全力で天馬くん自身が楽しむ。その上で作られる芝居は、見ているこちらの心も踊ります。――ただ、あそこまでアドリブに強くなっているとは思いませんでした」
「それはもう、夏組で鍛えまくったので!」

 満面の笑みで一成が答えると、染井監督は苦笑を浮かべて「でしょうね」とうなずいた。
 続けて「三好さんもそろうと、あまりに自然すぎて台本に書いてあったかな、と思いますよ」と言うので、一成は楽しそうに笑った。呼吸するように自然と始まる、夏組ならではの掛け合いを思い出したからだ。

「アドリブシーンは夏組の本領発揮といったところでしょうか。コメディに寄りすぎてNGを出す、というのはあまりない経験でしたが」
「いやー、何かついつい楽しくなっちゃって……」

 照れ笑いで言うのは、アドリブで盛り上がりすぎたことを思い出したからだ。染井監督は楽しそうに笑っていたけれど、コメディ劇ではないので、とNGシーンになった。もっともな判断だった。

「笑うことの多い現場でしたね。お二人のアドリブで、という点でもそうですが、撮影以外の場面でもそうです。そこかしこで笑い声が聞こえていて、現場の雰囲気がよかった」

 目を細めた染井監督は、やわらかな声で言った。あたたかな光のにじむまなざしは、撮影現場を思い出しているのだろう。
 作品によって、現場の雰囲気は変わる。若手が多ければ学生のようなノリ、年齢層が高いと落ち着いている。そういった側面だけではなく、関わるスタッフや指揮する監督のカラーによって、厳格だったり和気あいあいしていたりと、現場の空気感は様々だ。
 その点において、今回の現場は雰囲気がよかった、と染井監督は言う。適度な緊張感はあれど、必要以上に委縮することもない。常に明るい光に満ちていて、自然と笑顔が生まれていく。そういう現場だった、と言う。

「天馬くんと三好さんのおかげですよ。監督の方針だとかも空気作りに関わりますが、一番は主役の姿勢です。主役がどんな風に現場へ臨むかによって、空気は変わります」

 おだやかなまなざしのまま、染井監督は告げた。確信しきった口ぶりで、撮影現場全体の雰囲気を決定づけたのは、天馬と一成の存在だと言う。

「お二人とも、全員で一つのチームだ、という姿勢を見せてくれましたからね。全員の力を合わせて一つの映画を撮るのだと、力強く示してくれた。誰のことも蔑ろにしない、おろそかに扱わない。それをわかっているから、安心して現場に臨める。安心できるからこそ、笑顔が生まれる」

 たとえば、と言って口にしたのは天馬の誕生日の一件だった。
 一成が企画書を持参して、染井監督に掛け合ったのは、スタッフに渡したキーワードを天馬が探し当てる、という趣向のゲームだ。スタッフたちに説明すれば快く了承してくれたものの、いぶかしげな空気が漂っていたのも事実だった。
 あの皇天馬が――日本中で知らぬもののない、世界でも注目を浴びる俳優である皇天馬が、一介のスタッフのことなど認識しているだろうか、と。
 だから、あちこちに聞き込みをしながら時間を掛けての捜索になるだろう、とスタッフたちは思っていたという。しかし、蓋を開けてみれば、予想は軽々と覆される。天馬は迷うことなく、該当のスタッフを探し当てたのだ。

「事実として、一人一人を掛け替えのないチームの一員だと思っている、ということが伝わったのは大きい。もともと、天馬くんは尊大な態度を取るわけではありませんし、礼儀正しい人柄ですから、印象は良かったとは思いますが」

 天馬は現場の空気を気にするし、一成もそういう性質だ。だから、撮影に入った当初から、決して現場の雰囲気は悪くなかった。それが、天馬の誕生日以降よりいっそう強い連帯感が生まれた、と染井監督は言う。

「三好さんが発案したゲームだということも、みなさんわかっていますからね。そもそも、スタッフのことを認識して、話をちゃんと覚えていなければゲームが始まらない。三好さんも天馬くんも、その場しのぎの言葉ではなく、事実として一人ずつをきちんと見ていてくれるのだ、という証明に他ならなかったんですよ」
「――そこまで考えてたわけじゃないっていうか、こうしたら楽しいかなって思っただけですよ」

 肩をすくめて一成は答える。謙遜でも何でもなく、楽しい思い出を作りたくて考案したゲームなのだ。
 その言葉に、染井監督はにこにこと言った。「スタッフたちに評価されようだとか、そういう意図がないことも伝わったんでしょうね」と嬉しそうだ。

「もともと手を抜くような人間はいませんが、それでもやはり、心構えは変わります。天馬くんと三好さん、二人の芝居をどこまで高めていけるか。最高の二人を撮影するために全力を尽くそうと、共通のゴールが明確になったのを感じました」

