終演までは、どうかワルツを。 23話




 コンビニで買った缶チューハイを持って屋根に上がる。

 てっきり部屋で飲むのだと思っていた一成は、三角に手を引かれながら行き着いた先に、思わず「え?」と声を漏らした。待って、なんで屋根。百歩譲って中庭かバルコニー。なんで屋根。
 盛大にぶちまけたハテナマークも気にせず、三角は一成を屋根の上へと招待する。色々大丈夫かと心配になったものの、どうにか無事に屋根へ上がることができて、一成はほっと息を吐き出す。

「くもんには、屋根にいるって言っておくね~」

 のんびりとした調子から察するに、三角は今も時々屋根に登っているらしいことがうかがえた。恐らく九門にとっては「オッケー!」で済む類の言葉なのだろう。
 変わらないなぁ、と思っていると、三角が缶チューハイを一成へ差し出す。花火の描かれた夏季限定パッケージを受け取ると、三角はにっこり笑った。

「お月さま見えないけど、乾杯しよ~」

 のんびりとした調子で周りを見渡したあと、三角はそう告げる。今夜の月はどうやらまだ出ていないようだった。
 一成は少しだけ考えたあと、チューハイのプルタブを開けてから缶を掲げて言う。

「一度飲んだら友達で!」
「毎日飲んだら兄弟だ!」

 一瞬の間もなく言葉が返り、同じように掲げた缶を二人で打ち鳴らす。目を合わせた二人は、大笑いしながらチューハイに口をつけた。
 懐かしい台詞を口にした。三角はずっと前から知っていたように、返してくれた。その事実が嬉しくて、楽しくて、なんだかくすぐったくて笑みがこぼれて仕方なかった。
 キイチとヨシマル。一成が初めての主演を務めた舞台で、準主演の三角を筆頭に夏組にはたくさんの心配と迷惑を掛けたことを覚えている。
 それでも、悩んで出した結論こそが今の一成の道に確かにつながっていると言えた。懐かしくて大切なあの時間は、いつだって一成の胸に明かりを灯している。
 二人はゆっくりとお酒を傾けながら、夜空の下でささやかな会話を繰り広げる。

「すみーの舞台すげー良かったよね。凱旋公演もめっちゃ楽しみ!」
「オレも~! はやく舞台立ちたいな~」

 三角は現在、人気ゲームの2.5次元舞台に出演している。元々人気のあるゲームであることからチケット倍率は相当なものだったし、東京公演初日からファンの間では評判になっている。
 凱旋公演千秋楽は全国各地でライブビューイングも実施されるはずだ。

「すみーのキャラ、ゲームだとあんまり出てこないんでしょ? 今回の舞台化でエピソードの掘り下げいっぱいあったって聞いた~」
「うん、オレもゲームがんばってやったよ~。でも、ちょっと難しくて……いたるに教えてもらった!」
「いたるんなら詳しいもんね!」

 後半へ向かうにつれて重要な役割が判明するものの、序盤はあまり主人公に関わることのないキャラクターだった。そのため、最初の内に語られるエピソードを取りこぼしやすいという。
 ただ、その点はゲームオタクの至の出番である。三角の演じるキャラクターのことも理解していたので、攻略を進める三角に的確なアドバイスをして必要なエピソードは全て取得した。

「さすがいたるんだよね~。ゲーム原作なら、マジで大体知ってるもん」

 ゲームのことならとりあえず至に聞けばどうにかなる、というのがMANKAIカンパニーの共通認識だった。
 最近では「あれはあれですごいんじゃないか」と、ゲームオタクっぷりに呆れていたメンバーまで言い始めているくらいだから相当だろう。
 ゲーム関連以外でも、サブカルチャーには詳しい人間なので一成も時々お世話になっている。
 この前も、SNSで話題の件について話しをしてみたら発信者が至の相互フォロワーだった、なんてこともあったのだ。

「いたるん、働きながらあれだけ色んなところに情報張っててさすがだし。オレもお世話になってばっかだな~」

 何か恩返しできたらいいんだけど、と思うものの、一成のリアルラックはそこまで強運を発揮しない。
 せいぜい課金カードのお供えくらしかないかも……と思っていると、缶チューハイを傾けていた三角が「オレもー」と笑った。

