終演までは、どうかワルツを。 17話




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 それはまだ、幸がMANKAI寮から専門学校に通っていたころだ。
 あとから聞いた話では、天馬と一成が恋人として付き合い始めた時分だろう。その時はまだ二人から交際宣言は聞かされていなかったので、明確に恋人同士として接していたわけではない。
 ただ、勘のいい幸なので二人の関係が変わったことはすぐにわかったし、暗黙の了解のように恋人として認識していた。
 二人の間には夏組とも友達とも違う何かが育っているのは感じていた。だから、その関係にようやく名前がついたのだ、と理解していた。
 本人たちから聞かされるまではあえて突っ込むこともないだろう、と特に何も言わなかったけれど。

 その日、幸はいつもより早い時間に帰宅した。課題のデザインがまるで進まず、自習室にこもっていても埒が明かないと踏んで、昼過ぎには帰宅したのだ。
 その時間帯なら、寮にはほとんど人がいないだろうから集中できると思ってという理由もある。
 案の定、寮内はがらんとしていた。
 いつもはやたらと騒がしくて動物園のようだけれど、静まり返った寮はまるで別世界のようだった。今はその静けさがありがたい、と思いながら談話室の扉を開けると、目を丸くした一成に出迎えられた。

――あれ、ゆっきー。早いね? もしかして具合悪いとか?
――違うけど。こっちのほうが集中できそうだから早く帰ってきただけ。

 淡々と言えば、一成は大袈裟に「ならよかった~」と言って笑う。幸は肩からかけていた鞄を下ろし、談話室を見渡す。
 いつもなら、二・三人はいてもおかしくはないのに今日は一成しかいないようだった。

――カントクちゃんとフルーチェさんとスケっちは特売の買い出しに行ったよん♪
――アンタは行かなくていいわけ。

 幸の疑問を察した一成の返答に、純粋に不思議に思って聞いた。特売なら人手がいくらあってもいいはずだ。一成も連れて行かれていないのが謎だった。

――んー、ちょっと別の用事があるっていうか。今回はパスって感じ?

 少しだけバツが悪そうな表情に、珍しいな、と幸は思う。求められなくても、人手が必要な時は自ら進んで手を貸すのが一成という男だと知っている。
 それなのに、今回はその手伝いに志願しなかったどころか、回避したらしい。

――あ、ゆっきー、何か飲む? オレ今コーヒー淹れようと思ってたところ!

 わざとらしいまでに表情を明るくした一成が、幸に向かって問いかける。
 幸は少しだけ考えたあと、「じゃ、コーヒー」と答えた。一成は何だか楽しそうに「ゆっきーがコーヒーとか大人になったよねん」と笑っている。
 一成は手際よくコーヒーメーカーを作動させてているようだ。抽出音が聞こえてきて、幸はちらりと視線を向ける。すると、取り出されたコーヒーカップが目に入って、思わず言葉を落とす。

――三つ?

 ここにいるのは二人だけで、一成と幸しか飲まないのならカップが一つ多い。不審げな表情に気づいたのか、一成は眉を下げて笑った。困ったような、バツが悪そうな――愛おしそうな。

――テンテンの分だよん。

 さらりと告げられた言葉についた色が。声の端々にこぼれる光が。キラキラと、幸の目前で一瞬散ったような気がした。

――ポンコツ、寮にいるんだ。
――うん。何か休講になったから帰ってきて、課題仕上げてるところ。気分転換にコーヒー淹れてあげよっかなと思って!

 役者の傍ら大学に通う天馬は、学業にもきちんと取り組んでいる。
 寮には先輩から講師陣までそろっているので、一人大学で課題に取り組むよりも効率はいい。なので、寮に帰ってきているのだろうと察することはできた。
 何だかんだで真面目な人間であることは間違いないし、やると決めたらやり遂げるのが夏組リーダーであることはわかっている。
 天馬の大学生活について取り止めのない話をしていると、コーヒーメーカーは抽出を終えたらしい。
 それに気づいて、一成が三つのカップにコーヒーを注ぐ。ふわりと立ち上るコーヒーの香りを吸い込みながら、幸は言った。

