終末エスケープ 前編
熱したフライパンに卵を落とす。じゅわ、と音がして白身が広がり、全体に熱が通っていく。一成は鼻歌混じりに、傍らの天馬へ声を掛ける。
「最高の朝ご飯できちゃうんじゃね!? テンテンが取ってきた卵で作る目玉焼きとか!」
明るい声で弾けるように言う一成の唇には、こらえきれないといった笑みが浮かんでいる。
昨日、家の周りを見て回っていると途中で家の主でもある先輩と出くわした。ちょうど鶏小屋の前だったこともあり、おおまかな説明をしてくれたのだ。その際、もしも卵が欲しかったら取っていってもいい、と言われていた。
取り方も説明されたし、味は保証するから食べてほしい、と言うのだ。それなら――というわけで、朝食用にと天馬が鶏小屋に向かったのである。
「マジでありがとねん! 鶏と格闘してるテンテン見られなかったのは残念だけど!」
満面の笑みで言う一成は、朝食の準備をしていたので鶏小屋までは一緒についていかなかった。天馬が帰ってきたらすぐご飯にしたかったので、先輩からの差し入れを使用して味噌汁やサラダを作っていたのだ。
だから具体的な場面は見ていないけれど、きっとめちゃくちゃ頑張ったんだろうな、と一成は思っている。動物が得意というわけではないので、恐る恐る鶏小屋に近づいただろうし、鶏が鳴けば挙動不審になっていたかもしれない。
見たかった、と一成は思うけれど、天馬はきっと見られたくないだろう、ということはわかっていた。だからこそ、一成はおとなしく朝食の準備をしていたのだ。もちろん、すぐにご飯にしたいという理由もあったけれど、天馬が嫌がることはしたくないな、というのも理由の一端である。
ただ、それはそれとして、絶対面白いし、めっちゃかわいかったんだろうなテンテン、と心から思っているのだ。なので、にこにこと笑みを浮かべて一成は目の前の目玉焼きを見つめていた。
「――まあ、オレにできることはあんまりないからな」
一成の言葉に、天馬はぽつりとつぶやいた。
一応手伝いの名目で、一緒に台所へ立ってはいる。ただ、天馬は自分が料理の即戦力にならないことはよくわかっていた。だからこそ、鶏小屋にだって率先して向かったのだ。この場所で天馬ができることなんて、ひどく限られていると理解していたから。
一成は空いた時間に、パソコン本体やネットショップのメンテナンスをする予定だ。せっかくだから、と対面でネットショップの改修点などの聞き取りをすると言うし、やるべき仕事はある。ただ、天馬は特に予定がなかった。
MANKAI寮であれば、寮内の手伝いもするし、買い出しにだって出掛ける。しかし、今ここで天馬に何かを頼む人間はいないし、この場所で与えられた仕事があるわけではない。
ここはビロードウェイではないから、ストリートACTへ出掛けることもないし、手入れするべき盆栽だってないのだ。ここでやるべきことが何もない、という事実をあらためて感じたからこその言葉だった。
「――オレと一緒にいてくれたらいいよ」
目玉焼きの様子を見つめていた一成は、そっと言った。
天馬の言葉の意味なら、充分理解していた。普段の天馬は、芝居を中心とした生活を送っている。寮にいれば、空いた時間に芝居の練習をすることも、ちょっとしたエチュードに参加したりストリートACTへ出掛けたりすることもあっただろう。そうでなくても、日々忙しく役者として仕事をしているのだ。一日の内、大半以上が芝居に費やされるのが常だ。
ただ、今この場所にいる天馬は、特に役者の顔を求められているわけではない。差し迫った出演作がないということもあるけれど、天馬は台本の類は持ってきていない。持ち出したのは必要最低限の荷物だけ。芝居に関するものを持ってこなかったのが、単なる旅行ではないことを暗示しているようだった。
そうして、ここまで一緒に来てくれた。その事実が嬉しいと思うけれど、天馬の気持ちも充分わかっていた。
だからこそ、一成は心から言った。どんな仕事もなく、やるべきことが何もない、というのは真面目な天馬からすれば不甲斐ないと思ってしまうのもうなずけるけれど。そんな風に思う必要は、かけらもない。何もできないから役に立ちたい、なんて思わなくていい。
「一緒にいてくれたら、それだけでいいよ」
天馬を真っ直ぐ見つめて、一成は言葉を重ねた。