「いたるには、この前配信したいって言った時も助けてもらったから、何かお返ししたいな~」

 配信、という言葉に一成の心臓がドキリと鳴った。
 三角は自分から配信をすることがない。そんなレアな事態が起きたら絶対耳に入るから、一成が知らない時点で配信というのが彼個人のものではないことは明白だ。
 それなら、何の話をしているのか。簡単だった。

「みんなで配信、楽しかったね~。今度はてんまも一緒にやりたい」

 三角が指しているのは、ふた月ほど前に一成が行った配信のことだ。
 天馬と自分のゴシップ記事が出て、トレンドを騒がせた。それを打ち消したくて始めた配信に、三角たちが途中参加した。あの配信は、至の協力によって為されたものだった。

「うん、そだね~。みんなでできたら楽しいよね!」

 どうにかそれだけ告げるけれど、機械的に流し込んだチューハイは何だか突然味がしなくなったような気がした。
 ドキドキ、と鳴る心臓の音を聞きながら、そうだあの件も含めて至にお礼をしないと、と思っていると、のんびりとした口調で三角が言う。

「かずが配信してるって、教えてくれたのもいたるなんだ~。てんまとかずの記事のことも教えてくれて、くもんとオレに配信見せてくれた」

 ネットをうろついていることが多い人間なので、記事にも早く気がついたのだろう。その時点では、あくまでも一成に情報を知らせるだけにとどめていたのかもしれない。
 ただ、一成が配信を始めたことで他のメンバーにも教えるべきだと判断した。恐らく、一成の意図を正しく読み取って。

「てんまのこと守るなら、オレたちも一緒だよ」

 真っ直ぐと一成を見つめるまなざし。静かな、落ち着いた目をしていた。何もかもをやさしく包み込むようなその瞳に、一成の胸が詰まる。
 一成の意図を、MANKAIカンパニーや夏組のメンバーはきちんと汲み取った。その配信の意味、守ろうとしたもの。
 だから、夏組として三角や九門、椋や幸が急きょ参加してくれたのだ。そうすれば、トレンドに乗った天馬の名前に別の意味を与えられるはずだと信じて。

「……すみー」

 ありがとう、と言おうとした言葉がくしゃりと崩れた。だって三角の言葉は、あまりにも真っ直ぐと一成の心の奥を貫いた。
 守りたかった。天馬の名前を、天馬を、どんな悪意からも守りたかったのだ。だから一成はあの時配信することを選んだし、今もこうして天馬から逃げている。
 天馬の誕生日を思い出す。
 あの時バルコニーから見た景色は、今見ているものよりも低い視線だけれど高低差以外は同じだったし、熱さをはらんだ空気も変わらない。
 あの夜の天馬を覚えている。甘えたように頭を乗せてほほえんでくれて、何より真摯に掛けてくれた言葉を覚えている。神聖な言葉を紡ぐように、人生全てを賭けるみたいに言ってくれた。

「すみー……オレ……」

 何を言いたいのかわからないのに、勝手に口が開いた。言いたいことはわからない。だけれど、奥底に眠るものは知っている。
 ずっと前から思っていた。ずっと前から知っていた。やさしく自分を見つめる三角。その視線に促されるように、一成の唇から言葉が落ちる。

「テンテンを傷つけるのが怖いんだ」

 言った瞬間、一成は心で「ああ」と言葉を落とす。
 そうだ。ずっと怖かった。恐れていた。オレはずっと、テンテンを傷つけてしまうことが怖くて仕方がない。
 口に出した瞬間に、心が形を作っていく。ぼろぼろと、あふれるように言葉がこぼれていく。

「テンテンが、エンゲージリングを注文してた。ずっと昔、付き合い始めた頃に行ったことのある店で、冗談で結婚の話をしてたんだ。そんな些細なことを覚えてて、テンテンは本当にそこでエンゲージリングを注文してた。それ聞いたら、テンテンの人生にはオレがいるんだって。オレはテンテンの人生の一部になっちゃったんだって」

