Cotton Candy Dreamy



 今日の撮影はさんざんだった。天馬の主観的には。
 大きなNGを連発したわけではないし、現場に迷惑を掛けたわけでもないから、客観的にはそれなりに上手く行った撮影だと思われただろう。しかし、天馬は自分の調子がおかしいことを自覚していた。
 まず、芝居のスイッチがなかなか切り替わらない。
 普段の天馬なら、現場に入ってしまえば自然と役に入ることができる。スタジオで相手役と顔を合わせた時点で、もうその役になっているのだ。しかし、今日はどうも上手く行かなくて、皇天馬が抜けきらない。衣装も身に着けて、相手役と向き合っても、まだ皇天馬の感覚が残っていた。
 さらに、芝居のチューニングを合わせるのに苦労した。
 今日の撮影は、社会派のサスペンスドラマだ。硬派なシーンが多めだから、シリアスな演技が必要とされる。天馬の役は、暗い過去を持っていることもあってよりそれが顕著になる。だから、普段の芝居よりもっと重く陰影を感じさせることを意識していた。普段なら、比較的すぐに求められる芝居をアウトプットできるのに。どうにもしっくり来なくて、何度も調整を繰り返すことになったのだ。
 ただ、ほとんど周囲には気づかれていなかったはずだ。
 天馬は幼い頃から、プロとして芝居の世界を生きてきた。思うように行かなくてもリカバリーは可能だし、もともと芝居への反応は速い。多少時間がかかったとはいえ、一般的には遅れともならないレベルなのだ。だから、大きく撮影に影響するようなことはなかった。天馬の様子がおかしいことに気づいた人間は、ほとんどいないだろう。
 もっともそれは、ほとんどであって全てではない。

「――天馬くん、大丈夫ですか?」

 運転席から後部座席へ向かって、心配そうに声をかけたのは井川だ。様子がおかしいことに気づく数少ない人間である。今までずっと天馬の近くで時間を過ごしてきたこともあり、天馬の変化にいち早く気づくこともうなずける。とはいえ、それだけが理由ではないのだけれど。

「――大丈夫だ」
「それならいいんですが……今朝から何だかおかしかったですし……」

 後部座席の天馬が答えると、心配そうな表情で井川は言う。今朝、という言葉に天馬の眉間には深く皺が刻まれるのは、まざまざと思い出してしまうものがあったからだ。



 一成を送り出してから少しして、井川が天馬を迎えに来た。撮影スタジオまで車で送り届けてくれるのだ。支度を終えた天馬は、いつも通り車に乗り込もうとする。そこで不意に、一成の言葉がよみがえった。

 ――いがっち、テンテンの保護者枠じゃん? そういう人の前で、昨日のこと思い出しちゃったらめちゃくちゃ気まずいかも的な!

 一成に言われた時は、特に何とも思っていなかった。むしろ、井川のことにまで気を回すなんて一成らしいな、と感心したくらいだ。あくまでそれくらいで、完全にスルーしていた言葉だったのに。
 車から出てきた井川は、「おはようございます」と言ってドアを開けてくれる。「ありがとな」と言って乗り込むのがいつも通りだ。しかし、天馬は足を止めて井川の顔をまじまじと見つめてしまった。
 井川は両親が不在がちな天馬にとって、保護者的な立ち位置だ。天馬に友達ができたことを心から喜んでくれたし、夏組と遊びに行く様子をほほえましく見守ってくれた。天馬が押し切ったとはいえ、両親に黙ってMANKAIカンパニーに入団する時も井川には世話になっている。
 親子というには年が近すぎるものの、天馬のことをずっと気にかけて、力になってくれていたのは間違いない。成長していく天馬の姿を、近くでずっと見ていてくれたのが井川だ。
 立ち止まって凝視されれば、疑問に思うのも当然だろう。「天馬くん?」と首をかしげて尋ねる様子はおだやかで、ただ純粋な心配が浮かんでいる。その視線は見慣れたもので、天馬をいつも見守っていてくれた保護者のそれだ。だからこそ、天馬は言葉に詰まる。
 井川は知らない。きっと予想すらしていない。一成のことは仲のいい友人だとしか思っていないから、たとえ泊まったと知ったって二人で楽しく過ごしたんだろうな、としか思われない。だけど、本当はそうじゃない。昨日の夜、天馬は初めてできた恋人と初めての夜を過ごしたのだ。
 自動的に頭に浮かぶのは、天馬の部屋で、ベッドの上で見た光景だった。いつもの自分の部屋が、がらりと様相を変えた。こんなにきれいなものは知らないと思った。こんな熱さも、分かち合った体温も、すべらかな肌も、甘く呼ばれる自分の名前も、何もかも天馬には初めてのことだった。
 知ってしまった全てが頭に浮かぶのと同時に、心臓がばくばくと音を立て始める。顔に熱が集まり、井川から視線をそらす。
 恥ずかしかった。井川はまだ天馬のことを、あどけない少年だと思っている節がある。しかし、天馬はもう子供ではないのだ。だって、恋人と分かち合う体温の熱さを、握りしめる手のひらの強さを、二人で溶け合う幸福を知ってしまったのだから。
 ただ、それを井川に知られるのはどうしたって気恥ずかしい。子供ではなくなったのだと、大人の世界へ足を踏み入れたのだと、井川に思われたら――と考えると、どうにもこそばゆくて落ち着かないのだ。だから何だか井川の顔が見られなくて、そこでようやく一成の言葉が脳内に到達するのを感じた。
 確かにこれは気まずいし恥ずかしいし、井川と顔を合わせるのは避けたくもなる。なるほどこういうことか。否応なく思い知らされるものの、このまま車の前で固まっているわけにはいかない。疑問に思われながらも車に乗り込んで、撮影スタジオへ向かったのだ。車の中なら一人きりだし、スタジオへ着く頃には多少なりとも落ち着きを取り戻せるだろう、と期待して。