きっと天馬は「そういうわけにもいかないだろ」なんて思うだろう。真面目な性格はよくわかっている。他の人間が働いている中、自分だけ無為に過ごすことを良しとすることはない。充分理解していたけれど、それでも一成は言いたかった。
天馬がいてくれたら、それだけでいい。ただ隣にいてくれれば、それだけで充分だ。何かをしてほしいとか、与えてもらいたくて、一緒にいることを選んだわけじゃない。近い場所で共に時間を過ごせるのなら、それだけでどうしようもなく幸福になってしまう自分自身を一成は痛いほどに理解している。
冗談でないことは、天馬も感じ取ったのだろう。真っ直ぐ見つめ返すまなざしが力強くて、テンテンはオレの気持ちをちゃんと見つけてくれるんだなぁ、と一成は思う。そういうところが大切で、大好きで、ずっとずっと大事にしたい。何よりきれいで、真っ直ぐなとこ、いっぱい大事にしたい。
やわらかく目を細めて天馬の顔を見つめると、天馬は何かを言いたそうに口を開く。しかし、それが声になるより早く一成がはっとした表情を浮かべる。焦げるようなにおいが漂って、目玉焼きへ目を向ければ白身の端が黒くなり始めている。
「やば、目玉焼き焦げる! テンテンお皿取って!」
焦りつつそう言えば、天馬ははっとした顔で周囲を見渡す。レトロな食器棚はガラス戸なので、皿の所在はすぐにわかっただろう。ちょうどいい皿を取り出す天馬に、一成は「ベリサン!」と言って、フライ返しを手に取った。
朝食の後は、簡単に部屋の掃除をしてから、布団を外に干した。一応事前に押し入れから出してくれたとは聞いていたけれど、しっかり干したわけではないという。どうせならふかふかの布団がいいよねん、という言葉に天馬もうなずいた。
外は充分広いので、布団用スタンドを持ってきて、二人の布団を干す。冬の日差しは夏とは比べ物にならないけれど、今日はいい天気だ。しっかりと太陽の光を受け止めてくれるだろう。
「あとは自由時間だねん!」
「一成は、話とか聞きに行くんだろ」
「午前中は、ちょっと街に下りるんだって。だから帰ってきてからかな~」
一仕事を終えて家に戻り、六畳間でそんな会話を交わす。障子を開け放った先の窓からは日の光が入り、温められた畳からはイグサの香りが漂う気がした。
予定らしい予定がないので、二言三言の会話で用は事足りてしまう。天馬は「そうか」とうなずいて、思案げな表情を浮かべた。
恐らく、「それなら空いた時間は何をしようか」と考えているんだろうな、と一成は察する。天馬の思考が読みやすいということもあるけれど、一成の場合は純粋に天馬をよく見ているからだ。
今までずっと、近くで天馬を見てきた。太陽みたいにまぶしい、いつだって明るい光をまとっている人を、一成はずっと見つめてきた。
「ねね、それじゃテンテン、ちょっとモデルになってよ!」
言いながら、部屋の端に置いてある鞄からスケッチブックを取り出す。小さめのそれは、一成が出掛ける時にいつも持ってくるものだ。ネットショップのイメージ図を描くのにも必要だろうと、鞄に詰め込んでいた。
「テンテンのこと、描きたいなって思ったんだよねん」
心が動いた瞬間を絵にしたい、と一成は思う。だからいつでも、一成は天馬を描きたい。寮にいた頃からそうだったし、今もそれは変わらない。ささやかな何でもない瞬間一つだって、天馬の存在は一成の心を震わせるのだ。
天馬は一成の言葉に、ぱちりと目を瞬かせる。「オレを描いても面白くないだろ」と思っていることはわかったけれど、すぐに考えをあらためたらしい。笑みを浮かべて、天馬は答える。
「まあ、一成が描きたいなら別にいいぞ」
「マ!? めっちゃ描きたい!」
冗談めいた響きで、しかし心からの言葉を告げる。一成はいそいそとページをめくり、鉛筆を手に取った。天馬は慣れた様子でポーズを取ってくれるので、「さすがテンテン!」とほめそやせば、満更でもない表情を浮かべる。
その一つ一つを、鉛筆で写し取っていこうと一成は思う。
誇らしさと照れくささ、喜びがないまぜになったような。見ているだけで胸がいっぱいになってしまうような。子供のようなあどけなさも、凛とした意志を宿す高潔なまなざしも。天馬からこぼれる光をすくい取って、絵に表していくのだ。
そっと決意を固めながら、一成は手を動かす。ただ、仰々しい雰囲気にしたいわけではなかったから、軽やかに口を開く。モデルとしてじっとしていることを苦には思わないだろうけれど、天馬にはリラックスしてほしかった。
