群青の幕が上がる
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個展は盛況で、連日たくさんの人が一成の絵を見にきてくれた。
会期中はなるべくギャラリーに顔を出すことにしていたけれど、どうしても外せない用事がある。だから、夏組をはじめとしたMANKAIカンパニーのメンバーが来てくれても、必ず挨拶をできるわけではなかったのだ。しかし、たまたま在廊していた日に、天馬がやってきた。スケジュールが空いていたのがこの日だけだった、ということで、幸運が重なった結果なのだろう。
他のメンバーとはタイミングが合わなかったこともあり、一成は大喜びで天馬を出迎えたのだ。閉場時刻ギリギリだったので、あまり絵を見る時間は取れそうにないな、とぼやく天馬のため、特別対応として時間を少しばかり延長するくらい、一成にとって訳はなかった。
「――悪かったな。閉めるの遅くなっただろ」
「全然! めっちゃ慣れてるギャラリーだから、会期中はオレが戸締りとかすることになってるし!」
ギャラリーの扉を慣れた仕草で施錠して、セキュリティをオンにしながら一成は答える。
さすがにギャラリーのスタッフに残ってもらう、となったら一成もためらっただろうけれど。全て自分でできるので、天馬のために閉場時間を延長することにしたのだ。お客さんは全て帰って、天馬は一人きり。どこかほっとした調子で絵を見ていたのは、一成の気のせいではないだろう。
超有名人である天馬は、いつでも他人の視線を浴びている。本人にとっては自然なことだとは言っても、誰に騒がれることもない時間も必要だろう。誰の目も気にせず絵を見て回る様子は、どこか伸びやかに見えた。一つ一つの絵を丹念に眺めていたし、特に最後の絵では長い間立ち止まっていたのだ。
「じっくり見てくれて、オレも嬉しかったしねん! テンテン的にビビっと来た絵あった?」
明るい笑みを浮かべた一成は、天馬と連れ立ってエレベーターホールへ足を踏み出す。ギャラリーはビルの二階に入っており、一階のロビーへ向かうにはエレベーターを利用しなければならないのだ。
「そうだな。どの絵もお前らしくて面白かった。入口の深海の絵もよかったし――最後の青空の絵が印象深い。特に季節は書かれてなかったが、、夏の空みたいだなって思った」
目の覚めるようなあざやかさと、吸い込まれそうな深い色。光を含んだような青空の絵を、天馬は真剣な表情で見つめていた。横顔を思い出した一成は、ぱっと笑みを浮かべて「ありがとねん!」と告げる。天馬が心から一成の絵を受け取ってくれたことが嬉しかった。
「どの季節って決めてはいないし、絵に正解はないんだけど――でも夏組の舞台を思い出しながら描いたんだ。だから、夏の空なのかも!」
浮き立つように言葉を続ける間に、エレベーターホールへ到着していた。天馬は一成の言葉に、唇をほころばせる。控えめな照明で彩られたエレベーターホールに、そっと染み入るような笑みだった。
「お迎えはいがっち?」
「ああ、その予定だ。――ただ、渋滞にはまったらしくて、少し遅れるらしい」
ボタンを押すと、すぐに扉が開く。光沢のある黒い壁面を持つ箱に乗り込み、一成はボタンを操作しながら天馬へ問いかける。天馬はスマートフォンを取り出すと、メッセージを確認して答えた。今も変わらず天馬のマネージャーは井川が務めており、迎えの役目は今も彼のものらしい。
「いがっち、元気? 最近全然会ってないんだよねん」
「元気だぞ。そういえば井川も、一成の個展に行きたいって言ったな。今日は井川も用事があったから難しかったけどな」
「マ!? なら全然チケットあげちゃうから来て来て!」
ぱっと顔を輝かせて言うのと同時に、エレベーターが一階に到着する。音も立てずに扉が開くと、目の前にはしんとしたロビーが広がっている。
天井は高く、大理石の床は磨き込まれて落ち着いた輝きを放つ。人は誰もおらず、がらんとしている。照明は半分ほどに落とされており、うっすらとした暗がりが辺りを包んでいた。
ビルに入ったテナントはほとんどが営業時間を終えており、残っている人は少ないのだろう。夜が深まっていく時刻ということもあり、静かな気配が漂う。ただ、ビルの閉館時間まではまだ少し余裕があった。
一成は一直線に、ロビーに設置された革張りのソファに腰かけた。笑みを浮かべると、天馬に向かって力強く言う。
「ここなら、いがっち来たらすぐにわかるよねん!」
ビルは通りに面しており、ガラス張りとなっているのだ。ソファは通り側に設置されているので、車が停まればすぐにわかるだろう。閉館時間まではロビーを使うことはできる、と天馬には説明している。外で待てば瞬く間に人に囲まれてしまうだろうし、ロビーなら問題なく井川を待つことができる。
「――悪い。その、今日はお前にいろいろ迷惑ばっかりかけてる」
しばしの沈黙を流したあと、天馬は一成の隣に座ってぼそりとつぶやく。一成は思わず目を瞬かせた。何の話をしているのか、と思ったからではない。天馬なら気づくだろう、ということもわかっていた。ただ、謝られるとは思っていなかった。
そんな一成の気持ちを読み取ったのか。はたまた、自分の気持ちを再度整理直したからだろうか。天馬は深呼吸をすると、ゆっくり言葉を続けた。
「いや、違うな。迷惑なんて、一成が思わないことはわかってる」
そう言うと、真っ直ぐ一成を見つめた。きらきらと、紫色の瞳が輝いて辺りに光が散っていくようだった。夜でも、暗い場所でも、テンテンの目はいつだってこんなにまぶしいんだな、と思っていると天馬は言う。
