終演までは、どうかワルツを。 36話




 車は都内のホテルへ到着した。
 今日の一件はずいぶんな騒ぎになっていたため、落ち着くまではMANKAI寮へ帰らないほうがいいだろうという判断だった。
 幸い、皇事務所がよく利用するというホテルの部屋を押さえることができた。
 全ての手配を行い、さらには車で送ってくれた井川に対して夏組全員で頭を下げると、「夏組のみなさんの無事を確保しないと、天馬くんが安心できませんからね」と笑っていた。何かを懐かしむような、まぶしいものを見つめるようなまなざしで。
 しかしそれも一瞬で消える。「また明日迎えにきます」と言って去っていく様子は、いかにも敏腕マネージャーといった雰囲気を漂わせていた。
 夏組には二部屋が用意されていた。
 単純に考えれば三人ずつで分けられる部屋割りだけれど、幸が「オレたち一室使うから」と言えば、椋・三角・九門も同意を返す。
 四人で一部屋を使うので、もう一部屋は天馬と一成が使え、という意味だった。
 元々は話し合いを行う予定で時間を取っていたのだ。少しばかり予定は狂ったけれど、ホテルの一室が話し合いに適した環境というのは間違いない。
 何より、暗黙の内に送られる「ちゃんと話をしろ」というメッセージに押され、二人は部屋の鍵を受け取った。





「さっすが高層階、見晴らしいいねん! もっと暗くなったらめちゃくちゃ綺麗じゃない!?」

 部屋に入った一成は、開け放たれた窓から見える景色に一際大きな歓声を上げた。
 高層階に位置する客室なので東京の様子を一望できる。今はまだ空が明るさを残しているけれど、夜になり明かりが灯れば確かに見事な景色を見ることができるだろう。

「夜景、絶対写真撮んなきゃね! こんなところ泊まる機会そうそうないし、さすがは皇事務所ご用達って感じ!」

 ハイテンションで言うけれど、いつもの調子が出ないことを一成は自覚していた。天馬と二人きりだという事実を、今になって意識してしまったからだ。
 さっきまでは夏組が一緒にいた。だから、いつもの顔をできていたけれど、天馬と二人きりの時に自分がどんな顔をしていたのか、一成はよくわからなくなっていた。
 恐らく天馬もそれに気づいている。他人の心を見抜くのが得意だし、何より一成は部屋に入ってから一度もスマートフォンを取り出していない。その特異さに気づかない天馬ではないだろう。
 それでも、天馬は何も言わなかった。
 窓の向こうを眺めて「あの建物何だろね」とか「めっちゃやばたんな看板発見!」と騒ぐ一成に、「結構昔からあるぞ、あれ」だとか「確かにインパクトはある」だとか、答えは返すけれど何かをうながすことはなかった。
 待っていてくれる、と一成は思う。テンテンは、オレの気持ちが落ち着くのを待っているのだ。
 その事実に、何でもない話を続けてくれる天馬に、確かに一成の心は次第に平静を取り戻していった。今ならきっと、いつもみたいに笑って写真だって撮れるだろう、と思うくらいには。
 しかし、一成はそうしなかった。深呼吸をすると、平明な声をこぼす。

「――カントクちゃんたちにいっぱい迷惑かけちゃったね。あとでみんなにちゃんと謝らなきゃ」

 監督には連絡を入れて仔細は説明している。突然の事態にも関わらず、監督は「こっちは大丈夫だよ! それより、ストリートACTすごくよかった!」と言ってくれたし、それが本心だということはわかっているけれど。
 それでも、迷惑を掛けたことは事実なので申し訳なかった。
 話を聞けば、どうやら万里をはじめ秋組が中心となって交通整理もしてくれたらしい。おかげであの人だかりでも大きな混乱は起きなかったし、警察が登場することもなかったのだろう。
 それ以外にも、いきなり話題の渦中に放り込まれたというのに、MANKAIカンパニーのメンバーは誰一人夏組を責めたりはしない。文句は言うだろうけれど、それは当然聞くつもりだ。
 ただ、かけてしまった迷惑を考えると、一成としては心底申し訳ない。
 天馬は一成の言葉に、ふっと小さく笑って告げる。

