Specialty Lesson



 横に広がった、足つきのガラスの器。真ん中にはプリン、隣にはアイスクリームやホイップクリーム、周囲を彩るのは飾り切りされたリンゴや、目にもあざやかなオレンジにイチゴなどのフルーツだ。

「やば、めっちゃきれいなんだけど!」

 嬉々としてスマートフォンを構えた一成は、目を輝かせてそう言った。机を挟んで向かい合った天馬は「確かに豪華だよな」とうなずく。一成はニコニコと「テンテンのホットケーキもおいしそうだよねん!」と言葉を向けた。
 天馬の前には、焦げ目一つない、少し厚めのホットケーキが二段。てっぺんには四角いバターが乗り、さらにその上からたっぷりとメープルシロップがかかっていて、黄金の輝きを放っている。フルーツだとか生クリームだとかは一切ない、シンプルなものだ。

「ホットケーキが一番人気なんだって。頼んでる人、結構いるっしょ」

 そう告げる一成は、ちらりと周囲を見渡す。木目調の店内は大きな窓から入る光で、明るく照らされている。それぞれのテーブルには、確かにホットケーキの皿がちらほらと置かれていた。

「一成はホットケーキじゃなくてよかったのか」
「プリンアラモードあんまり見かけないから気になってたし、ホットケーキはテンテンが頼むからおけまるって感じ!」

 天馬は恐らく定番を選ぶだろう、という予想通りだった。写真は頼んで撮らせてもらったし、プリンアラモードが気になっていたのも事実だ。ただ、一成はイタズラっぽい光を宿して言葉を続ける。

「テンテンなら、一口くれるかなって! せっかくのデートじゃん?」

 冗談めかして言ってみれば、天馬は数秒黙ってから呆れたように息を吐く。いつもの一成の冗談だと思っていることはすぐにわかった。
 ただ、すぐに雰囲気を切り替えると「別にいいけどな」と言う。カンパニーで過ごしている間に、食べ物を分け合うことは天馬にとっても自然な行為になっていったからだろう。一切れくらいは分ける心づもりがあるらしい。

「さっすが、テンテン! やさしいよねん!」

 心からのお礼を込めて言いつつ、「何ならあーんってしてくれてもいいよん」という言葉は飲み込んだ。まったくの本心ではあったけれど、天馬のことなので華麗にスルーされることはわかっていた。
 この状況を指して「デート」と言うことだってそうだ。
 天馬の雑誌に端を発して、一成は天馬をデートへ誘うことにした。真正面から「オレとデートして!」と言ったのだ。
 すると天馬はスケジュールを確認して、空いている時間を教えてくれた。案の定多忙のため、一日時間を取ることはできそうになかった。それでも、一成が気になっていたカフェへ一緒に行くくらいの時間は確保してくれたのだ。
 そういうところもめちゃくちゃやさしくて大好き、と一成は心から思う。ただ、天馬が「デートして」という言葉にうなずいたとは言っても、友人と遊びに出かけるとしか思っていないことはわかっていた。
 普段から一成は、誰相手でも二人で出かける時は「デートだねん!」と言っていたからだ。その辺りは日常茶飯事すぎて、カンパニーのみんなに「テンテンとデートしてくんね!」と宣言してもスルーされた。
 日頃の行いって大事だな、と一成はつくづく思った。天馬にもカンパニーのメンバーにも、友達同士で出かけるのだとしか思われていない。
 やっぱりもうちょっと真剣に言えばよかったな~、と思いつつ、そんな空気を微塵も感じさせずに一成は口を開いた。スプーンを握ると「それじゃ食べよっか!」と声をかけたのだ。
 たとえ友達だとしか思われていないとしても、二人で出かけられること自体は、一成の心を浮き立たせる。もちろん、夏組やカンパニーのメンバーと一緒に過ごすことも大好きだけれど、目の前の天馬を今だけは独り占めできるのだから。

「んん、このプリンちょっと固めだねん。卵の味しっかりしてるし、カラメルも苦味のバランスばっちりでおいしい!」

 すくい取ったプリンを口にした一成が、目をきらきらさせながら感嘆の声を漏らす。天馬も、丁寧にホットケーキにナイフを入れると、メープルシロップをからませて口に運ぶ。もぐもぐ、と口を動かす様子に「おいしい?」と尋ねれば、こくりとうなずいた。
 その様子に、思わず笑みがこぼれてしまう。たっぷりのメープルシロップにひたったケーキ。一心にフォークを動かす様子は、本心からおいしいと思ってくれているのだろう。気に入ってくれてよかったな、と思いながら一成は口を開く。

