終末エスケープ 前編




「明後日には戻るって書いておいたら、二日は絶対稼げるかんね~」

 電車に揺られる一成は、軽やかな口調で言った。休日の朝早くという時間帯と、下り電車を乗り継いでいるという条件からか、車両に人はほとんどいない。窓の外の景色も、ビル群はとっくに見えなくなり、すっかり自然が多くなっていた。

「まあ、井川だって無期限じゃ許可出せないだろうしな」
「だよねん」

 落ち着いた調子で返された言葉に、一成は笑顔でうなずく。井川には当然、天馬を連れ出す許可は取っていた。あまり忙しい時期ではないことも手伝って、井川はすんなり許可を出してくれたのだ。だから、今の二人は大手を振ってどこまでだって行けるけれど。

「……一日あったら、海外だって行けるのにね」

 いつもの調子に似て、だけれどどこかが決定的に違う雰囲気で、一成はぽつりとつぶやいた。楽しそうな笑顔だ。目を細めて唇を引き上げる様子は、これから始まる出来事に心を弾ませているようにも見える。しかし、漂う雰囲気はどこか冷やりとしていた。
 明るく楽しそうに、何も考えていないような笑顔。その裏にあるのは、どこまでもしんとした静けさ。辺りを注意深く見つめて、冷静に状況判断をしようとしている。たった今口にした言葉は冗談の響きをしていたけれど、奥底には真剣さが宿っていた。
 事実として、一日の猶予があれば国外へ旅立つこともわけはない。ましてや二日もあれば、日本から遠く離れた地を踏むことだってたやすいだろう。
 もしも、二人が何も言わずに日本から消えてしまったとして、明後日には戻ると言っている手前、本格的な捜索が始まるまでには時間がある。そのタイムラグは、遠くへ行くためには大きなアドバンテージになる。誰も知らない間に、遠く遠くのどこかで行方をくらませてしまうこともできる。

「――なんてねん! さすがに、海外はちょっと荷物足りないし!」

 ぱっと表情を切り替えた一成は、おどけた調子で言った。
 二人の荷物は小さな旅行鞄だけなので、確かに海外生活には心もとないだろう。念のため、ということでパスポートは持ち出しているし、海外を念頭にした荷物も多少詰め込んではいるけれど。今のところ二人は、空港には向かっていない。
 天馬はその言葉に、ゆっくりとした調子で「まあ、それはそうだな」とうなずいた。
 一成の言葉を冗談としてとらえるわけでもなく、ただ静かに受け取った響き。同じ雰囲気で、天馬は一成をじっと見つめた。
 ひと気のない電車。がたん、がたん、と規則的に揺れる車両で隣同士に座っている。夏組が一緒にいたら、きっと明るい雑談が飛び交っている。しかし、二人の間には、ただ静かで落ち着いた空気が流れていた。
 天馬のまなざしを正面から受け取る一成は、胸中でそっと声を漏らす。
 いつだって力強い紫色の瞳は、どこまでも真剣だ。一成の気持ちを、余すところなくすくい取って行こうとするようで、心から一成は思う。
 ――テンテンは、最初からずっとそうだった。
 一成の脳裏に浮かぶのは、夜の談話室での光景だ。

 すっかり遅い時間帯で、団員たちはみんな自室へ帰っていた。一成はスマートフォンを操作しながら、天馬の帰りを待っていた。
 撮影が長引いて夜遅くなると聞いていたから、ちょうどいいと思った。夜こそが本番とでも言うように、にぎやかなスマートフォンの世界をいくつものぞいていれば、時間なんてすぐに経ってしまうはずだった。ただ、その夜はどうにも気がそぞろで、スマートフォンを操る指は鈍かった。理由はよくわかっていた。
 ぼんやりとスマートフォンの画面を見つめていた一成は、車が止まる音を聞いてはっと我に返る。慌てて玄関に向かえば、天馬がちょうど帰宅したところだった。恐らく全員休んでいると思っていたのだろう。一成の登場に、驚いたように目を瞬かせる。
 ただ、「おかえり」と告げれば「ただいま」と答えを返す。やさしく目を細めて、照れくさそうな笑みを浮かべて。その顔に、胸が締めつけられるような気持ちになりながら、一成は明るく声を掛けた。
 お疲れ様だとか、仕事大変だったね、だとか、何てことのない話題を口にすれば、天馬も同じ調子で答えを返した。
 他愛ない雑談をしながら談話室に戻れば、天馬は「それで」と話を切り出した。「何か用事があったんじゃないか」と、どこか落ち着きのない様子で。
 一成のことなので、単純に夜更かしをしていて天馬の帰宅に気づいて出迎えにやってきた、という可能性は頭に浮かんでいただろう。しかし、天馬は正しく一成の気持ちを読み取っていた。一成が、わざわざ天馬を待っていたのだと、ささやかな雰囲気から察したのかもしれない。
 一成はごくりと唾を飲み込んで、真っ直ぐ天馬を見つめた。
 言いたいことは知っている。天馬に伝えたいことは一つだけだった。冗談だと思われるかもしれない。それならそれでいい。そしたら、軽口で煙に巻いてしまえばいい。明るい笑顔で覆い隠してしまうことなら得意だから、問題なくできるだろう。
 それでも、もしも受け止めてくれたなら――と思いながら、一成は口を開いた。心臓の音が、ドキドキと頭にこだましていた。うるさいくらいに鳴る音を聞きながら、一成は言ったのだ。