「別にお前だけじゃない。夏組全員で、だろ」

 一成一人だけの責任ではないのだ、と言い切る天馬に「そだね」とうなずいてから、少しだけ面白そうな顔で言葉を落とす。

「てか、オレら全員説教されそうじゃない?」
「――ああ、左京さんとかな……」

 遠い目をした天馬が言って、その様子に一成の唇から息が漏れる。
 思わず吹き出してしまった、といった調子に天馬が少しだけバツの悪そうな顔をして――すぐに笑みをこぼす。一成が笑った、その事実が嬉しくてたまらない、といった表情で。
 愛おしさを隠しもしないまなざしで、天馬は一成を見つめる。真っ直ぐと、心の奥まで届く。それを受け取った一成も、天馬を見つめた。
 二つの視線が交わって、天馬が口を開こうとする。しかし、その前に声を発したのは一成だった。

「テンテン。あのね、オレの話を聞いてほしいんだ」

 きっと天馬は、とても大切な言葉をかけてくれるのだろうと一成は思った。そうしてきっと、これ以上ないくらいに幸せにしてくれるだろう、と。だから、それより前に言わなくては、と思ったのだ。
 テンテンの言葉を聞く前に。オレが絶対幸せになってしまう前に。テンテンにもらった言葉のお返しで告げるんじゃない。
 もらったぶんを返すための言葉じゃなくて、オレがただテンテンに渡したい言葉を、思ってること、言いたいことを、テンテンに届けるのだ。
 天馬は一成の言葉に、小さくまばたきをした。しかし、すぐに落ち着いた表情を浮かべると「わかった」とうなずく。
 一成は小さく深呼吸をしてから、真っ直ぐと天馬を見つめる。口を開く。

「プロポーズめちゃくちゃ嬉しかった。だけど、断ってごめん」

 一世一代の決心で口にしてくれた言葉だと知っている。だけれど、一成は答えることができないと首を振った。その時、天馬の心は傷ついたはずだ。だからちゃんと謝りたかった。

「そのあと、ずっと逃げててごめん。最初の内は、連絡来ても返事しなくてごめん」

 天馬の前から逃げ出した一成は、それからも徹底的に天馬を避けた。万が一でも会わないように細心の注意を払ったし、怒涛の連絡に対しても返事すらしなかった。
 天馬の前から自分の痕跡を消し去りたいという欲求からだけれど、天馬からすれば何もかもを拒絶されたという事実しか残らない。

「――まあ、確かに断られると思ってなかったからショックだった」

 ぼそり、と天馬が言う。
 天馬は一成の気持ちを疑ったことがなかった。帰国後に再び恋人として付き合い始めてからは特に、一成の愛情深さを色々な場面で感じることが増えた。
 いつもの言動に見え隠れする、やさしいまなざし。
 慈しむように自分に触れる指先。
 困ったように笑ってワガママを受け入れる姿。
 そっと寄り添って握られる手。
 心を全部明け渡すみたいに自分を呼ぶ声。
 日常に潜む全てが、天馬にとっては一成からのラブレターだった。
 自分にとっての唯一だったし、一成にとっての唯一が己だと、ただの事実のように思っていた。だから、断られるという考えがそもそもなかったのだ。

「徹底的に逃げられるし顔も見られないし、返事すら来なくなった時はさすがにうろたえた。嫌われたとは思ってなかったけどな」
「――はは、さすがはテンテン」

 一成の唇から、ぽろりと言葉が落ちる。普通はその状態になったら、「何かしたんじゃないか」とか「嫌われたんじゃないか」と思うだろうに。しかし、天馬は一成の言葉に意外そうな顔をした。

「オレは、お前がオレを好きだってことだけは疑わない。お前だってそうだろ」

 当然のように言い放たれた言葉に、一成は何も言えなくなる。天馬の言葉はこの上もなく的を射ていたからだ。
 だってそうでなければ、一成はあそこまで逃げ回らなかった。
 天馬の気持ちを疑っていたら、きっともう諦めて自分のことなんてどうでもいいと思っていると判断していたら、逃げる必要なんかなかった。だけれど、一成は天馬が諦めないことを確信していた。

「……改めて言われると、オレも大概だなぁって思うんだけど……うん、そだね。オレ、テンテンがオレを諦めないって、知ってたよ」

 手放そうと思った。だけれど、天馬は決してそれを許さない。わかっていたから逃げたのだ。それは、考えてみればひどく傲慢な話に違いない。
 だって、テンテンはずっとオレが好きだって思ってるんだから。

