それには魔法が足りない



 寮内の廊下を歩く一成のことを、天馬はすぐに見つけた。やたらと目立つ色をしているから、どこにいたってわかるのだ。
 滑らかなオレンジや黄色は目を引くあざやかさで、相変わらずカラフルだな、と思う。しみじみ眺めていると、その視線に気づいたらしい。立ち止まって首を動かして、天馬に目を留める。ばちり、と視線が重なった。
 その瞬間、一成はぱっと明るい笑顔を浮かべる。途端に周囲が赤に染まる。目も覚めるような、胸の奥まで届くような、深く濃い赤色だ。一成は嬉しそうにぱたぱたと駆け寄ってくる。

「テンテンじゃん! どっか行くとこ?」
「いや、談話室で水飲んで帰ってきたところだ。お前は、今帰って来たのか」
「もうちょい前かな~。さっきまで、まっすーにめっちゃ質問攻めされてた!」

 楽し気に笑ってその時のことを語る様子に、どうやら真澄は有言実行を果たしたらしいと悟る。必要な情報を聞き出して、一成を開放したのだろう。

「帰ってくるの早いんだな」
「うん。ちょっと用事済ませてきただけだからねん」

 昼頃出かけていったはずだけれど、暗くなる前には帰ってきているのだ。ずいぶんと短い外出時間と言えた。夕食には帰ってくるだろうとは思っていたけれど、もっと早い帰宅だ。
 ただ、そこで天馬は、一成がスケッチブックを持っていることに気づく。もしかして、一旦帰ってきただけで、またどこかへ出かけるのかもしれない。
 そう思って尋ねると、一成はあっけらかんと答えた。朗らかに、明るい笑顔で。

「ううん。今日はもう出かけないよん! これは、ちょっとスケッチでもしよっかな~って思ってバルコニー行くとこ! 今、めっちゃすごい夕焼け出てんだよねん」

 帰り道に遭遇した夕焼けに、一成は興奮しながら何枚も写真を撮った。ただ、それだけでは足りない気がして、絵も描きたい!とこうして画材を持ってバルコニーへ向かうところだったらしい。よく見れば、スケッチブック以外に色鉛筆も持参している。
 心躍る瞬間を絵にしたい、と言う一成は明るい黄色に包まれている。他の色も混じってはいるものの、一番強いのは喜びのイエローだ。光をすくって集めたような、冴えた黄色が目にまぶしい。絵を描くことの喜びにあふれるような表情に、心の内に生まれた感情が自然と声になっていた。

「なあ、絵を描いてるところを見ててもいいか」

 絵を描くのだという一成を前にして、自然と天馬は思った。踊るような指先が、何もなかった場所に世界を生み出していく。それを近くで見ていたい、と思ったからこそ言葉は声になったのだ。
 一成は、天馬の言葉にきょとんとした表情を浮かべる。嫌がっているわけではないだろうとは思うものの、いろいろと事情もあるかもしれない。そう思って、「お前の邪魔をしたいわけじゃないから、嫌なら別にいい」と言葉を添えると、一成がぱっと表情を変えた。

「全然平気だよん! ちょっとびっくりしただけ!」

 そこまで言ってから、一成は少しだけ口をつぐんだ。しかし、それも一瞬ですぐに笑みを広げると言った。弾んだ心を隠しもせず、あふれでるような色彩とともに。

「テンテン、オレの絵好きだもんね?」

 喜びの黄色に、楽しそうなオレンジ色。薄いピンクから濃いピンクへのグラデーションに、濃く深い紅色。目の覚めるような色彩を宿らせて、一成は笑顔で言った。
 いたずらっぽい口調で、ともすればからかうようにも思える声の響き。だけれど、漂う色彩が告げている。絵を描いているところを見たい、と言われた一成の反応。
 喜び。楽しい。嬉しい。言葉にはならずとも、心から歓迎されていることがわかって、天馬はくすぐったい。ふわふわとした胸の内に押されるように、天馬はゆっくり口を開く。

