アルファルドへ伝えて。



―2―

 夏組の公演が迫っている時期だった。毎日遅くまで稽古が続いていたし、特に久しぶりの主演を務める一成は毎日張り切っていた。
 第一レッスン室は遅くまで明かりが点いていることが常だったし、咲也はそんな時いつも、部屋へ戻るたび心の中でエールを送っていた。
 入浴を済ませて、寝る時間までをどう過ごそうか、と思いながら101号室を目指していた時もそうだった。明日は珍しく、アルバイトも客演の予定もない。少しなら夜更かしもできるし、談話室にいたシトロンさんたちと過ごすのもいいかもしれない、なんて思っていた。
 レッスン室に差し掛かると、中から声が聞こえて、「ああ、夏組が稽古しているんだな」と思う。いつものように胸中でエールを送り、夏組公演の成功を祈る。そのまま通り過ぎようとしたところで、タイミングよくレッスン室の扉が開いた。

「――咲也か」
「天馬くん」

 現れたのは天馬で、目をまたたかせてから咲也を見つめる。咲也は稽古の労をねぎらってから、「画廊がモチーフの公演なんて一成さんらしいし、楽しみにしてるね」と公演を心待ちにしていることを告げる。天馬は力強く「ああ。期待以上の舞台を見せてやる」と力強くうなずいた。
 ただ、それから何かを考え込むような表情になると、静かに口を開く。

「咲也、今時間あるか」
「特に予定はないけど――どうしたの?」

 何か困りごとがあるなら助けになりたい、という気持ちで尋ねれば、天馬は数秒黙ってから口を開く。ただ、その相手は咲也ではなかった。くるりと振り返り、レッスン室に向かって声を張り上げる。

「一成! 今、ちょうどよく咲也と出くわした。時間はあるらしい」
「マ!? ナイスタイミングじゃん~!」

 明るい声が続いて、弾むような足取りで近づいてきたのは一成だった。にこにこと明るい笑顔を浮かべて「今ちょうど、もう一人ほしかったんだよね~」と告げる。

「テンテンとずっと稽古してたんだけどさ。二人以外の掛け合いもしたいな~って思ってたんだよねん」
「いつもなら、夏組のやつらを呼ぶんだけどな。九門は実家だし、三角も今日は夜のシフトだろ。幸と椋は明日が早いから、今日は早く寝るらしい」

 そういえば、兵頭兄弟は用事があるので実家へ帰っているし、三角は夜が遅くなると言っていたな、と咲也は思う。聖フローラも明日は学校行事か何かがあるのだろう。

「だから、他の組の誰かに協力してもらいたいな~って思ってたところに、サクサクがナイスタイミングで登場したってわけ!」

 満面の笑みで一成は言うし、天馬も「そういうことだ」とうなずいている。何を求められているのか、咲也もすぐに察した。

「何か用事あるとかなら、全然大丈夫なんだけどさ!」
「もしも良かったら、少し稽古に付き合ってくれないか?」

 気遣いを忍ばせた笑顔に、真剣な表情で告げられる言葉。もともと、咲也はどんな時だって芝居をしたくてうずうずしているのだ。くわえて、夏組の助けになれると言うなら、咲也の答えなんて一つきりしかなかった。







 台本を渡されて簡単に読み込んだあと、咲也は二人の稽古へと加わった。
 夏組第九回公演「スカイギャラリー」は、画廊を舞台としている。主演である一成が演じるのは画廊のオーナーである青海、準主演の天馬は画廊でアルバイトをしている白戸という青年を演じる。
 咲也が頼まれたのは、画廊に出入りする学生たちだ。本格的な芝居というより、間の取り方や立ち位置の動きを試したいようで、咲也は台本片手に求められる役を演じた。

