終演までは、どうかワルツを。 37話
波の音がしている。一成は、砂浜にセットされた籐椅子に座り、目の前に広がる海を眺めていた。
空はまだ青空を残しているけれど、西へ沈んでゆく太陽は少しずつ世界をオレンジ色に染めはじめる。プライベートビーチだという海に人影はなく、波の音だけが心地よく響いている。
目の前の光景を見つめていると、不意に人影が現れる。スマートフォンをしまいながら戻ってくる天馬だった。
「大丈夫だった?」
井川からの電話を終えたはずの天馬へ尋ねる。何か緊急の用事だったのではないか、と思ったからだ。天馬は隣の椅子に座りながら、「ああ」とうなずいた。
「問題ない。むりやり休みもぎ取ってきたから、まだ少し確認事項が残ってただけだ」
「なる~」
朗らかに笑ってうなずく。仕事をどうにか調整して一日だけのオフを勝ち取ったとは言え、さすがに全てを片付けきれなかったのだろうと一成は察する。
むりやり休みを取ったということなので、急きょ対応する必要があったはずだ。井川をはじめとしたマネージャー陣の苦労が忍ばれるけれど、突然の事態というのは一成にとっても同様だった。
昨日電話がかかってきたと思ったら、「明日迎えに行くから旅行の準備しとけ」と天馬に言われたのだ。
幸い一成に緊急の用件はなかったし、休みは自分の裁量でどうにかなる。それに、そもそも天馬の誘いを断りたくないので了承を伝えた。
すると、時間通り迎えにきた天馬によって連れて来られたのが、海に面した一戸建ての宿泊施設だった。ヴィラと呼ばれる類のそれは、別荘のように自由使うことが可能で、人目を気にせず過ごすことができる。
天馬に連れて来られたヴィラは、木のぬくもりを感じさせる平屋建てで、全てに手を抜かず作られたことがよくわかる品の良さを宿している。
細部にまで配慮が行き届き、調度品のどれもが高級感を漂わせていた。
開放的な窓の向こうにはプライベートプールを備えたテラスがあり、さらにその向こうには青い海が広がる。テラスからは直接海へ行くことができるようになっていた。
目の前の海はホテルのプライベートビーチだという。
さらに、一棟ずつのヴィラは距離を取って建てられているため、他の宿泊客と遭遇することはまずない。別の棟にあるフロントでの手続きさえ終えれば、完璧なまでに二人だけの世界に浸ることができた。
現に一成は今日、フロントを通って以降天馬以外の人間を見ていない。
「ほんとすごいよね、ここ! 部屋にプールあったのもテンアゲだったし、ベッドとかソファとかのファブリックも凝ってるし、料理もめっちゃ良かった~!」
「馬鹿みたいに写真撮ってたもんな」
「えー、そりゃ撮っちゃうでしょ! せっかくテンテンが連れてきてくれたんだし!」
実際、玄関をくぐった瞬間から一成は「なにここ!?」「すげー!」とずっと歓声を上げながらスマートフォンを掲げて全部屋に突撃していた。
天馬は半分呆れていたけれど、もう半分では一成が楽しんでいることを純粋に嬉しく思っていた。大した説明をしないまま連れてきた手前、おおいなる安堵も含まれていたけれど。
「でもやっぱ、この、絶対プライベート守ります! って感じがすごいよねん。本当に全然人に会わなくて済んじゃうし。こういうところなら、テンテンもゆっくりできるっしょ?」
目を細めた一成が、わずかに首を傾けて問いかける。いつもの騒がしい空気に似ているけれど、そこに混ざるものを天馬は正しく拾い上げる。
軽口めいた雰囲気の中に忍ばされる、気遣いや心配、天馬の安らぎを願う心。
日本だけに限らず、世界中で顔と名前を知られる天馬だからこそ、こんな風に誰にも会わずにいられる場所が必要なのだと理解しているからだろう。
「――そういうとこに連れてきてくれるのは、嬉しいかな~なんて」
頬をわずかに染めて、照れたように笑う姿に天馬はたまらない気持ちになる。
一成が心を隠さずにいてくれること。嬉しいと思ってくれること。それを受け取ることを許されていること。全てが天馬の心を満たしていって、素直な言葉がこぼれた。
「一成と一緒に来たかったからな。ここなら、誰にも邪魔されずにお前といられる」
顔と名前を知られている天馬だからこそ、誰の目にも触れない場所が必要だというのも事実だ。それを叶えられる場所であることも間違いない。