 混乱したままの頭で落ちる言葉は、論理的とはほど遠い。それでも、三角は決して否定することもなく、ただ静かに一成の言葉を聞いている。

「嘘だ、本当は知ってた。テンテンは冗談なんかで結婚の話なんかしない。だから、薬指の指輪って話した時、ちゃんとここまで考えてた。テンテンはそういう人だ。ずっと真剣に、オレのことを考えてくれてる。だから、テンテンはずっと前からオレのことを自分の人生に入れてくれてた」

 本当はずっと知っていた。だけれど、それをハッキリと形にすることはなかったから、まだ大丈夫だと言い聞かせるようにして、目を背けていただけだった。

「――オレはずるいんだ。テンテンがどれだけ真摯に向き合ってくれる人なのかなんて知ってたのに。テンテンと一緒にいられることが幸せで、このままでもいいんじゃないかって、ずっと見ないふりをしてた。そのくせ、いざテンテンが言葉にしたら逃げ出してる。オレはテンテンに甘えてばっかりで、覚悟もできてない」

 だから今もこうして顔を合わせることもできないまま、夏組のみんなに迷惑をかけている。

「ごめん、ごめんすみー。ゆっきーも、くもぴも、むっくんもやさしいから、焦らないでいいって待ってくれる。テンテンだってそうだ。それなのにオレは選べない」

 悲鳴のように漏れた声。三角は、ただそれをじっと聞いていた。
 一成の言いたいこと、吐き出される心。一つとしてあますところなく受け取るように、夜に落ちる言葉を聞いていた。

「みんなやさしいのに。オレはどうしても選べない。ごめん、ごめんすみー」

 うつむいてひたすらに謝罪を繰り返す一成を、三角は見つめる。
 悲しそうな顔ではなかった。痛ましい顔でもなければ、心配そうな顔でもない。おだやかで、やわらかい。月明かりのような表情で、そっと手を伸ばす。

「大丈夫だよ、かず」

 一成の肩を、ぽん、と叩いた。二度、三度、あやすように触れられた手のひら。じんわりとした温かさは、アルコールのせいでもなければ熱の残る夜気のせいでもないだろう。
 三角の心が温度をもったような手のひらに、一成の視界が歪む。ぐちゃぐちゃになった思考のまま、一成は声を漏らした。

「――こわいんだ」

 震える声。嗚咽にも似た響きで、一成は言う。

「オレのせいで、テンテンが傷つくのが怖いんだ」

 熱い吐息とともに吐き出された言葉。心の奥底にひっそりと抱えていたもの。言葉になり、声となって、空気を伝わり三角の耳へと届く。
 言ってしまった。口にしてしまった。押し寄せるような後悔とともに、一成はそれでも理解している。

「――うん」

 小さな肯定が三角から返り、一成はわずかに体の力を抜く。それを察したのか、もう一度一成の肩をやさしく叩いた三角は、同じ温度で答えた。

「てんまを傷つけるのは、こわいねぇ」

 落ち着いた声でそう返されて、一成ののどが詰まる。怖い、と言った一成の言葉を三角は受け取った。そうして、自分も同じ気持ちだと返した。それは恐らく、三角だからこその答えだ。

 夏組は、MANKAIカンパニーの中でも平均年齢が一番若い。
 全員が学生だったし最年少は中学生だ。新生夏組の最年長は19歳だった三角と一成で、九門が入団してからも一番年上の座は揺らがないままだった。
 一成と三角は、誓って一度も年下のメンバーを頼りないと思ったことはない。むしろ、彼らには何度も助けられているし、年齢に関係なく信用できる存在だということは充分にわかっていた。
 それでも、一成と三角は自分たちが最年長であることの意味を理解していた。
 ほんの少し、だけれど確かにちょっとだけ早く道を歩き出した自分たちだから。
 愛すべき夏組の彼らに、見なくてもいいものや聞こえなくていいものとは上手に距離を取らせたかったし、怯んだら大丈夫だよとここに居場所はあるのだと全力で抱きしめてやりたかった。
 だって自分たちは間違いなくお兄ちゃんで、その場所にいられることを何よりも誇らしく思っていたのだから。
 それは一成と三角の、小さな秘密で暗黙の了解でもあった。
 きっと、天馬をはじめとしたメンバーが知ったら勝手なことを言うなと言われるだろう。だけれど、三角と一成にとって彼らを守りたいと思うことは、至極当然のことだった。
 だから、三角ならば。天馬を傷つけるのが怖いと言った一成の言葉にうなずくのだ。

