ハニー、こっちにおいで。
いづみと井川を見送れば、家には二人きりになる。
何も、天馬の様子を見るのは一人だけ、という決まりがあるわけではない。当初の予定通り、井川も泊まるという選択肢もあるにはあった。ただ、恋人同士である二人と一晩同じ家で過ごす、というのはさすがに気が引けたらしい。
何より、一応関係を隠している寮では、あまり恋人らしいことはできない。だからこそ、この機会に二人で過ごすといい、という気遣いの結果だ。
あえて断る理由もないし、天馬は嬉しそうにお礼を言っていた。一成だって、二人で過ごせることは純粋に胸が弾む。なので、ありがたく井川といづみを見送った。
幸い、明日は日曜日だ。二人とも大学はないし、天馬もどうやら仕事はオフらしい。井川が調整した結果なのかもしれないけれど、少なくとも明日いっぱいまではこの状態でも問題はない。
(月曜日までに戻ってなかったら、どうするんだろ……)
ぼんやりと思いつつ視線が向かうのは、キッチンに立つ天馬だった。
一成はリビングのソファに座って、忙しく動き回る天馬を見つめている。電子レンジから取り出した総菜を皿へ盛りつけたり、スープを温めたりと忙しい。今日の夕食を作っているのだ。
もちろん、一成は手伝いを申し出た。二人で作業した方が効率はいいし、仕事をしてきた天馬に料理をさせるのも申し訳ないと思ったのだ。
しかし、天馬は首を振った。真剣な表情で「オレにやらせてくれ」と言うので、一成は心底不思議に思って、「なんで?」と尋ねたのだ。すると天馬は、満面の笑みで答えた。――「一成を甘やかしたいんだ」と。
まさかそんなことを言われると思っていなかったので、一成は面食らったのだけれど。
井川もいづみもいなくなり、二人きりになったリビングで、天馬は一成がどれほどかわいいのか、一通り語って聞かせたあと言ったのだ。一成を抱きしめたまま、強い声で、それなのにどこか切実さを感じさせる響きで。
――ずっと、一成のことを甘やかしてやりたいって思ってたんだ。でも、お前は何だって一人でやろうとするし、オレにあんまり頼らないだろ。それがもどかしかったんだ。今日くらい、オレにお前を甘やかさせてくれ。
そう言って、天馬は潤んだ瞳で一成を見つめたので。雨に濡れた子犬ってこういうことか~!と思った一成は、きゅんきゅんと高鳴る胸を抱えたまま、ほとんど衝動でうなずいた。
天馬はその答えに、ぱあああっと顔を輝かせて「嬉しい」と言うものだから、一成は自分の心臓が持つか心配になったくらいである。
とにかくそういうわけで、天馬は一人で夕食の準備をしている。一成を甘やかしたい、の一環として一成に仕事をさせたくないらしい。天馬の言葉にうなずいた手前、手伝いをするのは得策ではないと、一成はソファに座って働く様子を見守っているのだ。
とはいえ、本格的な料理をしているわけではない。天馬の自宅には、温めればすぐに食事になる冷凍キットが常備されているので、それを盛りつけるだけだ。厳選食材を使った高級なものらしく、天馬も好きだという。「一成も気に入ってくれるといいな」と天馬はにこにこ言っていた。
(あのテンテン、ほんっとにかわいすぎない⁉)
ソファに座った一成は、ついさっきの場面を思い出して胸中でつぶやく。備え付けのクッションを思わずぎゅうっと抱きしめてしまうのは、行き場のない衝動が全身を駆け巡っているからだ。
(マジで今のテンテン、かわいさマックスだし胸きゅん度がやばいんだけど!)
じたばたとソファで悶える一成の頭には、今日天馬の自宅を訪れてからのシーンが浮かんでいる。
あまりにも真っ直ぐ好意を向けて、一成をかわいいと言ってはばからない。一成が泊まることが嬉しいと言うし、食事を作るまではぴったりくっついて離れなかった。すぐに抱きついてくるし、ずっと手をつないでいたのだ。
(素直になったテンテンがこれってことは、ずっとオレとくっついてたいって思ってるってことだよね? ええ、なにそれやばいんだけど!)