だけれど、今日ここへ来たのは、純粋に一成と二人きりになりたかったからだ。まるで世界に二人しかいないみたいに。
「――これからしばらく休み取れないから、一成とゆっくりしたかったっていうのもある」
若干遠い目をして天馬が言う。
そもそも、今日の休みだって無理を言っているのだけれど、これからさらに殺人的なスケジュールが待っているからこそ、せめてその前に一日だけ休みが欲しいともぎ取ってきたのだ。
恐らく井川たちも、最後のワガママと目して許してくれたのだろう。
「スケジュール調整した結果だってのはわかってるし、ありがたいとは思ってるけどな」
「公演と稽古日確保できたの、奇跡かって感じだもんね~」
しみじみとした顔で一成が言うのは、先日の一件――ストリートACTにて行ったゲリラ告知内容のことだ。
あの時一成は、夏組全員集合公演と銘打った。しかし、あれは完全に一成の口から出まかせだったので、当然そんな予定は一切ない。夏組公演の気配さえ欠片もなかった。
ただ、だからと言って「無理でした」と言えるわけがないことは、一成を筆頭に夏組は全員理解していた。
そういうわけで、夏組は各方面に頭を下げて拝み倒してひたすら懇願した。
鬼気迫ると言っていいほどの執念と迫力が実ったのか、主に一番の懸念事項だった天馬のスケジュールを押さえることにどうにか成功。二日間限定の夏組全員集合公演を開催する運びとなった。
ただ、公演のためにあらゆるスケジュールを調整した結果、天馬の休みは一切消失した。天馬曰く、「向こう半年は休みなし」らしく、今日を最後にオフがなくなるのだ。
「いがっちたちにはマジ感謝だし、カントクちゃんとつづるにんも、特大のお礼しなくっちゃだよね!」
今回の公演が実現できたのは、皇事務所とMANKAIカンパニー主宰である監督、劇団の劇作家である綴の尽力が大きいことは、夏組もよく理解していた。
MANKAI劇場の使用スケジュールや稽古期間の日程などを組み直して夏組公演期間を作ってくれたのは監督だし、例のストリートACTを元に夏組らしいコメディとして書き直してくれたのは綴だった。
夏組公演として別の話を書き下ろすという選択肢もあった。
ただ、反響の高さと話題性はどう考えてもあのストリートACTの内容だったし、むしろあれは本編のダイジェスト版なのだろうと周囲には思われていた。
観客の期待を裏切るわけにもいかないし、求められているものが明白ならば応えるまでだ。結果として、ストリートACTを元に脚本として書き直すことになったのだ。
「てか、つづるん天才すぎじゃない!? めちゃめちゃ面白いじゃん!?」
「タイムトラベルもののラブコメとしてちゃんとまとまってて、夏組らしいコメディになってるのはさすがだよな」
二人ともすでに、綴の脚本は読んでいる。相当無理なスケジュールでお願いしたにも関わらず、綴は質の高い脚本を上げてくれたのだ。
瞬発力が勝負のストリートACTを元にしたとは思えないくらい、きちんとまとまっている上、夏組らしさを失わない脚本はまさに綴の手腕が発揮されていた。
「名前の元ネタ、やっぱりつづるんわかってたんだねん。オレたち以外も、ちゃんとそっちから取ってるし」
「――でも、さすがに色々もじってたな。そのままにするとややこしくなるってことか」
「まあ、それもそうだよね。そのまま使ったら、桜高校野球部のキャッチャーが御曹司になっちゃうし?」
イタズラっぽい笑みで告げたのは、あのストリートACTの時に使ったのが第四回公演「初恋甲子園」で天馬が演じた井上遼の名前だったからだ。
「天馬」以外の名前が必要だけれどとっさに思いつかず、歴代役名から引っ張り出した、というのが一成の弁だ。
綴は当然それを理解してたようで、「遼一郎」という名前に設定されていた。愛称としての「遼」になるらしい。
「確かにな。榎本隆太にすると、井上と恋人同士ってことになってややこしいから、オレもそれは避けた」
「さっすがテンテン。あそこでよくそこまで頭回ったね!?」
「まあ、とっさに思い浮かぶ名前って言ったら、歴代公演役名だろ。現代日本で使える名前少ないからあんまり選択肢ないし」
一成の演技に応えようと名前を探った天馬は、夏組七回公演「+3Ghosts!」で一成が演じた望月蒼から名前を借りた。綴の脚本では蒼生と表記が変更されている。