 しかし、事態はそう上手く運ばなかった。むしろ悪化した。
 井川を前にして昨晩のことをありありと思い浮かべたからだろうか。昨日のことを意識しないようにすればするほど、天馬の頭は勝手に昨日の夜を再生してしまう。
 とろりとしたまなざしや、耳元に降りかかる吐息、呼び合う声の甘い響き。触れた肌の熱さに、息を飲むほどのなめらかさと、しっとりとした感触。体の全てで感じる初めての体験は、奥底まで刻まれていた。
 結局まるで落ち着くことなくスタジオに到着した。楽屋に向かう道すがら何度か扉にぶつかり、セットに入っても大道具に突っ込んでしまったのは、脳内にずっと昨日の光景が浮かんでいたからだ。何だか全てがふわふわしていて、やたらと現実味がない。まるで夢の続きみたいで、自分のコントールが上手くできなかった。
 スイッチが切り替わらないのも、チューニングが合わないのも、つまりはそういうことだ。
 一成の艶めいた姿に心はずっと乱れていて、なかなか役に入れない。皇天馬の自我がどうにもずっと暴れ回っている。
 そして、念願叶った夜の記憶は天馬をどうにも幸福にさせてしまうから、どうしたって陰影が出てこない。もっと暗くて重い芝居を――と思うのに、浮き立った心は明るい空気を漂わせてしまうのだ。
 もちろん全ては役者としてのプライドと実力で乗り切ったけれど。朝から様子がおかしいことを知っている井川は、終始心配を浮かべていた。




 体調が悪いようなら別日程にもできる、と言われたけれど天馬は首を振った。別に体調に問題はないのだ。脳内と心情が忙しすぎるだけで、まさかそれで仕事をおろそかにできるわけはない。
 だから、井川には「大丈夫だ」と何度も言って、そのままスケジュールを進めてもらった。予定通り、都内のホテルラウンジでインタビューを受ける運びになったのだ。

 都内でも有名なホテルにある、特別ラウンジ。専用の入り口を通った先には、大きな窓が印象的な個室が用意されている。中庭の緑が全面に広がり、とても都会とは思えない風情があった。
 今日の取材は、映画や音楽、アートからファッションやインテリアなど、多様なカルチャーを発信するWebメディアのものだ。様々なメディアで活躍する天馬に、多方面から話を聞きたいという。
 相対するインタビュアーは朗らかで、終始落ち着いている。おかげで、天馬も比較的平静を保つことはできた。もちろん、プライベートを理由に、仕事に支障を来たすなんてことは言語道断だ。
 だから、意地でも表には出すまいとして、頭によみがえるあれこれは理性と根性で抑えつけていた。

「本日は興味深い話をありがとうございました。MANKAIカンパニーへの所属は大きな転換点になった、ということがよくわかりましたし――特に夏組のみなさんとは、本当に仲がいいようでほほえましいです」

 あらかたインタビューが終わったところで、インタビュアーはそう言う。これはインタビューのための言葉ではなく、単なる雑談の一種だと天馬も察している。「そうですね」と答える天馬も、いくらか肩の力を抜いた。