もしもここに一人だったら、恐らく意味もなく叫んでいただろう、と一成は思う。一応天馬がいるので声は抑えているけれど、正直叫びたいし、妙なうめき声くらい出そうだった。
今まで天馬の愛情を疑ったことは、一度もない。天馬の誠実さならよくわかっているから、気持ちに応えられないと思えば、きちんとそう言ってくれる。一成の気持ちを受け止めて、「オレも好きだ」と天馬が言ってくれたなら、それは嘘偽りのない言葉だと信じられる。
だから、一成は天馬の気持ちをきちんと、日々受け取っていたつもりだった。しかし、いざ素直になった天馬は、一成の想像以上に一成のことが好きだった。
そばにいたい。離れたくない。甘やかしたい。直球で投げられる言葉と態度は、一成の胸を撃ち抜くには充分すぎたのだ。
(月曜日までに戻らなかったら、本当どうするんだろ。こんなテンテン、世の中に放流したらまずくない?)
一転して難しい顔になった一成は、さっきから考えていることを再度思考する。もしも、月曜になっても天馬がこのままだったら、この状態で大学へ行くことになる可能性がある。
(だってこんなかわいいテンテン、保護しとかなきゃだめじゃない⁉)
そう思う一成は真剣だった。芸能人という意味で、交際発覚のリスクもわかってはいるけれど、純粋に思うのだ。
今の天馬は、あまりにも素直でかわいいので、誰かがちゃんと守っていなくちゃいけないのでは、と。本人が聞いたら「何言ってるんだ」と笑うだろうけれど、一成にとっては笑いごとではない。
ヒョードルたちがいるから平気だと思うけど、オレもしばらく一緒に大学行けないかな……と、真面目にスケジュールを考慮する始末である。
「一成、そろそろできるぞ」
真剣に考え込み始めていると、不意に天馬の声が響く。一成はぱっと顔を上げると、ソファから立ち上がってキッチンの天馬のところへ向かう。お盆には、二人分の料理が並んでいた。
お洒落なお皿の上には、チーズの乗ったハンバーグや、付け合わせの野菜がほかほかと湯気を立てている。傍らのスープ皿にも、黄金色のコンソメスープがなみなみそそがれていた。
「わ、めっちゃおいしそうだねん!」
「ああ。あとは、ご飯をよそってくれ」
客用の茶碗を示して言われて、一成は明るく「りょっす!」と答える。何度か天馬の家には泊まりに来ているので、ある程度の勝手はわかっていた。
配膳を終えて、二人はダイニングテーブルに向かい合って座った。
「いただきます」と声をそろえて言ってから、一成はハンバーグを口へ運ぶ。火傷しそうな熱さとともに、ジューシーな肉の味が口いっぱいに広がり、一成は目を輝かせる。
「おいしいねん! 肉の味めっちゃするし、チーズもすごい合う!」
熱々のハンバーグを飲み込んで心から言うと、天馬が嬉しそうに笑った。ただ、少し申し訳なさそうに「他にもいろいろあっただろ。ハンバーグでよかったのか」と尋ねる。
冷凍キットは種類も豊富で、洋食以外にも和食や中華などがそろっていた。当然天馬は、一成に「食べたいものを選んでくれ」と言ったのだ。すると一成は、「ハンバーグ!」と答えた。その理由を天馬は正しく察していた。
「オレが好きだからだろ? 一成が好きなものを選んでくれてよかったんだぞ」
どれがいいか、と尋ねられて迷うことなく一成は答えた。ただ、それは純粋に「これが食べたい」と思ってのことというより、天馬の好物がハンバーグだからだろうということくらい、天馬にもわかった。
「そうやって、一成はいつも他人のことを考えてくれる。そういうところが好きだって思うけど、たまにはちゃんと一成の願いを聞きたい。オレに叶えさせてほしいんだ」
真っ直ぐ一成を見つめて、天馬は告げる。
付け合わせのブロッコリーを食べていた一成は、無言で照れるしかなかった。天馬の気持ちが嬉しい。こんな風に思っていてくれた、という事実が面映ゆくて、くすぐったくて、胸がいっぱいになってしまう。