それ以外にも、天馬と一成以外の夏組の役名も歴代公演での役名をもじったものだったので、綴はちゃんとわかっていたらしい。
「色々過去公演ネタも仕込んでるし、久しぶりの夏組全員集合公演にふさわしいって感じだよね~」
役名だけではなく、鍵となる店の名前が「Sky Pirates」だったり、未来の伝説に「月の雫」「星の砂」「太陽の石」が出てきたりするなど、今までの夏組公演を知っていればクスリとしてしまうネタが随所に仕込まれていた。
「ついにアドリブ進行のみのシーン入れてきたしな、綴さん」
「念願の! って感じだったけど、つづるんオレらのアドリブ好きすぎない?」
「あのストリートACTやり切ったならできるだろ、らしい。楽しそうだったからいいんじゃないか」
締め切りまではずいぶん短かったので相当きつかったはずなのだけれど、綴は「楽しく書けた」と言っていた。ストリートACTを元に脚本を書く、ということ自体が新鮮で楽しかったというのが一つ。
「『何をどう転んでも、最後は天馬と三好さんのキスシーンにつながるんだなと思ったら、何でもできる気がして楽しくて』」
綴の言葉をそのまま伝えると、一成が何とも言えない表情を浮かべた。照れるような、気まずいような、そういう顔だった。天馬は完全に面白がった顔で続ける。
「ゴールが分かってると、縦横無尽に何でも書けるから楽しいって言ってたぞ」
今回の脚本では、押さえるべきポイントは先に明示されている。最終地点もわかっているので、そこにさえ至れば却って自由にできる、という状況が面白かったらしい。
一成が何とも言えない顔になるのは、改めて今回の舞台では最終的に自分たちのキスシーンが披露されることを思い出したからだった。
綴は脚本を渡す時、「キスはガチでしてください」と爽やかに言い切ったし、脚本にもそう書かれていたので、必然的に毎公演天馬と一成はキスを交わすことになるのだ。
嫌ではないけれど、正直恥ずかしかった。一成の羞恥を察した天馬は淡々と言う。
「事前の評判から考えて妥当だろ。一番盛り上がったのはあのシーンだから、観客もそれを求めて来る可能性が高い。なら、本物を見せたほうがいい」
「それはオレもわかってるし、カントクちゃんも言ってたけど! でも、恥ずかしいものは恥ずかしくない!?」
むしろ、ストリートACTの時は完全に予想外だったから恥ずかしさはなかった。しかし、公演では「これからキスシーンがある」と自覚してしまっているのだ。絶対に恥ずかしい。
「オレは嬉しいけどな。堂々と一成にキスができる」
にやりと笑った天馬はそう言ったあと、体の向きを変えた。隣同士で肩を並べていたけれど、一成のほうに体を向けるので一成も同じように態勢を変える。天馬に相対した。
「恥ずかしいっていうなら、慣れるまで何回でもキスしてやるよ」
言いながら伸ばされた手が、一成の手を握る。指を一つ一つ辿り、手のひらをなぞってやわやわと握る動きには明確な意志があった。
一成はその手をなすがまま受け入れる。それは、天馬への無言の答えでもある。天馬は正しく答えを受け取って、一成の手を引いた。
唇に、そっと小さなキスを一つ。それから、額やこめかみ、まぶたや頬にキスの雨を降らせていく。一成がくすぐったそうに身じろぎをして笑うので、その唇にもう一度口づけた。
「――テンテンって、キス好きだよね」
「お前も好きだろ」
離れがたくて、鼻先が触れ合うような距離で会話を交わす。一成は天馬の言葉に、一瞬黙った。それからすぐに、天馬の唇に自分の唇を重ねた。
「――うん。テンテンとキスすんの好き」
唇を離した一成が照れたようにそんなことを言うので、天馬の胸はどうしようもなく乱される。
愛おしさと、猛り狂うような欲望が身の内を駆け巡っている。天馬はごくりと唾を飲み込み、どうにか理性を叩き起こして口を開いた。
「――お前、本当、不意打ちでこういうことするよな……」
「にゃはは~。誰もいないとこう、開放的になっちゃう的な!?」
明るい顔で一成は言う。確かに、人目を気にすることが常の一成なので、誰の目もないということは自身の心に素直になることができるかもしれない。他人のことを考えるのが当然の一成だからこそ。
「やっぱりここ選んで正解だったな」
ぼそり、と天馬がこぼしたのは完全な独り言だった。しかし、すぐにキスができるような距離にいるのだ。一成の耳に届かないわけがない。