「あいつらといると、いつもうるさいくらいにぎやかです」

 心からと言った調子で答えると、インタビュアーは楽しそうに笑った。夏組と天馬の関係についてはファンも言及が多いと言って、この前の天馬の誕生日についてもあれこれ考察がされていたという。きっと天馬は夏組をはじめとして盛大にお祝いされていたんだろう、と。
 その言葉に、天馬の唇には自然と笑みが浮かぶ。ファンの予想通り、MANKAIカンパニーや夏組は天馬の誕生日をそれはもうしっかり祝ってくれる。ただ、恐らくそれはファンが想像するよりも盛大でにぎやかだ。全員これでもか、というくらい全力で祝ってくれるから、その日の記憶は天馬にとって何よりまばゆく、ぴかぴか光っている。

「夏組のみなさんからの誕生日プレゼント予想、なんてものもされていましたよ。面白い話題だなぁと感心しました」

 ファンが贈りたいプレゼントではなく、天馬がもらっていそうなプレゼント、という話題は夏組との仲の良さを感じるエピソードだ、とインタビュアーはと言う。確かにそうかもしれないな、と天馬はうなずく。インタビュアーは雑談の続きといった調子で言葉を重ねた。

「何か印象的な誕生日プレゼントはありましたか?」

 話の流れとしては自然だろう。天馬の誕生日プレゼントをファンが予想していた。それなら、実際にもらったプレゼントはどんなものがあったのだろうか、という問いだ。何一つ不自然ではないとわかっていたのに。
 仕事としてのインタビューは終わりだと、力を抜いていたからだろう。理性と根性は、自分たちの仕事は終わりだとすっかり油断していた。だから、「誕生日プレゼント」という言葉から勝手に一つの光景を見つけてくる。
 誕生日プレゼントは何がいいかと聞かれた。心から祝いの気持ちで言ってくれたのだと、天馬は理解していた。それが嬉しくて、愛おしさがあふれていく。そんな場面で、一成から告げられた言葉。

 ――あ、誕生日プレゼントはオレとかどう!?

 冗談だということはわかっていた。よくある軽口だから、笑って流せばいいのだと思ったのに。多忙ゆえ疲れが溜まっていたことだとか、夜更けの特別さだとか。そういう諸々で、天馬は素直に言葉を漏らした。ずっと思っていたことが、自然と声になったのだ。
 恋人同士として付き合うようになって、少しずつ仲を深めていった。誰よりそばにいられること、友達よりもっと近い距離が許されていること。何もかもが嬉しかったけれど、触れれば触れるほど、近くで過ごせば過ごすほど、もっともっと欲しくなる。貪欲になって、今のままの距離感じゃ足りなくて、想いはずっとくすぶっていた。
 だから、一成の言葉に思わず聞いてしまったのだ。誕生日プレゼントに自分はどうか、なんて言うから。「お前が欲しいって、言っていいのか」なんて。
 どんな打算もごまかしもない、心からの本音だ。言ってから我に返って慌てたけれど、一成はうなずいてくれた。その結果もたらされた現実を、天馬はよく知っている。
 二人きりの部屋で、見慣れた天馬のベッドの上で。邪魔なものは全部取り払って、抱き合って触れ合って、熱も欲も体温も何もかもを分かちあった。
 蜂蜜みたいな甘い声に、とろりと濡れる緑の瞳。上気した頬は薔薇色で、吐息は切なく響く。握り合った手のひらの強さ、汗の混じった体臭はただかぐわしい。体中全部でお互いを感じられることが、嬉しくて幸せで、照れくさくて恥ずかしくて、胸がいっぱいだった。
 誕生日プレゼント。一成が全部くれた。余すところなく、みんなあげると言って何もかもを全部、天馬に差し出してくれた。誰も知らない顔を、天馬にだけ見せてくれた。甘い声も、艶めいた吐息も、回された腕の強さも、一つに溶け合う幸福感も。一成は全部天馬にくれたのだ。
 薄暗い部屋で見下ろした一成の姿や、耳に残る声、触れ合った感触、高鳴る心臓の音や猛る欲望、何もかもを受け入れて笑う顔。
 あらゆる全てが瞬時に脳内で再生され、天馬の顔に熱が集まる。そんな場面ではないとわかっていたけれど、昨日の今日である。何もかもが鮮明に焼きついて離れないのだ。全てはあまりにも圧倒的で、押し寄せるような記憶に身動きが取れないでいたからだろう。

「どうかされましたか?」

 反応のない天馬をいぶかしんで、インタビュアーが問いかける。必死で理性を叩き起こした天馬は「いえ、何でもありません」と答えるけれど、耳はいまだに赤いままだった。