「ひっどい自惚れじゃん……うわ、恥ずかしい」

 顔中に熱が集まるのが、自分でもわかった。たぶん耳まで真っ赤だろう。一成は頭を抱えかけるけれど、目の前の天馬の様子に、動きを止めた。
 天馬はこぼれだしそうな笑みを浮かべている。きゅっと目を細めて、どうしようもなく動く心を知って、それがひどく大切だと知っているような、そんな笑顔で言う。やわらかな、少しだけ泣きそうな声で。

「自惚れろよ」

 祈りみたいな声だった。一成に向かってかけられる、あらゆる真摯な祈りだった。
 ああ、そうか、と一成は思う。テンテンは、自惚れてほしいのか、と思った。
 天馬は一成のことが好きだと、決して諦めないと、自惚れてほしいのだ。だってそれはつまり、天馬の気持ちを一成が決して疑わないことの証でもあるのだから。
 思うのと同時に、一成の胸が苦しくなる。
 この人は、なんて真っ直ぐと素直に自分を想ってくれるのだろう。自惚れさえも愛の言葉に変えてしまうくらい、あらゆる全てで想ってくれるのだろう。

「――うん」

 照れくさくて、だけれどどうしようもなく満たされた心が、そのまま形になったような声だった。
 愛おしさを形にしたら目の前のこの人になるんじゃないかな、と一成は思う。オレの愛おしさはきっと、テンテンの形をしているんだろう。

 ああ、ずっと、一緒にいたいな。ずっとテンテンの隣にいたいな。

 心の奥底から湧き上がるように、自然とそう思った。同時に胸に広がるものを、一成は知っている。
 天馬との人生を考える時、必ずと言っていいほど現れた。ずっと一緒にいたいと願えば忍び寄る。愛おしさの隣に立つ恐怖を、一成は知っている。
 だってずっと怖かったのだ。 
 共に人生を歩みたいという望みは、天馬の人生に一成の居場所が欲しいという意味だ。天馬は当然の顔で、一成の居場所を作ってくれるだろう。
 だけれど、その選択をしたら最後、訪れる現実が一成は怖かった。
 今もそうだ。天馬の思いを知っている。自分の気持ちもようやく自覚した。天馬に愛されていると自惚れていい。逃げ回るのはもう止めた。
 それでも、怖いものは怖いままだ。天馬に向けられる悪意や非難が怖い。自分との関係を理由にして天馬が貶められること、天馬の未来に影を生んでしまうこと。それら全てが、怖いままだ。
 その恐怖に足がすくんで、立ち止まってしまいそうになる。何もかもから逃げ出してしまおうかと思う。
 だけれど、思い浮かぶのは。近くの部屋には、自分たち以外の夏組がいるはずだ。むっくん。すみー。くもぴ。ゆっきー。逃げ出したって待っていてくれる。根気強く付き合って、たくさんの勇気をくれる。
 何よりも、目の前にいる。あざやかに、一成の心を照らして勇気を、愛おしさをくれる人がいる。いつだって、オレを奮い立たせて強くしてくれる。
 一成はぎゅっと拳を握り締める。心臓の音が響くのは、自分がこれから何を言うか知っているからだろう。言ってもいいのかわからない。黙ったままでいたほうが賢いのかもしれない。
 だけど、オレは、テンテンに伝えたいことがある。ずっと一緒にいたいと願う人に、本当の心を届けたいんだ。
 一成は深呼吸をした。真っ直ぐと天馬を見つめて、祈りを紡ぐ真摯さで、願いをかける敬虔さで、口を開く。

「――ねえ、テンテン。オレたぶん、最低なことを言うよ。それでも聞いてくれる?」

 震える声で紡いだ言葉を、天馬は受け取った。少しだけ驚いたような顔をしたあと、やさしくうなずいてくれる。天馬ならそうしてくれると、一成は知っている。
 一成は息を吐き出し、呼吸を落ち着かせてから口を開く。言いたいこと、伝えたいこと。胸にうずまく感情を、心を取り出して形にする。

「きっとこれから先、オレと一緒にいたらテンテンはオレのせいで傷つくと思う。本当は幸せだけをあげたかった。ずっと笑っていてほしかった。だから、もっと相応しい未来をあげたかった。そこに必要なのはオレじゃない。だから手を放そうと思ったし、そうするのが正解のはずった」