「テンテンが好きなもの、オレも食べたいなって思ったんだよ」
口の中のものを飲み込んで、一成は答える。別に天馬が申し訳ないと思う理由はないのだ。これは何も、天馬に気を遣った結果ではないのだから。
とはいっても、天馬のことなので、それだと納得しないだろうな、ということも予想はできた。
何せ、「一成を甘やかしたい」と言って、食事の準備も一切させなかったくらいなのだから。何かをしたい、願いを叶えたい、というのは揺るぎない天馬の望みなのだろう。
それを理解している一成は、そっと口を開いた。だって、天馬の望みを叶えたいのは一成だって同じだ。
「――もしもテンテンがいいなら、お願いしたいことあるかも」
じっと天馬を見つめて、一成は言った。スープを飲んでいた天馬は、嬉しそうに顔を輝かせて「ああ、何でも言ってくれ」と答える。
きらきらとしたまなざしに、「まぶしいなぁ」と思いながら、一成は続きの言葉を口にする。
「えっとね、『あーん』ってしてほしい」
笑顔を浮かべて、一成は言った。あらためて口にすると恥ずかしい気もしたけれど、一成はもう開き直ると決めていた。だってこんなテンテン貴重だし、せっかくならたくさんいちゃいちゃした方がよくない⁉と思ったのだ。
「たまにふざけてやったりもするけどさ。テンテンからってあんまりないじゃん? せっかくだし、テンテンに食べさせてほしいなって」
一成がノリで天馬に「あーん!」なんて言うことはある。意外と乗ってくれることもあるけれど、恥ずかしがって拒否されることの方が多い。なので、この機会に全力で楽しもうと思った。
それに、井川から聞いていることもある。催眠術がかかっている間のことは、解ければ全て忘れてしまう可能性が高いというのだ。
そういえば、以前寮で催眠術をかけた時も、解除したら何も覚えていなかった。きっと天馬も、この時のことは忘れてしまう。それなら、思う存分ワガママになってもいいのかもしれない、と思ったのだ。
「――そんなことでいいのか」
天馬は一成の言葉に、目を瞬かせて答えた。もっとたいそうなことだってしてやれるのに、と言いたげだ。
「一成は欲がないな」
「そっかな~?」
「そういうところも、奥ゆかしくて好きだけどな」
さらりと天馬は言って、何てことのない顔で自分のハンバーグへ箸を入れた。一口サイズに切り分けると、輝く笑みを浮かべて一成へ差し出す。かけらもためらいなく、「あーん」と言うので、一成の心臓が早鐘を打つ。
自分で言っておいてなんだけど、このテンテンめっちゃ破壊力あるね⁉
ただ、天馬が望みを叶えてくれているのに、無反応でいることはできない。耳を赤く染めながらも、一成は大きく口を開いた。天馬は嬉しそうに、ゆっくりとハンバーグを食べさせてくれた。
しっかりとした肉の味と、コクのあるソース。そこにチーズがあわさって、まろやかな風味が広がるハンバーグだということは、さっき食べたから知っていた。もっとも、天馬の顔を見つめていたので、ほとんど味がわからない。
「美味いか?」
「もう一個お願いします」
「なんで敬語なんだよ」
面白そうに笑いつつも、天馬は素直にもう一切れを差し出してくれる。今度は意識していたおかげか、ちゃんと味はわかった。さっきと同じものを食べているはずなのに、それよりも美味しく感じられるのは、確実に天馬の効果だろう。
もぐもぐ、と口を動かす一成に、天馬は満足そうな表情を浮かべている。それから、「他にもあるぞ」と付け合わせの野菜を示す。ブロッコリー以外に、フライドポテトやニンジンもそろっているのだ。
「ありがとねん。でも、オレもテンテンに『あーん』ってやりたい! あ、ニンジンとかどう?」
ハンバーグをしっかり味わった一成は、いたずらを仕掛けるような表情で言った。もちろん、天馬がニンジンを好まないことを知っての発言だ。
首を振られる可能性は考慮しているし、そうなっても構わなかった。とはいえ、野菜を食べた方がいいということはわかっているので、何だかんだで食べてくれるかもしれない。
