エンドロールで待ってて








 夢を見ていた。


 わずかに開いた病室の窓から風が入り、カーテンを揺らす。ベッドで横になっている一成が、その動きにうっすらと目を開けた。
 しわの刻まれた顔に、出会った頃の若々しさはかけらもない。だけれど、その瞳はいつだってあざやかで、老いてもなお子どものようにきらきらと輝くことを天馬は知っている。
 一成は、天馬が枕元に座っていることに気づくと、うっすらと笑みを浮かべる。起き上がろうとするから、「無理するな」と声を掛ける。一成は残念そうな表情を浮かべるものの、素直に従った。
 病状はわかっている。春頃に体調を崩してからは、坂を転がるように病気は悪化の一途を辿っていた。ほんの一時期持ち直したものの、それもわずかな時間だった。今ではもう、ベッドから起き上がることさえ難しい。
 長い時間を積み重ねた体は確実に老いており、終わりの時までを明確に刻んでいた。子どもと言っていい頃に出会った自分たちも、今ではすっかり年老いた。若々しい張りもなく、深く刻まれたしわがここまで過ごした時間を否応なく教える。
 それほどの年月が経ったのだ。いくら体調に気をつけているとしても、生物としての寿命に抗うことなどできるはずがない。少しずつ不調の部分が増えてきて、思うように体を動かすことが難しくなった。万全の体調でいられる日は存在せず、病とも上手く付き合っていくことが日常になった。
 この年齢になれば、近しい人との別れは何度も経験している。だから、天馬も一成も理解していた。命の終わりが近づいている。長い長い旅の結末は、そう遠くはない未来に訪れる。

「寒くないか。あんまり体を冷やすのは良くないだろ」
「大丈夫だよ。むしろ、外の空気が入ってくると嬉しい」

 もう少し前なら、車椅子に乗せて散歩にも連れ出してやれたけれど、今ではもうそんなこともできなくなっていた。だから、外の空気を感じられることが嬉しいのだろうと天馬は察した。

「空の移り変わりが見られるのも楽しいよ。朝の澄んだ空が昼間のまぶしさに染まってくのも、夕焼けのグラデーションとそこからの夜の濃さとか」

 告げる一成の声は明るい。ずいぶんと弱々しくなってはいるけれど、まとう雰囲気は決してよどんだものではなかった。
 ベッドに横になった状態で視界に入るものは少ない。そんな中でも、空を見ているのが楽しいのだと伝えてくれるのは、まさに一成らしいと言えた。
 天馬は一成の言葉に「そうか」とやさしくうなずいた。一成は嬉しそうに、ぽつりぽつりと続きの言葉を落としていく。
 あんまり見ない鳥が飛んでいるだとか、飛行機雲が見えたら一日ラッキーなことがありそうだとか。子どものように輝く、若草色の瞳を見つめた天馬は、楽しそうに相づち打つ。
 病床の一成との会話は、ただおだやかだ。出会った頃のようなテンションの高さは、長じるにつれて少しずつ落ち着きを見せ始めていた。ただ、いつものハイテンションが消えたわけではなく、天馬や夏組、カンパニーを前にすると途端に昔の一成が顔を出すことを天馬は知っている。
 だけれど、天馬と二人きりの時は比較的落ち着いている、ということも知っていたのだ。だから、今こうしておだやかな口調で話す一成は、天馬の前で見せるいつもの顔をしている。
 長い年月を共に過ごしてきた。高校生の頃に出会った相手を、たった一人と思い定めた。奇跡のように同じ思いを返されて、人生を共に歩こうと誓った。事実としてそれは果たされて、紆余曲折はありながら、今もこうして同じ時間を重ねている。
 しかし、その時間がもうすぐ終わりを迎えようとしていることを、天馬も一成も理解していた。
 主治医からは包み隠さず病状の報告を受けている。治療というより、現在の苦しみを和らげるくらいしかできることはないのだ。病は確実に一成の体を蝕み、少しずつ命を削り取っていた。そう遠くはない未来に、一成の肉体はその役目を終えるだろう。

「お前が楽しそうにしてくれるとオレも嬉しい」
「――ふふ。本当素直になったよねん」

 軽やかな声があざやかで、出会った頃のような響きをしていた。天馬は思わず、病床の一成を見つめた。
 しわの刻まれた風貌は、病によってすっかりやつれている。もともと線の細い人間ではあったものの、病に伏せってからはさらに体重が減っている。車いすに乗せた時は、あまりの軽さに天馬のほうがうろたえたくらいだ。
 だけれど、今天馬へ向かうまなざしは、どこまでもきらきらと輝いている。
 出会った頃の、突き抜けるような明るさで話しかけてきた姿。実は人のことをよく見ていると知った。強い物言いしかできなかった天馬の言葉をやわらかく受け止めてくれた。同じ舞台に立って、最高の瞬間を分かち合った。あの時、天馬に向けられたまなざしと同じ輝きだ、と思った。
 天馬は数秒唇を結んでから、ゆっくり口を開いた。丁寧に言葉を並べる。