「評判いろいろ聞いてたけど、大正解だったよねん。お土産のお菓子とかもあるし、何か買って帰ろっかな!」
「そういえば入口の机のところに、菓子類が置いてあったな。クッキーとかか?」
「そそ。焼き菓子が有名で、チョコレートクッキーが人気!」

 思い出しながら告げれば、天馬が「なるほど」といった顔でうなずく。カンパニーの甘党たちを思い浮かべて、「喜びそうだな」なんて言う。
 それから二人は他愛ない話をしながら、ゆっくりと目の前のスイーツを楽しんだ。途中で天馬はちゃんと一口ホットケーキをくれたので、一成の心は否応なく弾む。やたらとテンションが高くなってしまうものの、天馬はよっぽど気に入ったんだな、と呑気にうなずいていた。

「ねね、テンテン。今度はさ、映画見に行かない?」

 妙に鈍いところもかわいいなぁ、と思いつつ一成は口を開く。プリンアラモードもホットケーキも残りは少ない。食べ終わったら店を出て、あとは寮に戻るだけだ。その前に、次の約束をしたかった。

「前テンテンが言ってた映画のさ、リバイバル上映やるんだって!」

 言いながらスマートフォンの画面を見せる。そこには往年の映画ポスターが映し出されていて、天馬の顔がぱっと輝いた。まだ天馬が生まれる前に上映されていた映画なのだ。映画館で見る機会のない作品を見られる、とあれば天馬が喜ぶだろうことはわかっていた。
 二人で出かけられるなら、どんな口実でもよかった。気になっているカフェに行きたいでも、ちょっと買い物に付き合ってほしいでも、美術館の特別展のチケットがある、でも何でも。天馬は情に厚い人間だし、なんだって演技の糧にする情熱があるから、どんなものだってきっとうなずいてくれるだろう。
 わかっていたからこそ、一成は天馬が一番喜ぶことを用意したかった。
 皇天馬は骨の髄から役者なのだ。彼にとってもっとも心が躍って、何よりも強く惹かれるのはきっと芝居の世界だろう。だから一成は、天馬を映画に誘うことにした。
 以前交わした雑談の中で、件の映画の話になったことがある。その時天馬は、映画館で上映されていた頃に生まれていなかったことを悔しがっていたのだ。だから、この情報を見つけた時から言うべきことは決まっていた。

「あとさ、オレちょっと気になってる劇団があって。テンテン、こういうの好きじゃない?」

 言いながらさらにスマートフォンを操作して、目的のページを表示する。一成自身、カンパニーに所属してから演劇方面に対するアンテナが敏感になった。だから、気になる劇団情報は逐一収集しているのだけれど、天馬が好きそうな演目に関しては、強く意識するようになったのだ。

「知り合いにチケットもらえそうだから、テンテンも一緒に行かない?」

 天馬は多忙な人間だ。スケジュールが合うかわからないけれど、叶うならば天馬と一緒に行きたかった。天馬の心が躍る瞬間を、真剣なまざしで舞台を見つめる横顔を、体中の全てで何もかもを吸収しようとする情熱を、一番近くで感じていたかったのだ。
 天馬は一成の提案に、少しだけ意外そうな顔をしたものの、すぐに笑みを広げた。力強くて自信満々な笑顔とは少し違う。純粋な喜びがあふれだすような、もっと幼い笑顔だった。
 そんな風に笑ってくれることが、一成には嬉しい。青空の下をどこまでも駆けていくような、少年みたいな笑顔。大好きで、そばにいたくて、ずっと見ていたくて、何だか胸が苦しかった。

「ああ。昔の映画を映画館で見られる機会は少ないし、その劇団も映像作品では何度か見たことあるけど、実際舞台に行ったことはないからな。行ってみたいと思ってる」

 一成の言葉に、天馬は嬉しそうに答える。きっと天馬は喜んでくれると思ったけれど、乗り気でいてくれることに一成はほっとする。さらに、天馬は「スケジュールはどうにか合わせる」と続けたので、どうやら一緒に出かける約束はできそうだ、と安堵する。だけれど。