 言葉ではなく、声ではなく、現場でのスタッフたちの行動から、染井監督は理解したという。
 そんな風に言ってもらえることが嬉しいと一成は思うし、天馬だって同じ気持ちだろう。それに、今回の現場は確かに、全員が一丸となって作品に臨む姿勢が強かったと一成も感じている。

「とてもありがたい言葉で、嬉しいです。でも、たぶんですけど、染井監督の作品だからっていうのが大きいんじゃないかなって思います」

 染井監督は、天馬と一成のおかげだと言ってくれるけれど。一つのゴールに向かって、スタッフ全員で進んでいこうとする、あの意志の根幹は染井芳暢作品に関わっている、という自負ではないか、と一成は思っている。
 芝居に関わる者なら、誰でも知っている名前だ。国内外を問わず多くの賞を獲得した作品が数多くあり、世界から評価されている。半ば伝説とも言える存在の染井監督の作品に参加できる、という事実は、スタッフたちの気概になったはずだ。
 染井監督は、一成の言葉に数度目をまたたかせた。それから、唇に笑みを浮かべて「そうですね」とうなずく。

「ありがたいことに、そう思ってくださる方は多いでしょう。身が引き締まる思いだと、並々ならぬ気合いで臨んでくれていることも知っています」

 一成の言葉に、染井監督はうなずく。スタッフたちの意気込みの一つに、染井作品に携わるという事実はあっただろう、と。だけれど、染井監督はやわらかに首を振った。

「それだけではないんですよ。今回の現場は、常に明るい光に満ちているようでした。どんな時も、透き通る光に包まれているような。気持ちのいい空気が流れているな、とよく思いました」

 スタッフの意気込みや、強い意志。笑い声が響くこと。動き回るスタッフやキャスト。撮影に関わる全てを照らし出すのが何であるか、全体を見渡す染井監督は理解した。

「天馬くんと三好さんが、明かりでいてくれたからですよ」

 目を細めて、染井監督は告げた。唇にやわらかな笑みを浮かべて、やさしいまなざしで。それを受け取る一成は、戸惑うように目をまたたかせた。
 現場の雰囲気作りに気をつけていたのは、純然たる事実だ。主役を任されたから、ということもあるし、自分自身の気質としても当然の行動だった。
 ただ、明かりでいようだとか、みんなを照らそうだとか、そんなたいそうな意志があるわけではなかった。天馬であれば、自然と明るい光を放つのは理解できるけれど。
 不思議そうな空気を流す一成に向けて、染井監督は真っ直ぐと言葉を紡いだ。

「二人が一緒にいると、それだけで何だか周りが明るくなるようでした。意識しての行動ではないでしょう。些細な話をして、二人で笑い合っている姿がとても印象深かった」

 落ち着いた声で、静かに告げる。
 撮影の合間。一成が耳打ちした言葉に、天馬がこらえきれないといった様子で笑う。大きな口を開けて、快活に。純真無垢な少年のように。比較的大人の顔をする天馬にしては珍しい、無邪気な笑顔。
 台本の確認をしている時。真剣な表情で、天馬と一成が話し合いをしている。話の流れで、天馬が何か言葉を口にする。聞いた一成は、静かに笑みを浮かべる。落ち着いた表情で、奥底に凛とした意志を潜ませて。普段のにぎやかさではなく、はっとする静謐さで。
 スタジオへ入る時、モニターをチェックする時。スタンバイ中、ロケ現場へ向かう駐車場、何回もテイクを重ねたあと、カメラテストの最中。
 何でもない瞬間に、天馬と一成は言葉を交わし合う。ささやかな一場面で、互いの名前を呼び笑い合う。染井監督は、そんな二人をずっと見ていた。

「天馬くんと三好さんの間にあるのは、とても美しいものでしたよ」

 真っ直ぐとしたまなざしで、丁寧に紡がれた言葉。今までの声に似て、響きは少し違っている。大事な言葉を口にするのだと、大切なことを告げているのだと。伝えるような真摯な響きに、一成は悟る。
 ああ、これは、この言葉が意味するものは。
 染井監督は聡明な人だ。上手く隠したつもりでも、きっと気づかれてしまうのだ。
 動揺のような納得のような感情が渦巻いて、一成は上手く言葉を返せない。染井監督は気にすることなく、さらに言葉を継いだ。やわらかく、笑みを浮かべた唇で。

