木曜日にはラフマニノフを





 昼を過ぎた食堂は、どことなく閑散としている。遅めの昼食を取っている学生や、講義の合間の休憩場所として活用している学生の姿がちらほらあるくらいだ。
 ぐるりと周囲を見渡した天馬は、「こっちッスよ~!」と手を振る太一を見つけて、スタスタと歩いていく。次の時間まで空きだという太一と落ち合って、時間をつぶす予定だったのだ。
 天馬もさすがに入学当初ほど騒がれることはなくなった。
 とは言っても、ゼロになったわけではないので、誰かと一緒にいるほうがよかった。太一は比較的、人当たりよく天馬のファンを上手くさばいてくれるので、そういう点でもありがたいし心強かった。

「あれ、天チャン。コーヒーッスか?」

 天馬の手には、ここへ来る途中のカフェテリアで購入したコーヒーカップが一つ。天馬はうなずきながら、太一の向かいに腰を下ろした。
 太一はいそいそと、食器の乗ったトレーを脇にどかす。遅い昼食を取っていたのだろう。

「コーヒーに詳しいと大人ってカンジで憧れるッス!」
「別にオレはそんなに詳しくないけどな。詳しいって言ったら、万里さんとか紬さんだろ」

 カフェ巡りが趣味という二人を示して言えば、太一は大きくうなずく。それから太一の話は、二人から聞いたというお洒落なカフェの話に流れていく。
 天馬とてあの二人ほど詳しいわけではないし、コーヒーを特に好んでいるかと言えばそうでもない。ただ、最近コーヒーを飲む機会が増えたので、カフェテリアでも何となくコーヒーを選んだ。
 あの店で飲むコーヒーのほうが美味いな、と天馬は思う。味の違いをそこまではっきりと認識できるとも思えないけれど、少なくともこれだけは確かだった。

 天馬と一成は、木曜日の午後、5時を過ぎてからの時間を二人だけで過ごす。一成が任された仕事が終わるまでの期間限定の逢瀬だ。その時二人は決まって、同じ種類のコーヒーを頼む。

(ウィンナコーヒーって、ウィンナーソーセージのほう連想するよねん)

 クリームの乗ったコーヒー前にした一成は、面白そうに言っていた。その顔には、「天馬は絶対勘違いしてたに違いない」という確信が浮かんでいたので、天馬は何も言わずコーヒーカップに口をつけた。その予想は大正解だったので。
 天馬はあまりコーヒーに詳しくないけれど、喫茶店に置いてあるコーヒーはそんなに種類が多くないので、何となく天馬も理解できるようになった。一成と一緒にこれはどんなコーヒーなのか、なんて話をするのは楽しかった。
 コーヒーの種類。店番で面白かったこと。古書の入手方法。オムライスの隠し味。さっきまで読んでいた本の話。コーヒーカップのデザイン。
 一成は他愛ない話をいくつも天馬にしてくれる。取って置きの秘密みたいに、内緒話をするみたいに。
 ささやかな何でもない話すら、天馬といれば何もかもが特別だと言ってくれるようで、天馬はその度言いようもない幸福に酔いしれるのだ。

(いつもかかってるのは、ラフマニノフの曲だよん)

 流れている曲についての話をすれば、一成はさらりと答えた。マスターがラフマニノフのファンらしく、店内でかけられる音楽に他の作曲家のものはないらしい。
 店名もそのもの「Rachmaninoff」であることも、一成から聞いて知った。看板やメニューに記された店名は、デザイン性が高くて文字が認識しづらいこともあって、はっきりと認識していなかったのだ。


 一成から教えられたことだとか、二人で過ごした時間が天馬の脳裏に浮かんでは消える。太一の話から注意が逸れそうになって、天馬は気を引き締める。すると、そのタイミングで太一が口を開いた。

「天チャン、前はそんなにコーヒー飲んでなかったよね」

 コーヒーが飲めないわけではないものの、飲み物を選ぶ時真っ先にコーヒーが出てくるかといえば、そんなことがないのは太一も充分知っていた。だから不思議に思うのも当然だ。