「テンテンはすごい人だよ。オレら、テンテンが結構うっかりしてるところとか子どもっぽいところとか知ってるし、そういうところもかわいいなーって思うけどさ。でも、やっぱり、皇天馬の名前ってめちゃくちゃ大きい。誰だって名前を知ってて、何かあったらすぐ話題になる。そういうすごい人じゃん」

 普段それを意識することはあまりないし、三角などは特にそうだろう。一成だっていつもはそう思っている。目の前にいるのはただの皇天馬で、芸能人ではないと思っているから。
 だけれど、天馬のプロポーズに一成は現実を直視せざるを得なかった。

「そんなテンテンが、人生を共にする相手にオレを選んだらどうなるかなんて簡単だった。男同士で同性の相手を選んだら、気持ち悪いって思われる。そんな相手を選ぶなんてって非難される。もしもオレじゃなくて、女優とか女性アイドル、一般女性だったら。きっとそしたら、大きな話題にはなるけど、お祝いの言葉を言ってもらえる。気持ち悪いなんて言われない。だけど、オレじゃだめだ。だめなんだ。オレは、テンテンの弱点で、テンテンを貶める材料になっちゃう」

 天馬と一成の記事が出た時のSNSの発言。打ち消すための配信で流れたコメント。
 決して数は多くない。だけれど、少なくもなかったそれらは、皇天馬という頂点に君臨する存在を引きずり下ろそうとする悪意だった。
 他でもない自分自身が、彼らの餌になるのだと一成は理解してしまった。

「オレはテンテンに笑っててほしい。幸せしか知らないみたいに、ずっと笑っててほしい」

 一成はいつだって、心から願っている。それなのに、一成は思い知ってしまった。
 天馬が自分の人生に、一成の場所を作ったなら。これから先の人生を共にする相手として、その手を取ったなら。降り注ぐのは祝福の言葉ではなく、嫌悪と非難、悪意なのだ。
 一成は、くしゃりと顔をゆがめてつぶやく。思い知ってしまった。理解してしまった。笑ってほしいのに。天馬に泣いてほしくないのに。

「それなのに、テンテンに笑っててほしいオレが、テンテンを傷つけるんだ」

 一成は、震える声で言葉を落とす。涙は出ていなかったけれど、それはほとんど慟哭だった。
 天馬には約束された未来があるのだと、一成は知っている。世界中に羽ばたいて活躍して、きっと未来にだって名前を残す。
 誰より誠実に、真摯に努力ができる天馬なのだ。誰からも愛されて称賛されてしかるべき人。天馬の未来は、どこまでも明るいはずだったのに。
 その人生の伴侶に一成を選んだなら、途端に天馬の道に影が差す。
 だって天馬の隣にいるべきは、もっと相応しい人だ。皇天馬に相応しい未来を共に歩むのは、誰からも祝福を捧げられる存在だ。
 そうでない人を選ぶことは、この先きっと天馬の弱みになる。

「勝手なことを言ってるって思う。だけど、オレは、オレのせいでテンテンを傷つけるのがこわいよ」

 絞り出すような言葉だった。
 一成は、いつだって願っていた。笑ってほしい。幸せでいてほしい。心のままに、楽しくて仕方ないって顔で天馬にずっと笑っていてほしい。
 誰より願っているのに、その自分こそが天馬を傷つけるのだと思い知ってしまった。

「――オレも、てんまが傷つくのはやだな~」

 一成の言葉を聞いていた三角は、長い沈黙のあとでそう言った。びくり、と一成の肩が震える。それを察した三角は肩をやさしく撫でて続ける。

「オレも、てんまに笑ってほしい」

 告げる声があまりにもやさしくて。おだやかで、静かで、祈るような響きがとても綺麗で。導かれるように顔を上げた一成は、やわらかくほほえむ三角の視線を真正面から受け取る。
 夏組の最年長として一緒に過ごしてきた。特別気負うわけではないけれど、それは二人にとって誇りでもあり、確かな決意でもあったのだ。
 だから、三角も一成もいつだって笑顔を祈ってきた。それと似ていた。だけれど少しだけ違った。だって続いた言葉が、声が。