どちらに転んでもよかったし、これは単なるじゃれあいの一環だ。
案の定、天馬は難しい表情を浮かべた。嫌いなニンジンを食べなくてはいけない、という事態に直面したからだ。一成はくすりと笑みを浮かべて、「無理しなくていいよん」と言おうとしたのだけれど。
「一成が食べさせてくれるなら、頑張って食べる」
一成が声を発するより早く、意を決した調子で天馬が言った。じっと一成を見つめて、強いまなざしを浮かべて。真正面から受け取った一成は、叫びそうになる自分を必死で抑える。
待って。なにそれ、オレが食べさせるなら? 頑張って食べてくれるの⁉
一人だったら確実にじたばた暴れてただろうな、と思うけれど、ダイニングテーブルでそんなことはできない。
一成は上ずった声で、「そっか~!」と答えた。嬉しいやらかわいいやらで、顔は勝手に笑顔になっていた。
「えっと、それじゃ、ニンジン頑張って食べよっか」
ドキドキしつつそう言うと、天馬は「ああ、頑張る」と答える。その言い方だけで、一成の胸は高鳴って仕方がない。きゅんきゅんしながら、ニンジンへ箸を伸ばす。食べやすいサイズに切ってから天馬へ差し出すと、口を開けてくれた。
ひな鳥にご飯をあげる時ってこんな感じなんだろうな、と思いつつゆっくり手を動かす。自分の手から食べてくれる、というその事実だけで胸がいっぱいになる。
美味しいと思ってほしい。頼ってほしい。甘やかしたい。恐らく、天馬が自分に抱いているだろう気持ちを感じながら、一成は天馬の口へそっとニンジンを置いた。
顔をしかめつつも、天馬はもぐもぐと口を動かしている。しばらく見つめていると、どうにかニンジンを飲み込んだらしい。一成はぱっと顔を輝かせて「テンテン頑張ったね! えらいえらい!」と褒める。天馬は「子供じゃないんだぞ」と言うものの、満更でもなさそうだった。
「それじゃ、次は一成だな。何が食べたい?」
流れるように自然な調子で、天馬は問いかける。一成はしみじみ、テンテン、マジでちゃんと食べさせてくれるんだなぁ、と思った。酔狂や冗談で片付けずに、一回だけで終わりにすることもない。
その事実に嬉しくなりながら、一成はフライドポテトを所望した。
◆
空腹も満たされたあとは、天馬がお風呂の用意をしてくれた。泊まりの用意はしていなかったものの、天馬の家には常に客用のセットがある。着心地のいいパジャマは、一成も何度か借りたことがあった。
ソファでくっついて座っていると、お風呂が沸いた、と電子音が知らせた。天馬は当然一成へ最初に入るよう言うし、これが天馬の望みだということはわかっているので、素直にうなずいた。
「テンテンの家のお風呂、広いしいい匂いするから好き」
「父さんたちが檜にこだわってたからな。木の香りでリラックスできるから、オレも好きだ」
広々とした浴室は、大理石の床に檜の浴槽、それから大きな窓があり、まるで旅館のような風情がある。最初に目にした時、一成は「なにこれ!」とテンション高くはしゃぎ回っていたし、今でも毎回「すごいな~」と感心してしまうのだ。
「ゆっくり入ってきていいぞ。ああ、でも、出る時には知らせてくれ」
コンビニで買ってきた下着を持って、お風呂へ向かおうとしたところでそう言われた。すぐに入れるようにってことかな、と一成はうなずく。お風呂に設置されているボタンの類は上手く隠されているので、初見ではどこにあるかわからなかったけれど、今ならちゃんと把握しているので問題はなかった。
「おけまる~。テンテン、すぐ入りたいよね」
一番風呂は譲ってくれたけれど、天馬は今日も仕事だったのだ。早く湯船に浸かって、疲れを取りたいのだろう、と一成は思った。しかし、天馬は意外そうな表情を浮かべたあと、すぐにほほえみを広げた。
「そういうわけじゃない。お前の髪を乾かしたいんだ」
「へ?」
うきうきとした調子で言われて、一成は思わず声を上げる。髪を? 乾かしたい?