「まあ、そういう気分の時もあるだろ」

 淡々と、落ち着いた口調で天馬は答えた。普通の顔はできていたはずだ。

 一成と毎週喫茶店で会っていることは、誰にも言っていない。一成も写真は撮っているものの、SNSの類にアップはしていないので、恐らく自分の胸の内にだけ仕舞っている。
 特別秘密にしなければならないようなことではないのだろう。だけれど、これは二人だけの時間なのだと知っているからこそ、誰にも教えたくなかった。二人だけの、自分たちだけの時間。

「確かにそーッスね!」

 なるほど、といった顔でうなずく太一は屈託がない。ただ、それは本当に納得したというより、天馬の心を汲んだ結果である可能性が高い。
 太一はいつでも明るくて素直だし、それは間違いではない。ただ、他人の心の機微を掬い取ることも上手いのだ。だから、天馬が黙っていたいという気持ちを察して、無邪気にうなずくことだってできる。

「コーヒー飲んでる天チャン、カッコイイッスよ~! 俺っちも、コーヒー片手にしてたらモテるかも!?」

 はっとした顔の太一は、それからいつもの通り恋人談義へと突入していった。
 高校生の頃から「モテたい」「恋人がほしい」と言い続けていた太一は、大学時代も健在だ。
 情報収集やイメージトレーニングも欠かさないので、最近では、デートスポットにも詳しいことから彼女持ちのアドバイザーにもなりつつある。本人は「役に立てるなら嬉しいッス!」と言っていた。

「はー、これからイルミネーションも綺麗な季節だし……。大学から一緒に帰って、屋外デートっていうのもいいッスね……」

 しみじみとした調子で言葉を落とした太一は、前方へ視線を投げた。視線を追って振り返ると、太一の真正面、机を一つ挟んだ先に天馬も知った顔があった。
 確かこの前、彼女とのデート先について太一からあれこれアドバイスを受けていた学生だ。隣にいるのが、件の彼女なのだろう。近い距離で笑い合っていて、親密な空気はここからでもはっきりと分かる。

「片耳ずつのイヤホンとか憧れるッス……」

 しみじみとした調子の太一が言う通り、件の学生は隣の彼女と一つのイヤホンを分け合っている。スマートフォンから音楽か何かを流しているのだろう。
 太一は「俺っちも彼女ができたら絶対やってみたいんスよね!」と拳を握り締めている。

「天チャンは、ああいうの憧れないッスか?」

 同じものを見ていることに気づいて、太一が瞳を輝かせながら尋ねる。太一のほうへ視線を向けた天馬は何かを言おうとしたものの、上手く言葉を紡げない。
 脳裏に浮かぶものは、自動的に思い出してしまうのは。


(ピアノ協奏曲第2番が有名だよねん)

 店名の由来を聞いた天馬が、いまいちピンと来ていないことを察した一成は言ったのだ。確かに、名前なら聞いたことはあるけれど、どんな曲があるのかと言われてもわからなかった。
 一成は慣れた手つきでスマートフォンを操作すると、動画サイトにアクセスして目的のものを見つけ出した。

(これ、コンクールの時の映像だけど――この辺が有名かな~)

 動画のシークバーを操作しながら、一成はイヤホンの片方を天馬に差し出したのだ。店内で動画を再生するわけにはいかないという配慮だということはわかったので、素直に受け取る。
 もう片方を装着した一成が、画面をタップする。途端に流れ出すのは、オーケストラとピアノの音色だ。

(オレこの辺も結構好きなんだよねん)

 机の上に置かれたスマートフォンを見つめて、一成が言う。一成の好きなものを教えてもらうことが嬉しい。耳に流れる音色は重厚で、確かに聞き覚えがあるような気がした。
 そうか、こんな曲なんだな、と言おうと思ったのに。
 一緒にスマートフォンをのぞきこんでいるから、思いの外一成の顔が近い。額が触れてしまいそうで、天馬の心臓はドキドキと鳴りっぱなしだ。
 黙ったままの天馬に気づいたのだろう。「テンテン?」と名前を呼んで、視線を向けると近い距離にある瞳と真正面からぶつかる。閃く光のあざやかさに、天馬はしばらく動けなかった。