「『――高校卒業して就職したんじゃなかったっけ?』」

 三角の台詞を口にしつつ、天馬と向き合う。咲也の芝居を受ける天馬は困ったような表情を浮かべて白戸を演じるけれど、はたと真顔になった。

「なあ、咲也。台詞のタイミングをもう少し遅くできるか」
「うん。できるけど――遅くっていうとどれくらいかな」
「今はギャラリーに入ってすぐオレに気づいて、声を掛けるだろ。オレの立ち位置的にそうなる。だから、もう少し上手側に移動した上でタイミングを遅くしたい。一成はどう思う?」

 咲也に意見を伝えたあと、天馬は一成へ声を掛ける。一成はと言えば、天馬の考えは察しているようで「東雲、そんなすぐ白戸に気づかなさそうだしねん」と笑った。それから、ほんの少し真面目な表情で続けた。

「それに、白戸的にもギャラリーの奥にいる方が合ってるっしょ」
「ああ、そうなんだよな。東雲とのやり取りはそれなりに印象には残したいが、白戸はそこまで前に出るタイプじゃない」
「うん、そこはオレも同意。だから立ち位置の変更はおけまるだよん。でも、あんまり上手寄りで突っ立てるのも不自然じゃね」
「そうなんだよな……この辺りは、三角とも話し合う必要があるが……」

 難しい顔で天馬は考え込んでいて、どの立ち位置であれば役として自然なのか、と思考を巡らせているらしい。
 動き一つ、立つ場所一つで、役の持つ意味は変わってくる。白戸という人物を作り上げるために、天馬は何一つ妥協するつもりなどないのだ。白戸であればどんな風に行動するのか。間違いなくここで生きているのだ、という説得力のためにどんなに小さなことでも追求していくのが天馬なのだ。
 咲也は何度も、そんな天馬の姿を見てきたから意外とは思わない。ただ、「天馬くんだな」としみじみ思うばかりだ。そうやって、指先一つにまで神経を行き届かせて作り込まれていく役を舞台で見てるのが好きだったし、自身の向上心にも火がついていく。
 オレももっと頑張らないと、なんて思いながら、考え込む天馬へ視線を向ける咲也だけれど、そんな風に天馬を見つめるのが自分だけではないことに気づいた。
 目の前に立つ一成。いつものハイテンションの明るい笑顔ではなく、もっと静かで落ち着いた微笑で。それでいて、まなざしにはあふれでる光を宿して、天馬を真っ直ぐ見つめている。
 それは咲也があまり目にすることのない表情で、思わず目をしばたたかせる。一成はいつも騒がしいわけではない、ということは知っていたけれど。誰かを相手に、こんな表情を浮かべる姿を見ることは、記憶ではほとんどなかった。
 やわやわと、やさしく包み込むような。それでいて、どこまでも明るくまぶしいような。静謐さと情熱が重なったみたいなまなざしだった。

「――てかさ、本番はここってテーブルセットとか出るじゃん? そういう接客的な要素とかはどう? 台詞でアシスト入れてもいいし」

 思わず一成を見つめていた咲也は、当の一成の言葉ではっと我に返る。さっきまでの雰囲気は消えて、ぱっと明るい表情で天馬へ演技の提案をしている。

「白戸って、そういうこともやってるっぽくね」
「アシスタント的な仕事は確かにしてるだろうな。来客対応っていうのも、違和感はない」

 なるほど、と言った顔で天馬はうなずく。「それなら、白戸が上手側にいる理由にもなるな」と続ければ、一成は「でしょ~?」と嬉しそうに笑った。

「白戸の業務内容についてはある程度考えてるが、もう少し具体的に詰めてもいいかもな。その辺も、一成の意見はいろいろ聞きたい」
「おけまる~」

 朗らかに一成が答えて、天馬はこくりとうなずく。それから咲也に向き直って、お茶を出すタイミングで台詞を言ってほしい、と告げる。咲也はもちろん了承して、そのまま芝居が始まった。
 その後も、立ち位置を試したい、という言葉通り、三角以外の役に関しても咲也は演じた。
 本格的な芝居というわけではなかったものの、天馬と一成が試行錯誤していく過程を見るのも勉強になったし、芝居がよくなっていくのを肌で感じられることが嬉しかった。