「二人が一緒にいるだけで、辺りに光を灯すようでした。その光が、今回の現場にはずっと満ちていました。二人の紡いだものが、ずっと私たちを照らしていましたよ」

 そう言って、浮かべるまなざしがあんまりやさしくて、一成は呼吸を忘れる。だって、これは、まるで。何か、とても良いものを見つめるみたいだ。

「どんな名前をつけるかは、重要なことではありませんね。確かな名前をつける必要も、きっとないんでしょう」

 静かな口調で声が続いて、一成は息を取り戻す。小さく深呼吸をする。染井監督は、そんな一成を見つめて言葉を重ねる。

「天馬くんと、三好さんの間にあるものは、とても美しかったんですよ」

 光のあふれるまなざし。やわらかな、凛とした言葉。染井監督から告げられるものは、一成の胸に真っ直ぐ届く。
 染井監督は、二人の関係に気づいた。夏組や友人だけではない、特別なつながり。聡い人で鋭い目を持っているから、どれだけ上手く隠したところで見抜かれてしまうのだ。
 同時に、隠そうとする意志も理由も気づいたのだろう。だから、具体的な言葉にすることはなかった。
 代わりのように告げたのは、美しかった、という言葉だ。
 美しかった。天馬と一成。二人が交わすささやかなやり取りや、他愛のない一場面。誰の記憶にも残らないような、日常の一瞬に紛れて消えてしまうような。
 小さな瞬間が、天馬と一成が共に過ごしている、ただそれだけの空間が、美しかったと言う。
 その事実が一成の胸にじわじわと沁み込んでいく。だってそれは、その言葉は。
 一成は胸中でつぶやく。今日までずっと、見守っていてくれた。芝居を、心の全てをさらけ出す演技を、何もかもをずっと見ていてくれた人に向けて、声にならない声で言う。

 あなたの目に映るオレたちは、美しいものでしたか。美しいものだと、言ってくれますか。

 万人から受け入れられる関係ではないと知っている。素直な心に従えば、嫌悪や拒絶を示されて、心無い言葉も向けられるだろう。
 嘘を吐かなければ共にはいられない関係だ。この人が、特別なただ一人だと。人生を共に歩くのはこの人なのだと、声を大にして言うこともできない。
 思い浮かぶのは、美術館でのワンシーンだった。蒼生の台詞を口にした時、あれは一成の言葉でもあった。
「殺さないで」と言った。自分たちの関係は決して一般的ではない。なかったことにしてしまえば簡単で、見なかったふりをしてしまえば楽だろう。
 気づかない顔をして、通り過ぎてしまえば、何も考えなくていい。何も変わる必要もないし、配慮だって要らない。それの方がきっと簡単だ。
 だけれど、間違いなく自分たちは生きている。みんなと同じでいられなくても、異性と人生を共にすることを選ばなくても、普通ではない道を歩くとしても。それでもここで生きているのだと、なかったことにしないでくれと言った。
 たった今告げられた言葉は、あの時の蒼生であり、一成への染井監督の答えだ、と思った。
 天馬と一成が隠そうとしている意志を尊重して、具体的なことは口にしない。それでも、確かに知っているのだと伝える。
 決してなかったことになんかしない。見なかったふりも、気づかない顔もしなかった。二人が共に在ることを、心から肯定する。
 一成はぎゅっと唇を閉じてから、ゆっくりと息を吐き出す。
 どんな言葉を口にすればいいのかわからない。嫌悪なんて一つもなかった。拒絶も非難も微塵もない。否定されなかった。なかったことにされなかった。その事実だけで、充分すぎると思ったのに。
 美しかった、という言葉が繰り返し響く。何度も、何度も、強く胸に響く。
 二人の関係に光のような言葉をくれた。二人でいることは、間違いではないのだと、力強く言ってくれた。
 歩む道が平坦ではないことも、困難もわからない人ではない。それでも、ただ真っ直ぐと言ってくれた。たとえ嘘を吐かなければ共にはいられなくても。たとえ普通と違った道を歩くしても。
 ささやかなやり取りを、他愛のない日々を、二人で紡いだ時間を指して、美しいのだと言ってくれた。
 その事実に、上手く笑顔が作れない。もちろん悲しみからではなかった。告げられた言葉が心の奥底まで届いて、胸がいっぱいになる。
 染井監督は、普通とは違うと線を引かなかった。異質なものとして排除することもなかった。抱える困難を知っていても、悲しい顔をしなかった。ただ、やさしいまなざしで見つめてくれた。何だかとても良いもののように。二人が共に過ごすことを、同じ時間を生きることを、心から素晴らしいものだと言ってくれた。
 それは、二人が人生を共にすることへ限りない祝福だ。
 一成は、熱い息を吐き出す。上手く笑顔を作れなくても、黙ったままではいたくない。
 確かに伝わったのだと、受け取ったのだと言いたくて、一成はどうにか「ありがとうございます」と絞り出した。
 冗談みたいに震えた、今にも泣き出してしまいそうな声。ささやきのようだったけれど、きちんと耳に届いたのだろう。染井監督は嬉しそうにほほえんだ。
 お互いに、具体的なことは何も言わなかった。それでも充分だった。天馬と一成、二人の間にあるもの。結んだつながり。真っ直ぐと肯定して、共に在ることを、共に生きていくことを、とびきりすてきなことだと言ってくれた。
 どんな言葉がなくても伝わった。お互い、何も言わなくても充分だとわかっている。漂う沈黙はやさしくて、夜はただおだやかだ。