「かずにも、笑ってほしい」

 太陽のように辺り一面を照らす光ではなかった。それでも確かに光を放つ。やわやわと、にじむ光で染め上げるお月さまのような。そういう笑みで、声で、三角は言う。

「オレ、二人が笑ってるところが大好きだよ。だから、てんまに笑っててほしいし、かずにも笑っててほしい」

 それは確かな祈りだった。どこまでも純粋な、まっさらな願いだった。
 一成はいつだって、天馬が笑顔でいることを祈ってきた。それと同じ想いを、三角は一成に向けている。向けられた視線が、かけられる声が言葉が、何よりも物語っていた。
 一成は何と答えればいいかわからない。三角はその沈黙を気にすることもなく、言葉を続けた。

「かずとてんまが一緒にいるとこ、オレ大好き」

 そう言って、肩に触れていた手をそっと放す。三角は両手で小さなサンカクを作ると、「二人が一緒にいるところは、サンカク~」と笑う。

「てんまとかずが一緒にいると、オレ嬉しくなるし――オレ、てんまとかずが名前を呼ぶの聞いてるのが好き」

 お月さまみたいな笑みに、ほんの少しのひだまりを混ぜて三角は言う。二人が、どんな風に特別に名前を呼ぶか、かず、知ってる?
 やさしく問いかけられて、一成はゆるく首を振った。
 一成は天馬に名前を呼ばれるのが好きだ。明るい光を放つみたいな声も、どこかにまろやかさを宿した声も、天馬の声で形作られる自分の名前が好きだった。
 だけれど、自分がどんな風に天馬を呼んでいるかなんて気にしたことがない。
 三角は、とっておきの秘密を打ち明けるような顔でそっと口を開く。

「時々オレ、ここで空を見てるんだ~。お月さま出てない時も、サンカクないかな~って、かずに教えてもらった星座はどれかな~って、見てるんだよ」

 どんな時に三角が屋根へ上がっているのか、詳しいことを一成は知らない。ただ、自分の知らないタイミングで三角が屋根へ登っていることはわかっていた。

「それでね、空を見てたらバルコニーに誰かが来ることがあるんだ。オレに気づいてないけど、みんなの話し声聞いてるの好き」

 三角がいることに気づくことなく交わされる会話。こっそり聞いたらいけないかな、と思って大体はすぐに三角はその場を離れるようにしている。
 ただ、本当に何でもない、談話室で交わされる続きみたいな会話の時、ちょっとだけ三角は耳をそばだてる。
 幼い頃の三角の話し相手は、主に祖父である八角だった。円は遠慮がちながら話してくれたものの、両親はほとんど三角に見向きもしない。
 八角が亡くなってからは、誰かと会話が成立することもまれだった。
 動物たちとコミュニケーションは取れていたけれど、三角に向けられる誰かの声を聞くことはなかった。密かにMANKAI寮に住み着いて、夏組との出会いを果たすまでは。
 だから、三角は誰かの声を聞くのが好きだった。
 監督や夏組と出会って、胸が締めつけられる感情に寂しいという名前がつくのと同時に、自分以外の声が満ちる心地よさを三角は思い出した。誰かのやわらかな話し声は、三角の心をふんわりと温める。

「オレが一番好きなのはね、名前を呼ぶ声なんだ」

 他愛のない雑談が好きだ。何でもない話を交わす、気心の知れたやり取りが好きだ。
 どれもが三角の胸を満たすけれど、一等好きなのは誰かの名前を呼ぶ声だった。
 慕わしげに、ちょっと強い調子で、急いだ様子で、大きな声で、ささやくみたいに。色々な表情で呼ばれる、彩り豊かな団員たちの名前は三角の耳をやさしく撫でていく。

