終末エスケープ 前編
とうちゃーく!と明るい声で一成が言った。「やっぱ寒いねん、ストーブつけよ!」と言う一成の声を聞く天馬は、周囲に視線を向ける。
年季の入った和室の壁に、同じく古びた障子。ふすまも黄ばんでいるし、敷かれた畳も決して新しいとは言えない。ただ、掃除は行き届いているようで、清潔感はあった。
部屋にはストーブがぽつんと置かれているだけで、それ以外には何もない。だからなのか、六畳の和室はやけに広く思えた。
「――テンテン、あんまりこういうとこ来たことなさそうだよねん」
辺りをしげしげ見ている天馬に気づいて、一成が声を掛ける。ストーブはきちんと点火できたようで、オレンジ色の炎を燃やし始めていた。
「ロケとかで和風住宅に来ることはあるが――確かに、こういう感じはあんまりないな」
「おばあちゃんの家!って感じだもんね~」
明るい笑顔で言う一成は、脱いだ上着をハンガーに掛けている。天馬のダウンを受け取ると、まとめて長押に掛けていて、すっかり手慣れた仕草だ。
「まあでも、ちょっと狭いかも? 平屋だから二階とかないし、ここ以外だと、キッチンのとこと、あとお風呂とトイレしかないからねん」
そう言う一成の視線が向かったのは、模様入りのガラスがはめ込まれた引き戸だった。天馬もつられるように目をやった。
ガラス戸の向こうにあるのは、台所兼居間といった空間だ。広いとは言えないキッチンと、小ぶりのダイニングテーブルがぽつりと置かれている。玄関を入って、その部屋を通って和室に辿り着いているので、天馬も様子は充分わかっていた。
「というか、ここは何なんだ?」
ストーブのおかげで、次第に部屋は暖まっている。天馬もやっと人心地ついた気持ちになったのか、一成に向かって質問を投げた。
ここまで何も言わずについてきたけれど、さすがに疑問は拭えないのだろう。
それとも、どうやらここが目的地だとわかっているから、ようやく尋ねたのかもしれない。一成の行くままについていくと決めたとして、ようやくゴールに辿り着いたのならもういいだろう、という判断なのかもしれなかった。
それもそうだよねん、と一成は思う。むしろ、ここまで何も言わずに来てくれたことがありがたいのだ。行き先も告げないまま電車を乗り継いで、こうして山の中の一軒家まで来てくれるなんて。
それが天馬の信頼であり覚悟だとわかっている。一成は深呼吸をしてから、そっと口を開いた。
「さっきの人は、天美のOBだよん。オレの直接の先輩じゃないんだけど。彫刻科の卒業生で、山の中に工房持ってて作品とか売ってるんだ。で、ここはその離れって感じ」
さっきの人、というのは山間の駅に降り立った二人を、車に乗せてここまで連れて来た人物だ。大柄な体躯にひげを生やした姿は、山から下りて来た熊のようだった。人当たりはよくて、一成とも気軽に言葉を交わしていたし、天馬相手にも気さくだった。
「卒業したら山の中引っ込んで、世捨て人みたいな生活してるんだよね~。自分で野菜とかお米作ってて、鶏も飼ってるよ。あ、一応、電気水道ガスは通ってるから安心してねん!」
明るい笑顔での言葉に、天馬はしばし思案気な表情を浮かべた。さっきまで顔を合わせていた、件の人物を思い浮かべているのだろう。
「山男って感じの人ではあったな」
「別に山登りが趣味ってわけでもないらしいけどね~。どっちかっていうと、引き籠りたいから山の中で暮らしてるって感じ! テレビとかもないし、そもそも芸能人に興味ないからテンテンのこともよく知らなかったっしょ」
「ああ……」
一成の言葉に深くうなずいたのは、車中での会話を思い出したからだ。件の先輩は、天馬のことを一成の連れだとしか思っていなかった。芸能人でテレビにもよく出ている有名人、という認識は一切なく天馬と接していたのだ。
一成は一応、その話もしてみたのだけれど、そういうものには疎くてな、と言って謝って終わりだった。芸能人に対する物珍しさはかけらもなく、ただの事実確認の後は一切の興味を失っていた。
「あれはガチだからねん。先輩マジでそういうの全然知らないし、興味ないからすぐ忘れちゃうんだよねん」
しみじみとした口調で、大学時代の話をあれこれ披露する。他者を拒絶しているわけではないものの、著しく世間に興味がないのだ。一般的な常識は持っているけれど、流行りや芸能人などは一切頭に残らないし、テレビもまったく見ない。SNSなんて存在もすぐ忘れるという。