「よし、それじゃこの方向で――悪い、電話だ」

 やり取りの確認を終えたところで、天馬の電話が鳴った。井川からのもののようで、この時間にかかってくるとは緊急の用事なのかもしれない。
 天馬は電話に出ていくつか言葉を交わしたあと、「悪い」と言ってレッスン室を出て行った。「適当に休憩しておいてくれ」という言葉を残して。

「――サクサク、結構付き合わせちゃったけど時間平気?」

 出て行く天馬へ「いってら~」と手を振ったあと、一成は咲也へ向き直って言った。稽古へ加わった時点でそれなりの時刻だったし、ずいぶんといい時間になっていることは事実だ。ただ、一成が気に病むことは特にないので、咲也ははきはきと答える。

「大丈夫です! 明日はオレ、何も予定がないから――今日はちょっと夜更かしできるかもって思ってたくらいなんです」
「マ? めっちゃグッドタイミングじゃん」

 咲也の言葉に一成は嬉しそうに言葉を返したあと、「でも」と言葉を継いだ。眉を下げて、心配そうな表情で。

「疲れてない? つい盛り上がっちゃって、休憩取るタイミング全然なかったし。もうちょい気をつけなくちゃだよね」
「オレは平気です。あくまでもサブって感じでしたし」

 咲也は思い切り首を左右に振る。あくまで自分の役割は稽古の補助的なものであって、芝居のメインになるわけではなかった。もちろん手は抜いていないけれど、役作りができているわけではないので、根を詰める度合いが違うのだ。

「それに、稽古に加われることが嬉しかったので、休憩なしでずっと稽古できてラッキーだったなって……ちょっと思っちゃいました」

 照れた顔でそう告白すると、一成は大きく目をまたたかせた。それから、嬉しそうに唇をほころばせて、弾む調子で言った。

「マ? そんじゃさ、サクサク、もうちょっと付き合ってくんね? オレ、桜田とのやり取りのとこ確かめたいんだよね」

 咲也が持つ台本を示して、「ほら、ここの打ち合わせのシーン」と言うけれど。咲也は慌てた様子で「え、一成さん、休憩した方がいいんじゃ……」と声を発する。
 休憩が一切なかったので、一成は咲也の調子を心配して「大丈夫か」と尋ねた。ただ、休憩がなかったのは一成も同じだし、むしろ咲也より前から稽古をしていたのだ。どちらかと言えば休憩が必要なのは一成だろう、と思うのは道理だ。
 しかし、一成は咲也の言葉にあっけらかんと答えた。明るい笑顔で、さも当然のことを語る口調で。

「テンテンがいない間に、ちょっとでもいっぱい稽古したいじゃん!?」

 天馬は自分がいない間は休憩していてくれ、と告げていなくなったけれど。一成からすれば、天馬のいない時間だからといって休憩にするつもりなんてなかったのだ。むしろ、さらなる稽古の時間にできると考えた。

「この時間の電話ってことは、ちょっと込み入ってるかもしんないし。そしたら、戻ってくるまで時間かかるしさ。その間に、パワーアップしておかないとねん」

 冗談めかした言葉ではある。ただ、一成は細めた目の奥に真剣さを潜ませて言っている。天馬のいない間に、少しでも芝居をよくしたい、というのは紛れもない本心なのだろう。敏感にそれを感じ取った咲也は、真っ直ぐ一成を見つめた。

「――テンテンはさ、昼間もドラマ収録してて。絶対疲れてるのに、そんなとこ全然見せないで稽古終わったあとも、こうやってオレと芝居してるんだよね」

 静かに告げる一成は、天馬のことを思い浮かべているのだろう。遠いまなざしで、「だから、オレももっと頑張らないと」とつぶやく。
 そこには、ただしんとした情熱が宿っていた。焦燥の類はまるでなく、向かうべき場所をひたと見すえる決意があるのだと咲也は肌で感じる。
 ともすれば自分を追い立てるような言葉に聞こえるけれど、それは違うのだ。一成はただ真っ直ぐと、天馬自身を見つめている。己が進むべき道をしかと理解しているからこその言葉なのだとわかった。