一成は、ハテナマークを浮かべながら天馬の顔を見つめた。すると天馬は、少しだけ表情を曇らせて言った。
「だめならいいんだ。きれいな髪だし、自分なりの手入れ方法があるとかで、オレに任せられないなら、そう言ってくれて構わない。でも、許してくれるなら一成の髪を触らせてほしい」
真剣な言葉に、一成は「それは全然いいんだけど……でも、なんで?」と尋ねた。髪を乾かしたい、と言われるとは思っていなかったので、純粋な疑問だ。天馬ははにかんで答える。
「きれいな髪だから触りたいっていうのと、ドライヤーかけるの大変だって、前言ってただろ。なら、代わりにやってやりたいなって思ってたんだ」
東ほどの長髪ではないにせよ、一成の髪は男性にしては長い部類だ。ほぼドライヤーも要らないような髪型とは違うので、夏場には若干大変さを感じることもある。なので、そんなことを言ったような記憶はうっすらあったけれど、どうやら天馬はそれを覚えていたらしい。
「一成が嫌ならしない。嫌がることはしたくないからな」
きっぱりとした言葉に、一成は「嫌じゃないよ」と言う。ほとんど反射で飛び出した声だったけれど、一つだって嘘はない。天馬に触れられることが嫌だなんて、そんなことあるわけがないのだ。
「でも、その――テンテン、いいの? 人にドライヤーかけるって、別に楽しくなくね?」
「一成の髪なら楽しいから平気だ」
いぶかしみつつ尋ねた言葉に、天馬は重々しく答えた。絶対の真実を語るような口調で、実際天馬にとっては、当たり前の結論なのかもしれなかった。
その答えに、じわり、と一成の胸ににじむのは、嬉しさだとか照れくささ、ふわふわとした心地よさだ。
天馬にわざわざ髪を乾かしてもらうなんて、という申し訳なさも確かにある。けれど、一番は天馬が望んで髪に触れてくれる、という事実への喜びだった。
「本当にいいの?」
「いいに決まってる。というか、オレがしたいだけだしな」
再度念を押すと、天馬からは揺るぎない言葉が返るので。一成は嬉しそうに笑って、「なら乾かしてほしいな」と告げる。
それから、一成はドキドキしながら風呂へ向かった。湯船に浸かる時も、体を洗う時も、何だか落ち着かない。普段自分がどんな風に入浴していたのか、よくわからなくなりそうだった。
いつもより念入りに髪を洗ってしまったのは仕方ない、と一成は自分に言い聞かせる。だってテンテンが乾かしてくれるとか、めちゃくちゃきれいにしちゃうじゃん!