「――オレだけの都合じゃ決められないか。他のやつらのスケジュールもあるだろ」

 そういえば、という顔で天馬が言った。その口調は至って自然で、自分と一成以外の人間がいることを疑っていなかった。確かに、映画にしろ舞台にしろ、カンパニーの誰かと連れ立って行くことが多い。全員芝居に対して真剣だから、都合さえつけば一緒に行くのは不思議な話ではないのだ。
 わかっていたけれど、一成はきゅっと唇を結ぶ。ここで「そうだね」とうなずくことはできる。実際夏組に声をかければ、みんな快くうなずいてくれる気がした。一成はゆっくり口を開く。

「――二人がいいな」

 ドキドキと心臓の鳴る音を聞きながら、一成はそっと声を絞り出す。人目もあるこんな場所で、思いを告げるつもりはない。特別なんだと伝えるのが今じゃないことはわかっている。それでも、ちゃんと言いたかった。

「他の人は誘わないよ。テンテンだけだよ」

 一成は天馬の目を見つめて言った。紫色の瞳。力強くて凛としていて、だけど時々子供っぽくて。ふとした瞬間に、驚くくらいにやさしい光を宿す。どんな瞬間だって、一成の心をとらえて離さない、美しい瞳が真っ直ぐまなざしをそそいでいる。

「テンテンと二人で出かけたいんだ」

 静かな声だった。丁寧に、言葉の一つ一つを取り出すような、そんな響き。普段の明るさだとかテンションの高さはどこにもない。ただしんとした静謐さが漂っていて、天馬は小さく息を呑んだ。
 さすがに、目の前の一成の様子がいつもと違っていることはわかったのだろう。同時に、その言葉が冗談の類ではないことくらい。

「――だって、デートのお誘いじゃん? テンテン以外の人がいないの、当然っしょ」

 しかし、天馬が口を開くより先に、一成はぱっと笑顔を浮かべて言った。ぴかぴかとした明るさで、周りの全てを照らすみたいな、そんな雰囲気だ。天馬が一瞬言葉に詰まった気配がして、一成はさらに畳みかける。

「やっぱり、デートなら二人きりだよねん。チケットも二枚までなら用意できそうだし!」

 一成は、なるべく冗談めいた響きで言った。現実的な問題として、ツテで確保できるのは二枚ということもある。ただ、一番は我に返ったからだ。
 二人きりだということは伝えたい。だけれど、ここはどんな人がいるかもわからない場所だ。気心知れた人たちが集う寮内ならいざ知らず、不特定多数の人がそこかしこにいるような状況で、真剣にデートへ誘うのはまずい。うっかり本気を示してしまいそうだったので、慌てて冗談で上書きするしかなかった。
 天馬の顔と名前は、世間に広く知られている。街を歩けば注目を浴びて、人に囲まれることもしょっちゅうだ。
 カンパニーや夏組所属であることは世間的にも周知されているし、少し調べれば一成が夏組の一員であることはわかる。
 だから、二人で出かけること自体は特に奇異にも思われないだろうけれど、デート云々は慎重になるべきだった。一成のキャラクター性から十中八九冗談に思われるとしても、真剣な雰囲気を感じ取られれば噂話が流れてしまう可能性はある。
 一成は、天馬の名前に傷をつけたくない。余計な詮索をされる言動は慎むべきなのだ。だから、全ては単なる冗談なのだという風に話を持っていくのが正解なのだ。うっかり本音を口にしかけたけれど、それを告げるべきは今ではない。

「一成、お前――……」
「あの、皇天馬さんですか!?」

 雰囲気を切り替えた一成に向かって、天馬が何かを言い募ろうとした時だ。不意に横合いから声をかけられて、思わず二人は視線を向ける。若い女性の二人組が、テーブル近くに立っていた。紅潮した頬で口を開いたのは、ワンピース姿の女性だった。

「前からファンで……あの、この前の映画すごくよかったし、今のドラマも毎週楽しみにしてます!」

 胸の前で両手を握って、懇願するような祈るような口調で言葉を並べる。天馬はその姿を見つめてから、一つまばたきをした。次の瞬間にがらりと雰囲気が変わる。一成は、天馬が「芸能人」へと顔を変えたことを察した。