「かずとてんまは、特別な声をしてるよ」

 一成が呼ぶ「すみー」という声。天馬が呼ぶ「三角」という声。どちらも三角にとっては特別なものだし、それは他の誰とも違っていて、大事な声だ。
 同じように、一成が夏組を呼ぶ声も、天馬が夏組の名前を口にする声も、みんな違って特別だ。だけれど、三角は知っている。屋根の上でこっそりと聞いた声を。

「オレね、ここで、かずとてんまが電話してるの聞いたことあるんだ」

 バルコニーに一成がやってきた、と思えば手にはスマートフォンを持っていた。電話しているのだと察した三角は、盗み聞きは良くないと判断して、その場を離れようとしたのだけれど。

「かずがてんまを呼ぶ声、すごくすごくやさしくって、やわらかくって、特別だった」

 スマートフォンを片手に通話する一成の声。いつもより落ち着いて、どこかに甘さを宿している。
 聞いたことのない種類の声に思わず耳をそばだてると、流れた声。電話の向こうの通話相手の名前。一成の唇から紡がれる「テンテン」という声。
 一成が「テンテン」と口にする場面を、三角はよく知っている。
 夏組として一緒に時間を過ごせば過ごすほど、その名前を聞く機会は増える。だから、その音の連なりを三角はよく知っていたはずなのに。
 電話越しに紡がれる声は、今まで三角が聞いていたものとはまるで様子が違っていた。
 こんな風に呼ばれる名前を、三角は知らない。やわらかくって、やさしくて。声に光が宿ったみたい。聞き慣れたはずの名前が、よく知る音の連なりが、あざやかな色に染まっていく。

「キラキラしてて、すごくきれいで、特別な声だった」

 目の前に星が落ちてきたんじゃないか、と思ってしまうようなまばゆさで、一成は天馬の名前を呼んだ。それを聞いた三角は、すとんと理解したのだ。かずの特別はてんまのためにあるんだ、と。

「――てんまも、おんなじ声してる」

 その電話を聞いてから、三角の耳はちょっとだけ敏感になった。だからなのだろう。今まではあまり気にしたことがなかった天馬の声にも、同じものが宿っていることに気づいたのは。
 それは些細な一瞬や、日常のほんの一場面でしかない。稽古休憩中に二人のシーンを確認している時。連絡事項を伝えるために呼び止めた時。雑談中に目が合った時。
 いつもと何一つ変わらないような顔をして、それでも一瞬だけ。「一成」と呼ぶ天馬の声は、あふれるほどの愛おしさをたたえていた。
 キラキラしてて、まぶしくて。あざやかな色がついて、はっとするほどきれい。
 そんな風に名前を呼ぶ天馬に、三角の胸は喜びでいっぱいになる。てんまの特別はかずだ、と言葉ではなく理解できたから。

「オレ、かずもてんまも大好き。だから、大好きな二人がおんなじ特別を持ってて嬉しい」

 はにかむような笑みを浮かべて、三角は言う。真っ直ぐと一成に視線を向けて、包み込むような光をたたえた表情で。一成は、ただそれを見つめている。

「ねえ、かず。オレ、二人が一緒に笑っててほしいんだ」

 三角は言う。静かに、やさしく。何よりも敬虔な祈りをかけるもののまなざしで。

 三角は天馬の笑顔を願っている。幸せでいてほしい。傷つくことなく笑ってほしいと、一成と同じように願っている。
 だけれど、同じ気持ちで三角は祈っているのだ。一成にも笑っていてほしい。天馬だけが笑顔でいるのではなく、一成にも笑ってほしい。
 どちらか一方だけではだめだった。二人で一緒に。どちらかだけが笑顔でどちらかだけが苦しいのではなく。二人一緒に笑ってほしいと三角は願っている。
 その想いを、一成が理解できないはずがなかった。同じように天馬の笑顔を願ってきた一成だからこそ、痛いほどに真っ直ぐな、身を切るように切実な三角の祈りは一成の胸の奥まで届いた。
 一成は何か言葉を返そうと思うのに、上手く形にならない。それでも。上手に答えてあげられなくても、望む答えを返せないとしても。
 それでも、届いたことだけは伝えたくて「うん」とうなずいた。