気さくな人柄で、厭世的な雰囲気は特になかったけれど、根本的に外界への興味が薄いのかもしれない。思った天馬は、つくづくといった調子で言葉を発する。
「そういう相手とも仲良いのは感心する。さすが一成だな……」
「褒められちった!」
おどけた調子で答えた一成は、すぐに落ち着いた表情を浮かべる。天馬が本当に心から感心してくれたのはわかっていたけれど、大したことではないのだ。
「まあ、先輩もともと人当たりはいいし面倒見もいいんだよねん。あと、オレの場合、ギブ&テイク的な? 先輩のネットショップ作ってるのオレだからね~」
彼が作った作品は、主にWebが販路になっているという。彫刻以外に木工製品も手掛けており、それなりの収入になっているようだ。活動場所のメインとなる店舗を作成したのが、何を隠そう一成なのだ。
ネットショップとかも作ってみたいな~と思っていたところに、ちょうどネットショップを立ち上げたいと思っている知り合いがいる、と人づてに聞いて手掛けたもので、一成にとって初期からの顧客と言っていい。
「メンテとかもちょこちょこやってるし、わりと感謝してくれててさ。もちろん代金はもらってるんだけど、それ以外にここの離れは自由に使っていいって言ってもらってるんだよねん」
辺鄙な場所にあるからこそ、通信環境だけはしっかり整っている。だから、一成とのやり取りも基本的にはオンラインだったし、この場所を訪れたことはほとんどない。
ただ、先輩が心から言ってくれることはわかっていた。だから、いずれ訪れる気持ちはあったし、今回二人で行く先に、ぴったりだと思ったのだ。
山の中にある、小さな家。周りに人家はなく、ひっそりと外界から閉ざされたような場所だ。家の主は芸能人にも詳しくないから、天馬のこともわからないだろうと予想できた。
そんな場所なら、二人きりで行き着く先にはふさわしいと思えた。誰も二人を知らない。ここにいるのだと、誰かの口から伝わることもない。きっとここなら、誰にも知られず二人でいることができる。
「――そういうわけで、お土産持参で突撃した感じ!」
ぱっと笑顔を浮かべた一成は、ガラス戸を引いた。すると、手狭なキッチンが現れる。目の前にあると言っていいダイニングテーブルの上の袋を示して、いたずらっぽい視線を天馬に向けた。
「基本自給自足だかんね。ときどき、こういうジャンクフード食べたくなるんだって」
駅前のファストフード店で調達してきたのは、ハンバーガーやフライドポテトの類である。もっとも、テーブルにあるのは天馬と一成二人の昼食で、土産はすでに先輩へ献上済みだ。
「あと、ビールもめっちゃ喜んでくれたよねん。さすがにビールは造れないからって」
にこにこ言った一成は「オレらもお昼にしよっか」と声を掛ける。朝も早かったので、朝食からはずいぶん時間が空いていることも確かだ。一成は、天馬が先輩のことを気にするかもしれない、と言葉を重ねる。
「基本的に、離れで好きに過ごしていいって言われてるし、先輩も干渉するようなタイプじゃないからさ。先輩のことは気にしなくておけまるだよん」
だから、ここなら二人きりで過ごせる。完全な二人だけの世界とは言えないかもしれないけれど、少なくともこの場所に二人がいることを知っているのは、たった一人だけ。その一人も、特に干渉するつもりはないらしいので、誰にも邪魔されずに時間を過ごすことができる。
「――駆け落ち先的にはぴったりの場所っしょ」
いたずらっぽい表情で、一成は言う。茶化すようなおどけるような言葉だけれど、真剣な響きを宿していることは、天馬にもわかった。
駆け落ちをしてくれないか、と言われて天馬はうなずいた。しかし、それが決して簡単ではないことくらい、二人ともわかっていた。一緒に行方をくらませるとして、ネックになるのは天馬が芸能人であることだ。
幼い頃から子役として活動しており、今もあらゆるメディアで日夜取り上げられている。顔を知る者が圧倒的に多すぎるのだ。どこかに宿を取ったとして、居場所なんて簡単に判明してしまうだろう。
一成がそれをわかっていないはずがないと、天馬は思っていた。それでも、一成が何より真剣に告げた言葉とあれば、何も言わずに従うと決めたのだ。
たとえ思う通りの結果にはならなくても、どこまでもどこまでも、遠くまで行きたいと言うのなら、天馬は共に行くつもりだった。一成もその決意は受け取っているとわかっていた。