 一成の言葉に、天馬が顔をしかめた。反論したいことが山ほどあるぞ、とでも言いたげな顔に一成は少しだけ笑う。
 これは嘘偽りのない一成の本心だ。天馬からすれば「何言ってるんだよ」と思うかもしれないけれど、一成は心からそう思っていたし、今でも正解を問われたら同じことを言うだろう。
 だけれど、正解を知っていてもどうしようもない心があるのだと知った。
 離れようと思った。ちゃんと手を放そうと思った。そうして、天馬には輝くような未来をあげたかった。

「だけど、だめだった」

 くしゃり、と顔をゆがめて一成が笑った。泣き出す寸前のような、笑顔とも呼べない笑顔。普段、あれだけ綺麗な笑顔ができる一成には不釣り合いな、下手くそな笑顔だった。
 だからこそ、天馬は何も言えなくなる。こんな風に上手く笑えなくなるくらい、この言葉は一成の心の奥底から紡がれている。心を、そのまま形にしたように。

「ごめん、テンテン。これから先、オレはテンテンの弱点になるかもしれない。オレじゃなければ全然問題にならなかったことにつまずくこともあると思う。だってやっぱり普通の枠には入れないし、マイノリティのままだ。だからきっと、テンテンはオレのせいで要らない苦労もするし、たくさん傷つくと思う」

 懺悔するような悲痛な声で一成は言った。大罪を犯した罪人のような、処刑される瞬間を断頭台で待つような、そういう声だった。
 絶対的に自分自身を悪だとする一成の言葉に、「違う」と天馬は言いかける。それは決して一成の罪ではない。一成が罪悪感を覚える必要など一つもない。
 言いかけて口をつぐんだのは、続いた一成の言葉が別の表情をしていたからだ。

「――だけどオレ、わかっちゃったんだ。手放さなきゃだめだって、テンテンはオレのせいで傷つくって思ってたのに。本当に思ってたのに」

 後悔を語る言葉だ。しかし、どこかその声はあざやかな色をしていた。明るさとひだまりと、切なさを含んだ響きで一成は真っ直ぐと天馬を見る。
 若草色の瞳が一瞬不思議な色をたたえた、と天馬が思った瞬間、声が響いた。

「オレはどうしたって、テンテンがほしい」

 澄んだ声だった。罪悪感は一つもない。どこまでも澄み切って、心を震わせる声だった。
 一成は本当に手を放すつもりだった。ただの友達に戻って、天馬の隣にいようと思った。だけれど、どうしたって天馬を渡したくない自分の心に、一成は気づいてしまった。
 ずっと自分の心に蓋をしていた。天馬の未来の前に、自分の心なんて大した意味はなかったから、閉じ込めてなかったことにしてきた。
 それに、天馬の笑顔を望むのはこの上もないほど切実な本心だったから、まったくの嘘ではない。
 だから、自分の心なんて――天馬とどんな風に生きたいかなんて、天馬の人生にどんな風に寄り添いたいかなんて、願ってしまう心なんて、殺してしまえばよかったのだ。
 だけれど、一成は気づいてしまった。蓋をして見なかったことにしてきた、心の奥の願いを、叫び出したくなるような感情を、一成は確かに見つけてしまった。
 他の誰かのものになるなんて嫌だ。隣に立つのは自分でありたい。これから先の人生で、テンテンが笑えなくなるならオレが近くで笑顔をあげたい。テンテンが戦うなら隣で一緒に戦いたい。

「テンテンのこと、オレが一番近くで大事にしたい。世界中で誰より一番、テンテンを大事にできる人はオレがいい。オレは、他の誰でもない皇天馬と一緒に幸せになりたい」

 泣きそうな顔で一成は告げる。
 自分勝手なことを言っていると思う。だけど、伝えたかった。他でもない天馬に――大切で仕方なくて、同じくらいに自分を大切にしてくれる人に、嘘も隠し事もしたくなかった。
 ぐちゃぐちゃでどうしようもない本音も、身勝手な願いも、きっと天馬なら受け取ってくれる。