「人物画描くのって久しぶりかも! やっぱ楽しいねん」
「前はときどき描いてたよな。練習とかで」
「うん。でも、最近は風景画メインだったかな~」
「――この辺とか、風景画のテーマにいいんじゃないか」
自然豊富な環境である。ここから少し歩けば地元の人には知られた湖もあるというし、風景画の題材には事欠かないだろう。一成はおおまかな輪郭を取りながら、「まあねん」とうなずく。
「この辺描くのも楽しそうだけど、今は人物の気分っていうか! テンテン、モデルにぴったりだし、デッサンもオレ結構好きなんだよねん」
大学でも人を捕まえてモデルにしたりデッサン像を借りてきたりしていた、と言う一成は「そういえば」という顔で続けた。
「彫刻科の作品もデッサンしてたな~。デッサン像と微妙に違うから、そこが面白くて」
彫刻科の話が出て来たのは、当然この家の主を念頭に置いての言葉だ。天馬も察しているので、「あの人は一体何者なんだ?」とつぶやいている。山の工房で作品作りに励む彫刻家なんて物語の登場人物のようだ、と思っているのだろう。
「一成の顔の広さには毎回感心する。大学つながりではあるだろうが、科も違うし直接の先輩じゃないんだろ?」
「うん。学年的にもかぶってないかな~? 大学に用事があった時、たまたま話してそこからネットショップ作りたいって聞いてって感じだから、めっちゃラッキーだったんだよねん」
普段は山で暮らしているので、大学で顔を合わせたことも幸運だったし、ちょうどネットショップ開設をしたいと言っていたことも、タイミングが良かった。全ての巡り合わせが上手く行っていたからこそ、今この離れに滞在することができているのだ。一つでも何かが違っていれば、この場所を訪れることはなかっただろう。
「面倒見も良くて情に厚いタイプだかんね。人を拒絶してるってわけじゃなくて、友達も結構いるっぽいよん。ただ街の生活が合わないって言ってたかな~。情報が多すぎるのがだめなだけで、人と関わるのが嫌いなわけじゃないっぽい」
「まあ、自分で食べるもの作って山で暮らしてるって聞いたら、人嫌いのイメージはあるよな」
「そそ。誰とも関わらない、話しかけるな、みたいな? 全然そんなことないっしょ」
「確かにな。オレの顔見たら話しかけてくれるし、いろいろ気にしてくれてるのは伝わる」
天馬の言葉に「でしょ~」と一成はうなずく。一切手を止めず、輪郭を象ったあとはそれぞれのパーツを描きながら。少しずつ、スケッチブックには天馬の姿が現れていく。
「大学の頃もテレビ見てなかったっぽいから、テンテンのこともマジであんまり知らないかもねん」
元来芸能人に対する興味が薄い人だという。くわえて、テレビも見ない生活となれば、天馬を芸能人と意識する方が難しいのかもしれなかった。一成の言葉に、天馬はぽつりと言葉を落とす。
「――まあ、今のオレが芸能人だって言っても説得力あんまりないだろ」
テレビもなければ新聞もないし、もちろん雑誌だってここには存在しないのだ。パソコンや通信環境はあっても、あくまで仕事用でありプライベートでは使っていないという。そうなれば、芸能人としての天馬を目にする機会は皆無と言っていい。
さらに、この場所で天馬はどんな芝居もしていない。そのために訪れたわけではないのだから当たり前だ。ただ、それは同時に天馬の芸能人らしさが一切ないということでもある。その事実をあらためて認識したのか、しみじみとした素振りで天馬はつぶやく。
「芝居に関係するものが一つもないっていうのは、何か変な感じだな」
天馬とて休養日はあるし、芝居とは関係のない時間を過ごしたことがないわけではない。ただ、天馬自身が芝居をしていなくても、周りには連なるものがあるのが普通だった。
出演作の台本や天馬が取材された雑誌だとかがあるなんてことはもちろん、それ以外だってそうだ。天馬ではなくとも誰かが芝居をしているだとか、メディアでは演劇が取り上げられているだとか、探す必要もないくらい自然に、天馬のそばには芝居があった。
「――オレも芝居はしてないしねん」
目の前の天馬とスケッチブックを見比べながら、一成は静かに答えた。じっと観察したあと、迷いなく手を動かして言葉を重ねる。
「寮にいたら、公演中じゃなくても何だかんだで芝居やってること多いし」
「ストリートACTに誘われるし、そうでなくても突然エチュード始まったりするからな」