「大事なことはちゃんと伝えたいからな。お前がどれだけ大切かなんて、いくら言ってもいいだろ」
「そういうとこ、本当男前だよねぇテンテンは」

 面白そうな響きで口にされた言葉に、天馬の唇は弧を描く。最初に出会った時につけられたあだ名が、まさか今も現役だなんてあの頃のオレは思わなかっただろうな、とおかしくなった。
 対外的な場面においては、「天馬くん」やら「皇さん」やら呼ばれることもあるし、場面によって呼び名を使い分けていることは知っている。ただ、日常的には「テンテン」に落ち着いているし、天馬も一成だけが使う特別な呼び名が好きだった。
 本人にそう言えば、何だかちょっと恥ずかしそうに目を伏せて、だけれどあざやかな薔薇色を浮かべて笑ってくれたことを天馬は覚えている。

「テンテンはオレのこと大好きだもんね」
「そうだぞ。よく知ってるだろ」

 茶化した風に言われるものの、天馬は真顔で答えた。そうすれば、案の定一成はへにゃりと眉を下げて笑った。
 よくできた明るい笑顔ではない。心をそのまま取り出したみたいな、無防備な笑顔。天馬はこんな風に、心の内側を見せてくれる一成の笑顔が好きだった。だから、自然と浮かぶ笑みは深くなった。目の前で笑っていてくれることが、嬉しくて仕方がないのだ。
 その笑顔をじっと見つめていた一成は、ゆるやかに言葉を紡いだ。瞳が揺らいで、どこか弱々しい響きをしていた。

「――テンテンを、一人にしたくないなぁ」

 ぽつりと落ちた言葉の意味を、天馬は理解している。命の終わりが近いことは、恐らく一成自身が何よりも実感しているはずだ。少しずつ動かなくなっていく体。できることが減っていく。ゆるやかに、だけれど確実に、一つずつ炎を吹き消してゆくように終わりへと歩いている。

「先にいなくなって、ごめんね」

 傷ついたような瞳で言葉をこぼす様子に、天馬は嘆息するような気持ちで思った。こいつは本当に昔から変わらないな、と。
 自分の命が終わることを知りながら、心配するのは天馬のことなのだ。思うように動けないもどかしさや、絶えることのない苦しみが日常になっても、一成が憂うのは自身の苦痛ではない。苦しい、怖い、と泣いて怒って周りに当たり散らしたっておかしくはないのに、一成は残していく天馬のことを気にかけている。
 そのやさしさを歯がゆく思うこともあったけれど、今の天馬はただの事実として理解している。それが三好一成という人間であるなら、丸ごと全部大事にしていくのだと、とっくの昔に決めたのだ。やさしさゆえに傷ついてしまうなら、その分自分が守ってやればいい。その決意の通りに、天馬はここまで歩いてきた。
 一成がそれを受け取ってくれたことを、天馬は知っている。だから、天馬はそっと口を開く。ここまでの道のりを共に歩いてきた一成に、天馬を一人で残してしまうことを憂う一成に、告げたい言葉があった。
 二度と会えない別れが近づいている、という事実は天馬にとって悲しくて怖くてたまらないことでもある。だけれど、恐慌を来すこともなく受け止めていられるのは、確かな事実が天馬の胸には息づいているからだ。

「お前がいなくなるのは悲しい。たぶん、一成がいないことにはずっと慣れないだろうな。どれだけ長い間一緒にいたと思ってるんだ。お前はずっと、近くにいて当たり前だった」

 思い返せば、人生のほとんどを一緒に過ごしているのだ。長い人生のうち、一成のいない時間のほうがよっぽど少ない。いつだって記憶を紐解けば、そこには一成がいてくれた。
 全てが順風満帆なわけではなく、別の道を選ぼうとしたことだってある。だけれど、たった一つ、目の前の人間が大切だと、世界中でたった一人の存在なのだと思う心だけは手放さなかったから、今もこうして共にいる。人生が終わるその瞬間まで、同じ時間を重ねるだろう。

「悲しいし怖いし、一成がいてくれたらって何度だって思う」

 天馬の言葉を、一成は眉根を寄せて聞いている。一成のいない世界を生きなくてはいけない天馬を思って胸を痛めていることは、手に取るようにわかった。だから、天馬はできる限りのやさしい声で言う。おだやかな、春の日差しのような笑みを浮かべて。夏のまばゆさを閉じ込めたまなざしを向けて。

「だけど、心配するな。オレなら大丈夫だ」

 真っ直ぐと天馬は言う。秋の澄んだ空みたいに透き通った声で。冬の朝に似た凛とした決意で。一成の不在は永遠に埋まらない。痛くて苦しい現実を、確かに天馬は生きていく。だけれど、それでも、心配する必要はないのだと天馬は告げる。

「お前に愛されたから平気だよ」

 心からの言葉を紡げば、一成は目を瞬かせる。若草色の目が不思議な輝きに染まり、それを見つめる天馬は唇に笑みを刻む。
 一成のいない世界を生きることになっても、きっと平気だと天馬は心から言えた。どれほどまでに一成に愛されているかを知っている。たとえその肉体がこの世界から消えてしまっても、愛された事実は失われない。それは未来永劫、天馬にとっての力になる。
 それに、何よりももう一つ、大事なことを知っていた。たとえ一成がいなくなっても、この世界のどこを探しても会うことができなくても。それでも平気だと言える理由はもう一つある。それをきちんと伝えなくては、と天馬はゆっくり口を開く――。

 次の瞬間、アラーム音が鳴り響き、天馬は目を覚ました。