結局リラックスできていないような気がする、と思いながら一成は入浴を終えた。出ることを知らせてから、脱衣所でパジャマに着替えて、洗面所につながる扉を開く。大きな鏡に映った一成は、笑うような照れるような不思議な表情を浮かべていた。
タオルで簡単に髪を拭いていると、控えめに扉がノックされた。返事をすると、ドライヤーを持った天馬が入ってくる。本当に髪乾かしてくれるつもりなんだなぁ、と思っていると椅子を示されるので、素直に従った。天馬の家の洗面所は、ずいぶんと広い。椅子を置くスペースも当然あるのだ。
天馬は一成の後ろに立つと、ドライヤーをセットする。まじまじその様子を見つめていると、鏡越しに目が合った。気づいた天馬が、面白そうな表情で口を開く。
「何だよ」
「貴重な体験だな~と思って」
「別にこれからも、何回だってやってやるぞ」
あっさり言うと、かちり、とドライヤーのスイッチを入れる。とっさに返事ができなかったけれど、風の音にまぎれてしまったとでも思ったのか、天馬は特に気にしていないようだ。
しかし、一成は高鳴る鼓動を感じている。これから何回だって。貴重な体験じゃなくて。日常の一つに加えてもいいと、思っていてくれる。
「――でも、慣れてないからな。熱すぎるとか強すぎるとかあったら、言ってくれ」
自分の手に温風を当てて、風の具合を調整している天馬が言う。他人の感覚はわからないから、一成が不快な思いをしないように、という配慮だ。一成は「おけまる~」と答えた。
「我慢するなよ。オレに気を遣って黙るとか、そういうこともしなくていい」
いささか強い口調で釘を刺されて、一成は肩をすくめて「はーい」とうなずいた。さすが、オレのことよくわかってんね、と思いつつ。
天馬は、一成からの了承に納得したようにうなずいてから、ゆっくりとドライヤーを動かした。
温風が当たり、大きな手が、指が、頭皮にやさしく触れる。普段、こんな風に天馬の指を感じることはない。
だからこそ新鮮だったし、丁寧な触れ方は慈しみそのもののようで、一成の胸はぎゅっと詰まる。大事だと、大切だと、声ではなく伝えられている気がした。
「熱くないか」
「うん。大丈夫。ちょうどいいよん」
頭頂部から毛先にかけて、温風を当てながら天馬が問いかけるので、一成は心から答えた。気遣いではなく、純粋な事実だった。鏡に映る天馬は「そうか」とうなずく。そのまま、ゆっくり髪を乾かしてくれる様子を、一成はじっと見つめていた。
「――テンテン、髪乾かすの上手いね。美容師の役やってたから?」
「美容師志望の学生、だけどな。ある程度は習ったんだ」
以前のドラマで演じていた役を思い出して、一成は言う。
天馬が演じた役なら当然覚えていた。天馬はやさしく熱を送りつつ肯定を返し、プロの美容師に手ほどきを受けた時の話をあれこれ口にした。
「他人の髪を乾かす機会なんて、ないだろうと思ったんだけどな。今役に立ってよかった」
口元に笑みを浮かべて、天馬は嬉しそうに言った。今後の役作りに生かせるだろう、とは思っていても、私生活で使う日が来るとは予想していなかったのだろう。
一成は鏡の中の天馬を見つめて、笑みをこぼす。
「うん。テンテンの指、めっちゃ気持ちいいよ」
目を細めた一成は、心から告げる。あくまで素人の天馬ではあるけれど、ドライヤーが熱すぎるということもないし、乱暴に扱われることもない。ちょうどいい温度の風と一緒に、やさしい指先で丁寧に触れてくれるのだ。その感触が心地よかった。
壊れないようにそっと。大事なものに触れるみたいに。愛おしさを指先に込めるみたいに。そんな風に、天馬が触れてくれることが嬉しかった。
うっとりとした表情で天馬の指先を受け入れていることは、鏡越しでも充分に伝わる。天馬は嬉しそうに「ならよかった」と答えて、さらに言葉を続けた。うっすらと頬を染めて。
「一成の髪は、すごくきれいだからな。こんな風に手入れできて嬉しい」
天馬は、ドライヤーを動かしていた手を止めると、そっと毛先をすくいあげる。宝物を手にするみたいな仕草に、一成は思わず目を見張る。