心からといった調子で天馬がうなずく通り、MANKAI寮では何の前触れもなく芝居が始まることもある。全員劇団員だからこその日常と言える。しかし、ここへ来てからそんな機会は一切なかった。
「不思議な感じだよねん。何か、全然違う世界みたい」
天馬の姿を描きながら、一成はつぶやく。取り立てて決めたわけではないけれど、離れで暮らしている間、芝居の話はしていなかった。まるで、二人とも演劇のことなんて知らないみたいに交わされる会話は、違う世界で生きているような錯覚を覚えさせたのだ。
芸能人ではない天馬と、劇団員でもない一成。山の中でひっそりと、二人だけで暮らしているんじゃないか、なんてことを思ってしまうような。
「何か新鮮な感じ。芸能人じゃないテンテンってこんなかな~とか思っちゃう」
唇をほころばせて、一成はやわらかくつぶやく。演劇がきっかけで出会ったのが自分たちだということは、よくわかっている。だけれど、もしもの世界を想像したのだ。
まるで芝居の関係のない世界で出会って、こんな風に過ごす時間があったなら、と。二人で食事の準備をして、ちょっとした時間にこうして天馬をモデルにスケッチをしているような、そんな生活があったかもしれない、なんて。
「この辺で暮らしてて、ときどき町に下りて。たまにこうやってテンテンの絵描いて生活してるとか。そういうのちょっと想像しちった」
ありあえない仮定だとわかっている。それでも、一成の声はやわらかな何かを抱きしめるような、そういう響きをしていた。大切な宝物を、手のひらでそっと包みこもうとするような、そういう声。
「でも、テンテンはカッコイイから目立っちゃうかもねん!」
天馬が何かを答えようとしたところで、一成が一転して明るい声で言った。実際、天馬のような人間を周囲が放っておくはずがない、と一成は思う。どこから見てもわかるようなオーラを持っているし、何よりも純粋に、驚くくらいに造作が整っているのだ。
「テンテン、やっぱちょーイケメンだよね~!」
嬉々として言いながら、一成はスケッチブックを天馬に向けた。そこには、鉛筆の濃淡だけで天馬の姿が忠実に写し取られていた。
「めっちゃかっこいいから、描き甲斐あるっていうか! これだけかっこいい人、絶対周囲がほっとかないっしょ。マジで、テンテン全部のパーツが最高だよねん」
「いつも思うが、一成は絵が上手いよな」
「実はオレ美大生なんだよね~」
「知ってた」
軽口を交わし合って、二人で笑った。一成は心底嬉しそうな表情を浮かべて、天馬のすぐ隣に近寄ってくる。モデルというわけで、ある程度の距離を取っていたのだ。絵が完成したのだから、とスケッチブックを掲げながらぴたりと隣に座った。
「テンテン、どこの角度から見ても絵になるのマジでさすがだよねん。正面もだけど、横顔もめっちゃかっこいいし、角度あるのもいい感じ! この顎のラインとかきれいだよねん」
「全体像ならともかく、あんまりパーツで見ることはないな。そういうのは、絵を描く人間ならでの観点だと思う」
「そうかも! でも、テンテン、どこ取ってもばっちりだかんね。パーツもだし、配置が最高って感じ~」
明るく笑う一成は、スケッチブックを見ながら楽しそうに「目とかやっぱ気合い入れて描いちゃうよねん」と言葉を続ける。一緒にスケッチブックをのぞきこむ天馬は、感心した素振りで言った。
「一成の目から見たオレはこんな感じなんだなって思うと、何か面白いな」
「実物の方がかっこいいけどねん」
腕の触れ合う距離で、いたずらっぽい表情で答える。すると、天馬の雰囲気がわずかに変わる。何かを言いたげな空気を流したことに、一成は気づいた。だから、「どしたの」という意味で視線を送ると、天馬がぽつりと言った。小さな、それでいてやけに耳に残る声で。
「――オレはいつ返事を聞けるんだ。現状が答えだと受け取っていいのか」
天馬はじっと一成を見つめている。それを正面から受け取った一成は、笑顔を消した。困った顔はしなかった。ただ真剣な表情を浮かべる。いつものおどけた笑みで答える質問ではないと、わかっていた。
天馬が求めている返事。答え。ここへ来た時も問われたことだ。天馬の言葉を反芻する一成は、ひと月ほど前のことを思い出している。
夜の中庭で、二人でベンチに腰掛けて何でもない話をしていた。談話室から帰る途中だったけれど、話し足りない気がしてどちらからともなく中庭で続きを始めたのだ。