――それじゃ、オレが持ってってあげる。

 用意してくれた一成を気遣っての言葉だった。コーヒーを淹れてくれたのだから、運搬くらいは自分がやろうと思ったのだ。
 どうせ天馬は自室にいるのだろうし、それなら同室の自分が持っていくほうが効率もいい。それだけの理由で、深い意味は特になかった。

――オレが持ってくよ。

 やわらかく首を振って告げた、一成の言葉が。何だかいつもと違って聞こえて、幸は目を瞬かせる。
 いつも明るく楽しそうで、人を不快にしないことに長けている目の前の男。
 そんな一成の発した言葉なのに、どこかに小さな――そう、幸でなければ気づかないような鋭さがあった。

――ほら、ゆっきーも課題あるし、疲れてるっしょ? オレは今日一日寮だったから元気だし!

 朗らかに放たれた言葉に、先ほどの鋭さは欠片もない。錯覚だったのかと思うほど自然に、一成は全てをまろやかに覆い隠すことが得意だった。
 だけれど幸は、上手に騙されない。それは今までの夏組としての付き合いの長さゆえだし、これまでデザイナーズペアとして数々の作品を共に生み出してきた経験から来るものでもあった。
 明るくて人付き合いが上手で、誰とでも良好な関係を作ることが得意。相手に不快感を与えることなんかしない一成が、それでも自分に向けた、あの一瞬の感情。
 驚いてもよかったし、不快に思って腹を立ててもよかったのかもしれない。だけれど、その時幸の心に芽生えたのは新鮮な感動だった。
 一成が。あの、誰かを傷つけることを恐れて中々本音を話さなかった一成が。「助けて」も言えない、自分の心をさらけ出すのが不得手な一成が。
 今、自分に向けたもの。あれはむき出しの心だった。あれはきっと、「独占欲」と呼ばれる類のものだった。
 恐らく一人で頑張っている天馬に向けて、コーヒーを運ぶのは自分の役目でありたいと思ったのだ。だから、幸ではなく自分が持って行くと告げた。
 その役目を他の誰にも渡したくないという、小さな独占欲が声に現れて鋭さになった。
 幸は一成のことをよく知っている。長い時間を共に過ごしたということもあるし、同じ板の上に立つということは心をさらけ出すということだから、嫌でも人となりを知ることになる。
 加えて、デザインという、互いの思考や価値観を形にしていく作業を通しての結びつきが強いということもあいまって、幸は一成の心をある程度正確に理解している自負もあった。
 だけれど。今、自分に向けられたものを幸は知らなかった。

――椋はまだ大学?
――え、うん、むっくんは帰ってきてないよ。

 幸の言葉に戸惑ったように一成が答える。幸は「それじゃ、オレそっちの部屋にいるから」と続けた。一成が驚いたような、申し訳なさそうな空気を流す。

――ポンコツがいると集中できないし。一人のほうがいいからそっちの部屋借りる。

 きっぱりと告げた言葉は嘘ではなかった。実際、天馬のいる部屋よりも一人でいられるほうが集中はできる。だけれど、当然それだけが理由ではないことは、一成だって察しただろう。
 幸はすでに理解している。珍しく買い出しをパスしたのだって、一成が天馬と一緒にいたかったからだろう。コーヒーを持って行くのは自分がいいなんて独占欲も、天馬を独り占めしたいからだ。

――ごめんね、ゆっきー。

 眉を下げてそう言う一成の謝罪は、別の部屋を使わせることだけではない。
 己の声に含まれてしまった鋭さも、それに幸が気づいたことも、恐らく一成は理解した。だからこその謝罪なのだということを、幸だってわかっている。

――別に。

 だから、それだけ言った。正直なところ面倒くさいと思う気持ちがゼロではなかったし、何度も続けばさすがにキレたかもしれない。
 だけれど、少なくとも今回の件は幸にとって初めてのことだったし、何よりも。
 明るく朗らか、軽い調子でノリ良く過ごす一成の。実は真面目で論理的、他人のことをよく見て気遣い上手な一成の。
 むき出しのワガママはひどく貴重で、余計にあざやかに幸の胸に焼き付いた。だからそれを大事にしたいと思ったのだ。

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