「ありがとうございます。映画もドラマも見てくださってるんですね。嬉しいです」

 にっこりと、それはもう完璧な笑顔で告げればワンピース姿の女性は声にならない悲鳴を上げる。隣にいたブラウス姿の女性は、上ずった声で「やっぱり本物じゃん!?」と小さく叫んだ。
 それを合図にしたのだろう。周囲にもざわめきが広がっていって、「皇天馬だって」「やっぱ本人?」「撮影とかじゃなくて?」といった声があちこちから上がった。
 恐らく、薄々気づいてはいたのだろう。とはいえ、声をかける勇気がなくて「もしかして」といった憶測が流れているだけだった。そこに声をかける人物が現れて、皇天馬本人だとわかってしまえば、あとは簡単だった。
 あちこちの席から人が立ち上がり、芸能人皇天馬を間近で見ようとしたり、声をかけたり、握手やサインを求めたり、と店内は騒然となる。天馬は戸惑いなど一切顔に出さず、きらきらとした笑顔で全てに相対していた。
 幼い頃から芸能人として活動していた人間なので、こういった時の対処は慣れているのだろう。店内限定ということで、そこまで人数が多くないことも幸いした。爽やかな笑顔で、一人ずつきちんと応対することを告げれば、粛々と列が形成されていた。
 さすがテンテン、と思いながら一成は念のため店員に話を通しておくことにする。二十人程度とは言え、プチ握手会状態だし、天馬に興味のない人間からすればわずらわしい事態ではあるのだから。
 天馬は一成の行動を把握していたようで、席を立って店員と話をする一成に「悪い」と目配せを送るので、指でオッケーマークを示しておいた。
 一成自身のコミュニケーション能力も手伝って、カフェのオーナーは天馬の来店を喜んでくれた。あとでサインを飾らせてもらえたら、という言葉に「任せて!」と胸を叩く。それくらいなら、寮でサインを書いてもらってから届けに来ることもできるだろう。
 無事に話はまとまったので、一成は少し離れた位置で天馬の握手会を眺めていた。
 代わる代わる天馬に手を差し出すのは、若い女性が多い。カフェの客層から考えても妥当だし、思い思いの装いに身を包む彼女たちは魅力的に映った。それまでの一成であれば、「かわいい子だな」とか「きれいな人だな」とか思って、浮き立つような気持ちになったかもしれない。
 だけれど、今ではとてもそんな気分になれなかった。頬を赤くして握手をする姿と、爽やかな笑顔で受け答えする天馬。それを見つめる一成の胸は、ずきり、と痛む。決して表に出しはしないけれど、胸には言いようのない感情が吹き荒れていた。
 いつかきっと、天馬の隣にはこんな風に素敵な女性が並ぶのだろう、と思う。想像するだけで苦しくなって、泣き出したくなる。こんな気持ちは、天馬にしか抱かなかった。夏組やカンパニーの誰かなら、きっと素直に祝福できたのに。天馬の隣に、自分ではない誰かが立つのかと思ったら、胸が痛くてたまらない。
 大事な友達だと思っていた。リーダーとして尊敬している。それは決して間違いではないけれど、いつからか一成にとって天馬は特別な人になっていった。
 きっかけなんて、いくつも思い浮かぶ。合宿の日々や旗揚げ公演、寮での生活、夏組公演。天馬の強さも弱さも知って、守りたくて大事にしたかったし、天馬が一成を大切にしてくれていることもわかっていた。天馬が特別になる理由なんて、出会った時からいくつもあったのだ。
 一成の心を真っ直ぐ受け止めてくれた時から。一成の本音を、望みを、取り出して口にすることを認めてくれた時から。一成の大事なものを、自分の思う限りで大事にしようとしてくれた時から。この人を特別大事にしたいと思ったし、同じように大事にしてもらえたらと願っていた。
 だから、ちゃんと特別なんだと伝えたかった。
 自分の気持ちが報われる可能性は低い、と一成は思っている。天馬自身、色恋沙汰に関しては鈍いところがあるし、そもそも恋愛の対象は異性だろうと推測している。思いを告げたところで、いい返事が返ってくるとは思っていない。
 それでも、自分の心をなかったことにしたくなかったのだ。天馬のことが特別だと、全身で訴えるような自分自身の心を、見なかったことにして、蓋をして、殺してしまいたくなかった。

(――なんて思うのも、テンテンのおかげだよねん)

 カンパニーに入団した頃の一成であれば、何もかもをなかったことにしたかもしれない。自分の気持ちなんて消してしまえば、それで万事は解決するのだと思っていた可能性は高い。だけれど、今の一成はそれを選ばないのだ。
 それは天馬が、共に過ごした時間で教えてくれたからだ。臆病な一成に何度も伝えてくれたからだ。
 本音を言うこと、思ったことを口にすること。一成の心の中にある大切なものを、自分以外の誰かに届けること。一成自身の心を、誰よりも強く、ずっとずっと肯定してくれたのは天馬だった。
 だからこそ、自分の気持ちを、思ったことを口に出すことを、三好一成の思いを届けることを、天馬は受け入れてくれると信じている。