「天チャン、どーしたッスか?」

 黙りこくったまま反応のない天馬に、太一が心配そうに声をかける。天馬は我に返った。何でもない、と告げる前に、太一はもしかして、と言葉を続ける。

「ドラマとかですでに体験済みッスか!?」

 憧れも何もすでに体験しているのでは、という表情だった。
 天馬は内心で太一に謝罪を向けながら、ここはその勘違いに乗っからせてもらおうと決める。実際、恋人同士として色々なシーンを演じているので嘘ではなかった。

「まあな。そういう撮影は何回かやってると思う」
「さすが天チャン……!」

 イヤホンを二人で分け合う、という撮影をしたかどうかは定かではないけれど、ここはそれで通すしかなかった。太一は心からの憧憬を浮かべたまなざしで天馬を見つめたあと、心からといった声を吐き出した。

「俺っち、恋人ができたらやりたいこといっぱいあるんスよ!」
「これからいくらでもできるだろ、太一なら」

 嘘偽りのない天馬の本心だった。太一は「モテない」と日々言っているけれど、魅力的な人間であることは間違いないので、太一の願いはいずれ叶うだろうと思っている。
 太一は感極まった表情を浮かべたあと、強く拳を握り締めた。

「そうッスね! そのためにもイメトレは大事だし――やっぱり手をつないで歩いたりとかしたいッス」

 太一は嬉しそうに「もしも恋人ができたら」という話を続ける。
 普段は行かないようなお洒落なお店とかにも行ってみたいし、カップル専用のシートなんかも利用したい。デートスポットを制覇したり、二人だけでテーマパークにも行ったり、おそろいで何かを持つのも楽しそう。きらきらとしたまなざしで語られる言葉を、天馬はほほえましいような気持ちで聞いている。
 しかし、同時に胸の奥がよどんでいくのも確かだった。
 太一の言葉に、天馬は思い知る。恋人ができたらしたいこと。その内のいくつを、自分は一成にしてやれるのだろうと。

 人目を忍んで手をつなぐことはできる。だけれど、一成の手を引いたまま歩くことはきっとできない。
 いかにも恋人同士が訪れる店や、デートスポットにテーマパークだって、一成と二人だけで行くことはかなわない。
 おそろいで何かを持つとしても、二人だけの特別さを知られないよう隠さなければならない。理由は簡単で、天馬が皇天馬だからだ。
 どこに行っても天馬は目立つ。一成と純粋に友達として出掛けるだけでも注目されるだろうし、いつだって人の目があると言っても過言ではないのだ。
 あからさまに恋人同士だとわかるような場所に、一成と二人きりで赴いたらどうなるのか。もしも一成が恋人なのだと、欠片でも他者に思われたらどうなるか。
 決して幸福な結末を連れてこないことくらい簡単に想像できてしまうから、二人はそれを選べない。

 一成は愛情深い人間だ。大切なものを大切にして、好きだと伝えてくれることを天馬は今身を持って感じている。
 だからきっと、一成は誰に告げても問題のない恋人なら、いくらでも愛情を表に出した。誰かの目を気にする必要がなければ、どれほどまでに恋人が大切なのかと口にしただろう。
 手をつないで道を歩くことも、デートスポットへ行くことも、お洒落な店を予約することだって当然のようにできたはずだ。
 二人きりでテーマパークに行って、たくさん写真を撮って恋人との楽しい時間を報告することだってできる。
 おそろいのものを二人で持って、その事実を照れくさそうに、だけれど誇らしそうに、みんなに教える姿だって想像できた。
 だけれど、天馬は一成にそれら全てを与えてやれない。
 いずれ、カンパニーのメンバーに知らせる日は来るかもしれない。だけれど、皇天馬が皇天馬である限り、自分たちが恋人同士なのだということは隠し続けなければならないのだ。それが知られた場合のリスクはあまりに大きすぎると、他でもない二人が理解しているからこそ。
 一成はきっと「だいじょぶだよん」と笑うだろう。無理をしているのでもなければ強がりでもなく。心の底からそう言うのだとわかっているから、天馬の胸はよけいに締めつけられる。

「――天チャン?」

 黙り込んだ天馬に気づいたのだろう。心配そうに名前を呼ぶ太一に「何でもない」と首を振る。
 ただ、その顔は険しくて何かを考え込んでいることは明白だった。それでも深く聞いては来ない太一のやさしさが、今はありがたかった。