 ――テンテン、オレと駆け落ちしてくんね?

 なるべく明るい顔で、すぐにでも冗談だと言える響きで。おどけるように告げた言葉だ。天馬は大きく目を瞬かせて、一成を見つめる。突然そんなことを言われたのだから当然だろう。
 わかっているから、一成は笑顔のまま天馬を見つめていた。驚いたような気配が漂う。何の冗談だ?とでも思っているのが伝わるから、このまま茶化してしまうべきか、と思ったのだけれど。
 数秒のあと、天馬のまなざしが変わった。力強く、真剣な瞳で一成を見つめるから、さっきとは別の意味で心臓が高鳴った。紫色の瞳が、揺るぎなく真っ直ぐ一成に向かう。何一つ取りこぼすまいとするように、一成の心を全て受け止めようとするように。
 たった数秒で、天馬が決断したことを一成は悟る。天馬は、戸惑いも驚きも全て飲み込んで決めたのだ。それがしかとわかる響きで、はっきりと答えた。

 ――わかった。

 どうしてとかどこへだとか、理由も行き先も何も聞かなかった。疑問なんていくらでもあっただろう。それなのに、ただ無言でうなずく。一成の答えなら全部受け取るのだと、きっと決めてくれた。
 その事実に、一成の心はどうしようもなくかき乱される。どれほどまでに、真剣に天馬が自分と向き合ってくれているのか、痛いほどに理解する。どれほどまでに、天馬が一成の気持ちを、心を大切にしようとしてくれているのか、たった今返された肯定一つが答えだった。
 だからそれなら、一成だって覚悟したのだ。天馬と一緒に、二人だけで寮を出るのだと。二人だけの道行きを進むのだと。

 今、隣に座る天馬はあの夜の談話室で向けたものと同じまなざしをしていた。
 あの時から、テンテンはずっと変わらず決意をしてくれているんだな、と一成は思う。実際天馬は、こうして電車に乗るまで文句も疑問も一つも言わなかった。
 必要な質問はしたし、いつもの軽口は叩いていたけれど、深く問うこともなく一成と一緒に来てくれたのだ。これが一成の単なる思いつきや悪ふざけではないと思っていることは、きちんと伝わった。
 何がしたいのか、どこに行くのか、質問したいことはたくさんあるに違いない。それでも天馬は、ただ一成を信じて何も言わずにいてくれる。一成の真剣さを感じ取ったからこそ、その気持ちを尊重して、ただ信じてやろうと決めている。
 その事実を理解している一成は、心からの気持ちを込めて口を開く。

「テンテン、かっこいいね」

 何もかもわからない状態は宙ぶらりんで、不安ばかりが膨らんでいく。知りたいことを全て知って、安心したいと思うのが性というものだろう。それをしないのは、天馬の強さに他ならない。だからこそ、素直にこぼれた言葉だった。
 天馬は一成の言葉に、ぱちりと目を瞬かせる。それから、何だか照れくさそうな表情を浮かべると「そうかよ」なんてつぶやくので。ああ、テンテンのことが大好きだな、という気持ちで一成の胸はいっぱいになる。こんな風に照れるところも、真剣なまなざしも、かわいいところもかっこいいところも、全部全部大好きだ。
 幸福に胸が締めつけられるような気持ちで、一成は唇に笑みを浮かべる。
 電車は山へと向かっている。気づけば、車両に乗っている人たちはずいぶん減っていた。スマートフォンを見ている人や、眠っている人がちらほらいるだけで、天馬や一成に目を向ける人間は誰もいなかった。最初こそは、天馬もちらほら声を掛けられていたけれど、今ではもうそんなこともない。
 だからきっと、天馬に向ける愛おしさがこぼれてしまっても、誰も気づかない。明確な言葉にするつもりはなかったし、態度に表すこともない。それでも天馬は受け取ってくれると信じていたし、事実その通りだ。
 何も言わないままの二人を、電車は運ぶ。二人はどんどん、天鵞絨町から遠ざかっていく。