「テンテンの人生にオレの居場所がほしい。悲しい時も苦しい時もそばにいて、一番幸せな時、隣にいるのはオレがいい。だから、ねえ、テンテン」

 一成は、熱い息とともに言葉を吐き出して、真っ直ぐと天馬を見つめる。天馬は目を逸らさずに、視線で答えた。
 何一つ、一成の言葉を聞き逃したりしない。全部聞いてやる。お前がそう望むなら。
 声ではなく伝えられたものに、一成はぎゅっと拳を握った。大丈夫。テンテンなら、全部を見せても大丈夫。
 一成は声を紡ぐ。
 自分の心を天馬へ差し出す真摯さで、何もかも全てを捧げる強さで、胸を打つ慟哭の響きで。長い睫毛を震わせて、吐息を紡ぐように。少しだけかすれた声で、一成は言った。

「ごめん、オレのために傷ついて」

 その瞬間の衝撃を何と言えばいいのか、天馬にはわからない。
 一成は若草色の瞳を潤ませて、今にも泣き出しそうな顔をして、心をまるごと取り出すみたいに告げた。それは懺悔に似ていた。だけれど違った。
 天馬はほとんど無意識で、目の前に立つ一成に手を伸ばしていた。
 細い腕を掴む。体温が伝わって一成に触れたのだと理解した瞬間、もうだめだった。腕を引く。よろめく体を抱きよせて、腕の中に閉じ込めた。

「一成」

 こぼれた声は思ったよりも切羽詰まっていたけれど、天馬はそんなことに構っている余裕がなかった。ただ強く、一成を抱きしめる。
 汗の匂いがした。髪の先があたってくすぐったい。腕の中に抱きしめた一成の鼓動が、合わせた胸から伝わる。このまま、鼓動が一つになってしまえばいいのに。同じ心臓を分け合えたらいいのに。
 馬鹿みたいなことだとわかっていても、天馬は思う。だってそうしたら、死ぬ瞬間まで一緒にいられる。

「――テンテン」

 少しだけ戸惑って、だけれどとても大切な言葉を口にする響きで、一成が天馬を呼ぶ。それから、おずおずと天馬の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
 確かに回された腕、その強さ。たったそれだけで馬鹿みたいに幸福なってしまう自分を自覚しながら、天馬はより強く一成を抱きしめた。
 一成が告げた言葉を思い出す。まるで懺悔だった。だけれど、その意味を天馬が理解できないはずがなかった。
 たった一人だ、と天馬は思った。
 誰かを傷つけることが怖い、腕の中のやさしい人。誰も傷つけたくなかった。自分のせいで誰かが傷つくことがどうしたって許せない、やさしい人。
 自分の傷には頓着しないくせに、誰かの傷にはひどく敏感な彼は、誰も傷つけたくなんかなかった。それが自分のせいだというならなおさら。
 だけれど、そんな一成が、自分のために傷つくことを許したのは、たった一人世界でオレだけだ。

 こんなもの、愛の告白でなくて何だって言うんだ。

 天馬は、一成の指通りのいい髪を梳きながら、少しだけ体を離す。ゆらゆら揺れる若草色の瞳が目に入る。視線が交わるとはにかむように笑った。天馬も同じようにほほ笑み返して、それから口を開いた。
 言葉はすでに決まっていた。
 「オレのために傷ついて」と一成は言った。これから先、きっと天馬は傷つく。一成のせいで傷を受ける。だけど、それでも離せない。それでも一緒にいたい。だから、きっとオレは一成のせいで傷つくのだ。
 天馬はその事実を噛み締めながら、何かに誓いを懸けるような真摯さで言う。

「ああ、そうだ。お前のために傷ついていいのはオレだけだ」

 他の誰にもこの場所はやらない。だってそれは、天馬にだけ許された場所だ。大事な人が自分のせいで傷つくのが怖くて仕方ない一成が、それでも天馬だけは諦められなかった証明だ。
 誰も傷つけたくない一成がオレにだけは、「傷ついて」と願ったのだ。そんな特別な場所、誰に譲ってやるものか。
 力強く言い切られた言葉に、一成が小さく笑みを漏らした。潤んだ瞳は今にもこぼれてゆきそうで、だけれど浮かぶ笑みはどこまでもやわらかい。

「はは、テンテンはカッコイイなぁ」
「当然だろ」

 思わず、といった調子でこぼれた言葉にきっぱりと答える。
 少しの間があって、一成が笑う。天馬も笑みを刻んで、どちらかともなく顔が近づく。互いの吐息が触れる距離。一成がゆっくり目を閉じる。
 天馬はそっと頬に手を触れて、やさしく唇を落とした。