しかし、蓋を開けてみれば、想像以上にしっかりと身を隠す環境が用意されていた。
確かにこの場所であれば、誰にも知られず逃げ続けることはできるかもしれない。他者との接触は限りなく低いし、唯一の接点と言える人も外界のことはほとんど興味がない。たとえ天馬の失踪が騒ぎになったところで、さして気にもしないだろう。
一成が本気だということくらい、天馬はわかっていた。ただ、いざ現実的な事態を前にすると、一成の真剣さを強く感じた。本当に、こいつはオレと逃げるつもりなんだ、と思うのと同時に、天馬はほとんど無意識で口を開いていた。
「――これが答えか?」
脈絡のない言葉だけれど、一成はしかと意味を理解していた。唐突な問いかけではなかった。ずっと前から決まっていたような質問だ。
しかし、一成は困ったような笑顔を浮かべる。天馬の問いは意外ではなかった。ただ、答えるべき言葉を持っていなかった。だから、一成は素直に言った。天馬には何一つ隠さなくていいと知っていたから。
「……ごめん、テンテン。もう少し待っててほしい」
望んだ答えでないことはわかっていた。だから、申し訳なさそうにそう言えば、天馬は数秒だけ黙った。しかし、すぐに笑みを広げると「別にいい。お前を困らせたいわけじゃないからな」と答える。それが一成を安心させようと思っての言葉であることくらい、すぐにわかる。
ああ、本当にテンテンはかっこいいな。心を傷つけまいと、安心しろと、声で表情で、テンテンの全部で伝えてくれる。そんなところが大好きだな、と思いながら一成は明るい笑みを浮かべた。
「そんじゃ、お昼食べてしばらくゆっくりしよっか。この辺に何があるか、探検とかしたいし!」
「ああ、そうだな。何かいろいろあったよな……」
「庭っていうか畑?とかもあるかんね~。野菜作りすぎたから、いっぱい食べてほしいって言ってたし、テンテンがんばろーね!」
ぐっと拳を握りしめて言えば、天馬が微妙な表情で黙り込む。野菜を大量に食べることになる気配を感じたからだ。
本音を言えば全力で遠慮したい。しかし、当人の認識は置いておいて状況としてはかくまってもらっているようなものだから、むげに首を振るのもどうか。そういう葛藤を察している一成は、心底面白そうな笑みを浮かべていた。
天美のOBだという先輩は、二人に干渉してくることはなかった。食材とちょっとした日用品の類を置いていったあとは、基本的に放任である。取り立てて客としてもてなすつもりもないようで、二人にはそれがありがたかった。
昼食後は家の周辺を見て回ったものの、山は日が暮れるのが早い。すぐに夜になって、ぐっと気温が下がった。あまり広くない家であることか幸いしたのか、それとも二人でくっついているからなのか。ストーブをつけていればそこまで寒さは感じない。
小さな一軒家で、二人はささやかな時間を共に過ごす。通信環境は整っていたけれど、一成はあまりスマートフォンを触らない。いつもなら、きっと周囲を写真に収めようとするだろうけれどそんな素振りは微塵もなかった。
先輩からの差し入れだという夕食を食べ終えたあとは、六畳の和室に布団を敷いて、二人で話をしていた。寝るには早い時間というわけで、布団の上で何でもない雑談を繰り広げている。
一成はそれを指して「修学旅行って感じ!」とわくわくした表情で言うし、天馬は「まあ、確かにこんな感じだよな」とうなずいていた。修学旅行の経験はないけれど、何となく理解できるようになっているのは、これまでの時間の積み重ねだ。
天馬がうなずいてくれたことが嬉しくて、一成はにこにこと笑っている。天馬の心には、修学旅行みたいな楽しい思い出がたくさん積み重なっている、という事実が嬉しかった。出会った頃の天馬にはピンと来なかった出来事も、今ではすんなりなじんでいる。それは、天馬がたくさんの喜びや笑顔と出会った証だと知っている。だから、一成は嬉しくて仕方ない。
そんな一成に「何笑ってるんだ」なんて、あきれたように天馬は言うけれど。こぼれる声はどこか晴れ晴れとした響きをしていた。その事実に、一成の胸はいっぱいになる。
テンテンにはずっと笑顔でいてほしい。この夜みたいに、おだやかに、静かに、テンテンの周りは全部いつだってやさしくあってほしい。抱きしめるような気持ちで思う一成に寄り添って、夜は更けていった。