すっかり寒くなった季節だ。早く部屋に戻った方がいいと思っていたけれど、天馬と過ごす時間を終わりにしてしまうのが名残惜しくて、離れがたかった。
取り留めない話をしていると、ふと会話が途切れる。視線を向ければ、怖いくらいの真剣な顔をした天馬が、じっと一成を見つめていた。どうしたのか、と聞こうとして一成は口を閉じた。あまりも天馬が真剣な顔をしていたから、声を発することさえためらわれたのだ。
天馬はいっそにらみつけるようなまなざしで一成を見つめると、大きく深呼吸をした。それから、静かでいながら力強い声で、「一成が好きだ」と告げた。
――友達として、夏組の仲間としてももちろん大切に思ってる。だけど、それだけじゃない。そういう意味じゃない。特別な意味で、お前が好きだ。
寒さのせいではなく耳を赤く染めながら、天馬は言った。照れくさそうな雰囲気が漂っていたものの、決して目をそらすことはない。強いまなざしが、何よりも天馬という人間を知っているからこそ、冗談でも何でもないことはわかった。
だから、一成は目を見開いて天馬を見つめることしかできなかった。心臓がありえないほどの速さで鼓動を刻む。言葉の意味は充分理解していたから、どんな言葉も口にできなかった。
天馬はその沈黙を、どう受け取ったのか。畳みかけるように、さらに言葉を重ねる。自身の心を取り出して、そのまま一成へ渡そうとするみたいに。
――オレだけの特別にしたいって思う。抱きしめたいし、一番近くにいたい。触りたい。一成を特別扱いしたい。
一つ一つの言葉を確かめて、刻みつけるような響き。落ち着きさえ感じさせるけれど、奥底に宿る熱を一成は感じ取る。燃え立つような心から紡がれた言葉だと、どうしようもなく理解する。
友達として、夏組の仲間として、天馬がどれほど大切に想っていてくれるかは知っていた。だけれど、そのどれとも違う気持ちを一成に向けている。他の誰とも違った形。特別な一人だと、揺るぎなく告げる。
一成は泣きそうに眉を寄せると、からからになった喉でどうにか声を絞り出す。「ありがと」と言って、深呼吸をしてからそっと続けた。
――返事はもうちょい待ってほしいんだ。
天馬のことなので、想いを告げるということは一成からの答えを欲してのことだと理解していた。ただ自分の気持ちを伝えるだけではなく、一成が返す答えを待っている。たとえどんな返事だろうと、きちんと受け取る強さがあるからこそだ。
自分勝手に、気持ちを口にして終わりなんてことはしない。相手が返すものを、ちゃんと受け取る覚悟ができるのが、天馬という人間だ。
目もくらむほどのまばゆい強さ。テンテンらしい、と思いながら、どうにかそれだけ告げた。天馬は一成の言葉に少しだけ沈黙を流したあと、「わかった」とうなずいた。
ほっとするのと同時に、申し訳なさと胸を乱す気持ちが吹き荒れた。すぐに答えがほしいに違いないのに。一成の気持ちを汲んで、待っていてくれるのだ。本当にテンテンは、やさしくてかっこいいな、と一成は苦しい胸で思ったことを覚えている。
「……ちゃんと答えるよ。だから、あともう少しだけ待ってくれる?」
あの夜のことを思い出しながら、一成は言った。困ったような顔はしなかったし、へらへらと笑いもしなかった。絵を描く時にも似た真剣さで天馬を見つめて、懇願するように言った。
「オレの答え、ちゃんとテンテンに返すから。あと少しだけ、待っててほしい」
今の状況が答えだと言うこともできるだろう。しかし、一成はちゃんと言葉として天馬に答えるつもりだった。
天馬が気持ちを言葉にして伝えてくれたのなら、同じようにしたかった。曖昧なまま、今の状況が答えだと言ってしまうのではなく。心の底からの気持ちを、きちんと言葉にしたかった。ただ、明確な形になるまではもう少し時間が必要だった。
だから「もう少し待ってほしい」と告げた。天馬はじっと一成を見つめた。一成も同じように視線を返し、二つのまなざしが混じり合う。天馬は数秒そうしていたあと、そっと息を吐き出した。怖いくらいの真剣さが少しだけやわらぐ。
「わかった。一成がそう言うなら、待ってやる」
尊大とも言える言葉ではあるけれど。唇に浮かんだ笑みや、取り巻く空気のやわらかさに、一成は天馬のやさしさと強さを感じ取る。「ありがとねん」とそっとつぶやけば、天馬は嬉しそうに笑った。