「んん? テンテンがゆっくりできるから選んだんでしょ? あとオレと二人きりになりたかったから!」
「大体正解だけどな、それだけじゃない。プロポーズには最適だろこのシチュエーション」
そう言って、天馬は少し体を離して周囲へ視線を向ける。
ゆっくりと西に沈む太陽は、辺りをオレンジ色に照り輝かせ、世界の何もかもを美しく染め上げる。二人以外に人の姿はなく、波の音だけが聞こえる。
まるで映画のワンシーンのようにドラマチックな光景だった。
「――テンテンは本当、こういうロマンチックな感じ好きだよね~」
茶化すような口調で、一成は言う。
天馬は意外と雰囲気を重視するし、特にベタとも言える王道シチュエーションを好む。一成も何だかんだでそういう場面は好きだし、心が浮き立つのも間違いない。
何よりロマンチックなことを好む天馬はかわいいと思っている。
だから、冗談めいてからかう必要はないとわかっていたのだけれど、そうしなければどうにも落ち着いていられなかった。
天馬の真剣さを感じ取ったからということもあるし、今日一日のあらゆる全てがついに臨界点を迎えそうだったのだ。
何せ一成は今日一日、朝からずっとふわふわした気持ちのままだ。
朝一番に顔を合わせた天馬から、挨拶の次に「今日お前にプロポーズする」と宣言されて以来。
目的地を告げるよりも早く言われた言葉に、一成は素で固まった。しかし、天馬は気にすることなく「そういうことだから覚悟しとけよ」とだけ言って一成の荷物を持つと、「行くぞ」と足を踏み出した。
その後の天馬の態度はまったくいつもと変わらないので、「さっきのはたぶん聞き間違いだったんだな」と思ったけれど、天馬はご丁寧に「聞き間違いでも何でもないからな。まあ、あっちに着いてからの話だけど」と解説してくれたので、移動時間も一成は終始ソワソワしていた。天馬はこういった冗談を言う人間ではないので、天馬がやると言えば確実にその通りになる。
さらに、連れて来られた場所が場所だったので、一成は心から思った。別に疑っていたわけではないけれど、改めて理解した。
あ、これマジでガチなやつだ。
それでも、普段泊まることのない場所にテンションが上がったのは事実だし、ご飯も美味しかったし一緒に海で遊べたのは純粋に嬉しかった。
なので一成は素直にこの時間を楽しんではいたのだけれど、正直ずっと心の別の場所がドキドキしていた。
たとえば、テンションを上げて写真を撮る一成を見つめるまなざし。食事の席で一成に紅茶を淹れてくれる姿。
足首まで海に入ってはしゃいで、天馬に水をかけた時の笑顔。じゃれつくような仕返しを仕掛けるイタズラっぽい表情。
ベッドになだれこんで一成にやさしく触れる指先、熱のこもった口づけ、愛おしさをあふれさせる体中の全て。
ありとあらゆるものが、一直線に一成への気持ちを伝えていた。言葉ではなく心を直接届けられるようで、それだけで一成は胸がいっぱいになったのだけれど。
さらに、天馬からは明確に「プロポーズする」という宣言までもらっているのだ。地に足がつかない気持ちも仕方がない。
この時間をめいっぱいに楽しみながらも、「いつ来るのか」と多少なりとも気にかけてはいたのだ。結局、夕食時に何も言われなかったので、若干ハテナを浮かべていたのだけれど。
「夕陽が綺麗に見えるぞ」と言われて海辺に誘われた時点で、おおむね予想はしていた。だから、ちゃんと覚悟はしていたはずだけれど、いざその場面だと明言されるのは衝撃度が違う。
「っていうか、プロポーズ宣言するのめっちゃテンテンらしいよねん。おかげで、オレ朝からずっとドキドキしっぱなしなんだけど!」
「一成はサプライズ仕掛けるよりも直球で言ったほうが効果あるだろ」
「朝から宣言された時点でめちゃくちゃドッキリだったけど!?」
天馬本人はサプライズを仕掛けたつもりはないらしいけれど、一成としては充分ドッキリだった。
おかげで今日は朝から心臓がせわしないし、今もテンションを上げていないと普段の自分ではいられない気がした。
何せそのまなざしは怖いくらいに真剣で、だけれど隠しもしない愛おしさがあふれているのだから。
ああ、テンテンって本当にオレのことが好きなんだなぁ、とただの事実として受け止めてしまえるくらい。