「マジでテンテンってばすごいよねん。小さい頃から役者やってて、実力ばっちしあって。その上、めっちゃ努力家じゃん?」

 一成は、さっき天馬を見つめていた時のようなまなざしを浮かべて言う。天馬は子役としての実績もあり、評価も高い。確かな実力を持っていることは、単なる事実と言っていい。
 そんな天馬は、いつだって努力を怠らない。己の力に慢心することもなく、芝居に対して常に謙虚で貪欲だ。それを何より感じているのは、何度もともに舞台に立ってきた夏組なのだろう。

「オレたちの太陽だかんね。いつでも上を向いてようって、空だけ見てるテンテン、マジすごいっしょ」

 冗談めかして言うものの、まなざしにはおだやかで明るい光をたたえていた。ここにはいない天馬を、目の前で思い描くような。さっき天馬を見つめていた時と同じような。天馬の持つものを、心から大事にして抱きしめていようとするような、やさしさとまばゆさを感じさせるまなざしだった。
 咲也が思わず一成を見つめていると、視線に気づいたのだろう。ぱっと笑顔を浮かべると、軽やかな声で言う。

「高いところまで走って行けるからさ、オレもちゃんと追いつかないとねん!」

 ハイテンションに告げられた言葉は、耳によくなじむ響きをしていた。実際、いつもの一成の調子と変わらないし、よく知った表情と言える。
 だけれど、咲也は理解している。明るく笑って、普段通りの顔をしているけれど、奥底にあるのはひたむきな情熱だ。一成は、いつだって上を目指す天馬に追いつこうとしていて、そのために努力したいと望んでいる。
 真剣な思いで告げられた言葉だ。わかっているから、咲也ははきはきと答えた。

「わかりました! どこのシーンからやりましょうか?」

 台本を開いて尋ねれば、一成は嬉しそうに該当の個所を教えてくれた。







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 頭に浮かんだ光景を、咲也は丹念に見つめ返す。
「あこがれの人」という言葉から結びついたのは、夏組九回公演の練習風景だ。一成と芝居という意味で主演公演に辿り着くのは順当とも言えるけれど。一番はきっと、一成の浮かべたまなざしが印象的だったからだ。
 天馬を見つめる一成の表情を、咲也は思い出す。
 いつものにぎやかな明るさではなく、やわらかくてやさしくて、奥底には確かな情熱を秘めていた。あのまなざしの意味を、最初咲也は測りかねていたのだけれど。一成の言葉に――天馬を語る時の様子に理解した。
 天馬の持つもの。いつだって上を向いて走っていく。妥協することなく、持てる力の全てを使って努力を重ねて、一番高い所を目指し続ける。
 そんな天馬を、一成は心底大事にして、尊いものだと思っているのだと、咲也はあのまなざしに理解した。まるで宝物みたいに、きらきらと輝く夏組の太陽を大切にしている。
 同時にそれは、一成にとって目指す光でもあるのだろう。だからこそ、一成は天馬のいない時間にも稽古することを選んだ。ひたむきな情熱で芝居と向き合い、己の力を磨き上げていく。休憩する時間も惜しんで、天馬の背中を目指して走っていくように。

(きっと一成さんにとって、天馬くんは尊敬の対象で――憧れなら、あの瞬間なんじゃないかな)

 あの時、一成が浮かべたまなざしの先にあるのは、天馬の姿であると同時に、どこまでもきらきらと輝く光なのだろう。きっと、そんな人のことを「あこがれ」と呼ぶんじゃないかな、と咲也は思った。
 プロフィール帳へ目を向けると、ペンをゆっくり動かす。最後の空欄に書き入れる名前は、もう決まっている。咲也は丁寧に天馬の名前を記した。