(ちゃんと伝えたいな)

 一人一人に応対する天馬を見つめながら、一成は決意を新たにする。人目もある場所で、思いを告げることはできないけれど。
 今日はまだもう少し、天馬と一緒にいられるのだ。二人きりになるタイミングはきっとあるから、天馬のことが特別だと伝えよう。



 そんなことを思っていたのだけれど。予定というのは、大概上手く行かないようにできているらしい。
 202号室の扉を開くと、部屋では椋が漫画を読んでいた。帰宅した一成を出迎えて「おかえりなさい、カズくん」と朗らかに言ってくれる。一成は笑顔を浮かべて「これ、お土産のクッキーだよん!」と小さな包みを手渡した。椋はぱあっと顔を輝かせた。

「嬉しいな。ありがとう、カズくん! おいしそうだね」
「でしょ? テンテンと一緒に選んだんだよん!」
「そうなんだ。天馬くんにもお礼言わなくちゃ……部屋にいるのかな?」
「あー………最初は寮に戻ってくる予定だったんだけど、スケジュールに変更があって、そのまま仕事行っちゃったんだよねん」

 若干言葉を濁してしまったのは、椋が残念がるから、というだけではない。思いの外早く、天馬と別れなくてはならなかった現実を思い出したからだ。

 カフェでの握手会やらサインやらを終えた頃、井川から連絡が入った。仕事の予定が繰り上がりそうなので、すぐに迎えにいくという。
 天馬は一成に申し訳なさそうな顔をしたけれど、まさか駄々をこねるわけにはいかない。「オレのことは気にしないでねん」と快く送り出した。
 ひとまずお土産だけは選べたけれど、結局カフェで天馬とは別れることになった。本当なら天馬と二人きりで辿るはずだった道を、一成はとぼとぼと歩いて、寮まで帰ってきたのだ。
 思わずため息を吐いてしまったのも仕方ない、と一成は思う。もしかしたら告白できるかも、と思っていたのにそもそも二人きりになすらなれなかった。
 天馬が忙しくて、告白のタイミングはもともとなかった。加えて、今日の一件だ。テンテンに告白させない力が働いてるかも――なんて、益体もないことをつい思ってしまう。もっとも、単に天馬が忙しいことが原因だとわかっているので、そんな考えはすぐに打ち消したけれど。

「むっくんは、今日どんな感じ? どっか出かけた系?」
「気になってた漫画を買いたくて、本屋さんに行ったんだ」

 すぐに気を取り直した一成は、明るい声で問いかける。椋はおだやかな空気で、休日の様子を教えてくれた。本屋に行く途中で猫に出会ったとか、商店街の季節限定のパンがおいしそうだったとか、ささやかな話に一成は楽しく相槌を打っている。

「あ、もかしてむっくんが読んでたの、その時買った漫画?」

 机の上に置かれた漫画に気づいて問いかければ、椋は力強くうなずく。頬を紅潮させて、瞳いっぱいに輝きを散らして。

「うん!『ラブレターをきみに』っていうオムニバス形式の短編集で、いろんなラブレターが出てきて、どれもきゅんきゅんしちゃうんだ……!」

 漫画を手元に引き寄せた椋は、力強い雰囲気で内容を伝える。
 素直になれない女の子が手紙では思いのたけを伝えられるとか、対面すると緊張してしまう男の子が手紙なら自分の心を取り出せるとか、いつもは茶化してしまう女の子が手紙だと真剣に思いを告げるとか。
 ラブレターによって伝わる恋心を描いた物語は、甘酸っぱい雰囲気満載でいたく椋のお気に召したらしい。

「手紙ってあんまり書く機会がないから……。よけいに特別な感じがして、何だか素敵だよね」

 ほう、と息を吐く椋は少女漫画を抱きしめている。一成はその様子を見つめつつ、「確かに」と思っていた。連絡手段なんて、メッセージアプリやSNSの類がメインで手紙を書く機会はあまりない。手紙を書く、という行為が特別に思える、というのは納得できる話だ。
 特別、と一成は繰り返す。椋は特に大きな意味を持って口にした言葉ではないだろう。だけれど、それは一成によく響いた。
 特別な人を知っている。特別だと言いたい人なら、ずっと前から決まっていた。それに、手紙であれば時間がなくてもちゃんと気持ちを伝えられる。
 だから、一成は自然と思っていた。あらためてテンテンに手紙を書いたら、オレの特別は伝わるかもしれない。