「ずっときれいだと思ってた。光を集めたみたいだろ。一成の目の色によく合ってる。もちろん、黒髪のお前も好きだけどな」
そう言って、天馬はやさしく笑って再び髪を乾かす作業に戻ったのだけれど。一束髪の毛をすくいあげる仕草や、見つめるまなざしを鏡越しに受け取った一成は、どんな言葉を返せばいいかわからず黙り込む。
だって、あんまり愛おしそうで、あふれる心が形になったみたいで。天馬はそんな沈黙も気にすることなく、やさしく髪を乾かしている。
「だいぶ乾いたと思うが――足りないところはないか?」
しばらくしてからドライヤーを止めた天馬が、あらためてといった調子で尋ねる。一成ははっと我に返った。
天馬から向けられる気持ちだとか、やわらかな指先だとか、嬉しそうに一成に触れる様子だとか。そういうものに圧倒されるような気持ちで、何だかぼうっとしてしまっていた。
「大丈夫だよん! 今の、何か美容師っぽかったね」
明るく答えつつ、冗談めかして付け加えた。いつもの調子を取り戻そう、という気持ちもあった。そうしなければ、天馬に対する気持ちで、何だか泣き出しそうな気さえしたからだ。そうなったら、さすがに天馬も驚くだろう。
「自分でもちょっと思った。でも、美容師ならこんな風に客の髪に触らないだろ」
言いながら、一成の髪の毛にそっと手を差し入れる。一本ずつを慈しむように、ゆっくりと撫でて、さらりと指先からこぼした。天馬は満足そうにうなずく。
その様子を見つめる一成は、確かに、と思う。こんな風に、愛おしさの全てでお客さんの髪に触れる美容師がいたら問題だ。だってこんなの、全員恋に落ちちゃうじゃん。
「髪は乾いたと思うが……他に何かしてほしいことないか。マッサージとかか?」
ドライヤーを洗面台に置いた天馬が、真剣な顔で尋ねた。「一成に何かをしたい」という気持ちは常に発動されているようで、何かあればしてやりたい、というのは天馬の望みなのだろう。してほしいって言ったら、いくらでもマッサージとかしてくれるんだろうな、とは思ったのだけれど。
一成は「はい!」と手を挙げて、勢いよく言った。
「テンテンがお風呂あがったら、今度はオレがドライヤーかけたい!」
天馬の髪は一成ほど長くはないけれど、きちんとドライヤーをかけていることは知っていた。だから今度は自分の番だ、と思ったのだ。天馬がしてくれたように、大事に天馬の髪を乾かしたかったし、大切な人の髪に触れられるのは、確かに特別なことのように思えた。
天馬は一瞬虚を衝かれたような顔をしたものの、すぐに笑みを浮かべて答えた。
「まあ、一成がしたいって言うなら構わないが――他にはないのか。オレが一成に何かしてやりたいんだ」
さらり、と頭を撫でた天馬に尋ねられて、一成は首をかしげる。今日のテンテンからは、いつも以上にいろんなものもらっちゃってるし、わざわざしてほしいことなんて、そんなに思いつかないんだけどな、という気持ちで。
それでも、一応心の中を探っていた一成は、「あ」と声を上げる。
きらきらした笑顔を浮かべると、振り返って天馬へ視線を向けた。背後に立っていた天馬は「なんだ?」と尋ねる。
「ね、それじゃオレのことハニーって呼んでくんね? オレはダーリンって呼ぶから!」
ぴかぴかと輝く笑みで言えば、天馬が黙る。いかにもいちゃいちゃしてます、という代名詞みたいな呼び方だ。こんな機会でなければ、きっと天馬はうなずいてくれないだろう、と思っての提案だったのだけれど。さすがに、これは引かれただろうか、と一成は不安げな表情を浮かべた。
天馬はすぐに気づいたのだろう。大きな手のひらで、ぽん、と一成の頭を撫でると笑みを浮かべた。力強くまばゆい、一成の大好きな笑顔だ。
「いくらでも呼んでやるよ、ハニー?」
ほんの少しの照れくささを混ぜて、それでもはっきりと口にする。普段の天馬なら、恥ずかしがって言ってくれない可能性の方が高いのに、今はこうして真正面から答えてくれるのだ。一成が望んだから、ただそれだけの理由で。
「うん、大好きダーリン!」
あふれる気持ちが形になったような声で告げると、天馬は嬉しそうに一成の頭を撫でた。