「お前がいろいろ気遣ってくれたことはわかってる。ここ最近いろいろ立て込んでて、少し疲れてたんだ。だから、今日も一人にしてくれてありがたかった。一人でお前の絵を見られてほっとしたし、今だってそうだ。わざわざ、こうやってロビーで待てるって状況を用意してくれたのも、オレのためだろ」
本当なら、もっと効率的に井川へ連絡を取ればこんな風に待機する時間はなかった。一成はスケジュール管理が得意だから、渋滞の可能性も考慮して「そろそろいがっちに連絡したらいいんじゃね?」と言うことくらい、わけはなかった。だけれど、一成はそうしなかった。流れに任せて、ただこんな余白の時間を作ることにしたのだ。
天馬はいつだって、力強い光を放って先頭を走っていく。それだけの実力があるし、天馬自身の望みであることもわかっている。だから、納得したうえで全てを選択しているのは、一成も理解していた。
それでも、ふとした瞬間に、少しだけ立ち止まりたくなる時があるなら。全速力で走り抜ける一瞬、深呼吸をしたくなったなら。それに気づいたなら、天馬にそんな時間をそっと渡したかった。
これは全部一成の勝手な願いで行動だ。天馬に感謝してほしくてやっていることではない。だから、こんな言葉をかけてもらう道理はないのに、と一成は思う。
ただ、同じくらいに理解もしていた。長い間ずっと天馬を見てきて天馬と一緒に過ごしてきたからこそ。きっとテンテンはちゃんと気づいて、真っ直ぐ心の内を言葉にしてくれるんだろうなぁ、とほとんど予感していたのだ。
「――だから、その、ありがとな」
照れくさそうに、少し頬を赤くして。そっとはにかむ様子はあどけなくて、まるで出会ったばかりの――高校生の時の天馬のようで。一成の胸には、得も言われぬ感情が渦巻く。懐かしさと切なさと、喜びと悲しみと、なぎ倒されるような愛おしさ。あらゆる感情がないまぜになりながら、一成は口を開く。
「これはさ、全部オレがしたくてやってることだよ。オレがテンテンにしたいだけだから――ありがとなんて、オレの方が言うことなんだ」
いつもの軽口は出なかった。衝動のように言葉がこぼれていって、まるで心そのものが形になっていくようだった。
ただ、これは紛れもない一成の本心で本音だ。一成はいつだって、天馬に何かをしてあげたかった。できるものなら何でもしたくて、あげられるものなら何でもあげたかった。だから、やさしくすることなんて、天馬の心をそっと休めることなんて、一成にとっては当然の選択だ。
天馬なら、どんな願いも望みも、一成の気持ちを受け取ってくれると知っている。天馬が一成の本音を受け止めてくれた瞬間から。一成の失敗も迷いも認めて、一成の心を丸ごと抱きしめてくれた時から。一成は天馬をずっと信じているのだ。
だから、心のやわらかいところが形になったように、唇から言葉があふれていった。
「受け取ってくれて、ありがとねテンテン」
天馬ならきっと気づいてくれると思っていた。「悪い」と謝られるのは意外だったけれど、すぐに天馬は自分の心を見つめ直した。そうしてかけられた言葉は、一成の心を真っ直ぐ受け取ってくれた証だった。
そんな風に、天馬が思ってくれるのが嬉しい。天馬が言ってくれるのが嬉しい。大事にしたいという気持ちを、やさしくしたいという気持ちを、受け取ってくれることに胸が震えた。
だからこそ、こぼれた言葉。一成の理性は、こんなことを言われてもテンテンは困っちゃうかも、と告げている。しかし、同じくらいに「テンテンなら大丈夫」とも思っていた。いつだって、どんな時だって、天馬は一成の気持ちを余すところなく受け止めてくれる。それは、一成にとっての揺るぎない事実でしかない。
天馬は一成の言葉に、数度瞬きをした。しかし、それは意外だとかそういったものではない。ただ、自分の気持ちを確かめるような、深呼吸するような瞬きだった。
「……一成」
しばらくの沈黙の後、天馬が口を開く。揺るぎのない声とまなざし。何かを覚悟したような。舞台に立つ直前のような。そう思った一成は、何だか不思議な気持ちになる。
MANKAI寮にいた頃。一つ屋根の下で暮らしていたあの頃。この目を何度も見つめていた。このまなざしを受け取ってきた。何だか、あの頃に戻ったようだった。
ビルのロビーではなく、談話室のソファに腰かけているような。舞台袖で、幕が上がる瞬間を待っているような。大学生だった自分が今ここに座っているような。
そんな気持ちになりながら、天馬の次の言葉を待っていた。
しかし、天馬の唇から声が発せられることはなかった。その前に、突如としてスマートフォンの着信音が鳴り響いたのだ。
無機質なコール音は、しんとしたロビーにやたらと大きく反響した。発信源は天馬のスマートフォンで、いつまで経っても鳴り止まない。連絡があることを見越して、マナーモードを解除していたのだろう。
天馬は数秒ためらいを流してから、「悪い」と言ってスマートフォンを取り出す。どうやら相手は井川らしい。
井川とやり取りする様子を眺める一成は、何だか夢から覚めたような気持ちになっていた。
どの辺りにいるのかだとか、明日のスケジュールだとかを確認している様子に、そうだテンテン明日も早いんだっけ、と一成は思う。雑談の中でそんな話を聞いていた。もっと話をしていたい気持ちもあったけれど、あまり引き留めるわけにはいかない。いがっちが来たらマジ最速で帰さなくちゃ、と密やかに決意を固めていた。