「――ああ、そうだ」

 素直に言うのは、何だかやっぱり恥ずかしい。照れくさいし、誤魔化してしまおうかという気持ちがないわけではない。だけれど、一成の描く絵が好きだということは、紛れもない事実だ。照れくさくてなかなか言葉にできなかったけれど、一成にきちんと伝えた日のことを覚えている。
 あの日から、天馬の世界はまた少し変わったのだ。
 大事なものをすとんと理解して、ただ素直に思えた。間違いなく一成は自分にとっての友達なのだと。照れくさくても、恥ずかしくても、それでも自分の中で確かな答えが形になった。だから、一成の絵が好きだということを素直に伝えてやろうと思ったのだ。






 バルコニーに出た瞬間、一成が歓声を上げる。弾んだ心がそのまま形になったような声の響きをしていた。それを聞いている天馬はしかし、別の感情で目の前の光景をとらえていた。
 辺り一面に広がる夕焼け。次第に暮れていく空は、端っこにわずかな青を残しつつ、はっとするほどあざやかな赤を広げていた。濃いピンク色を混ぜ込んだような、深い紅色が雲に映えて照り輝く。あまりにも鮮烈な色彩に染められて、圧倒的な力強さを感じさせる光景だった。
 天馬は息を呑んで目の前の夕焼けを見つめた。ただ、それは荘厳とも言えるような光景に気圧されたからではない。目の覚めるような赤。惹きつけられて目を離せない。胸の奥まで真っ直ぐ届くような、何もかもを染め上げてしまうような。この色を天馬は知っていた。何度も目にしてきたから、間違えるはずがない。これは、この色は、一成の色だ。
 どこにいてもすぐに見つけられるくらい、一成がまとう色はカラフルだ。それは、一つ一つの色彩が鮮明で、滑らかな濃い色をしているということもある。だけれど、胸の奥まで染め上げるような、深い紅色が何よりも目を引くのだ。

「すげーきれいだねん」

 天馬より、二歩ほど前にいた一成が振り返るとそう言った。浮かぶほほえみは、ずっと見てきた赤色に染められているけれど、果たしてそれは夕暮れに照らされているからなのか、一成の心を表す色彩なのか。
 一成は、天馬を見つけるとこんな風にあざやかな色彩を宿らせた。まばゆいほどの黄色に、あたたかなオレンジに、やわらかな桜色。それから、目の覚めるような赤。たった今、目の前に広がる夕焼けにも似た、深い紅色を宿して一成は天馬に笑いかけるのだ。
 真っ直ぐと心を傾けてくれるような。一成から届けられる感情が、あんまりきれいでカラフルで、こいつはこんな風にオレのことを思っているのか、と知らされるのは、くすぐったくて、照れくさくて、面映ゆい。だけれど、同じくらいに何だか誇らしくもあった。

「そうだな。きれいだと思う」

 胸に迫るような赤に目を細めて、天馬は答えた。眼前に広がる圧倒的な夕焼けも、一成が身にまとう紅色も、どちらも確かな美しさを宿していたから、心からの言葉だった。一成は天馬の答えに、笑みを深めて嬉しそうに笑った。オレンジと黄色のあわいのような、黄金色の輝きが鮮烈な紅色に混ざって、息を呑むような色彩が一面に広がる。

「こういう空を見てるとさ、きっと薔薇色ってこういうのかなって思うんだよねん」

 天馬と同じように目を細めた一成は、空を見つめて言った。静かでやわらかな、大事なものをそっと抱きしめるような声をしていた。それを聞く天馬は、心の中で「ばらいろ」とつぶやく。
 薔薇色と言って思い浮かぶのは、文字通り薔薇の花だ。真紅の花弁を持ち、高貴なたたずまいをしている。あの花が宿す色彩が空に広がっている、と一成は言うのだろうか、と天馬は思う。あまり花に詳しいわけではないので、その通りの薔薇の花を思い浮かべることはできないけれど。

「本物の薔薇の花っていうより、薔薇色の人生とかそっちのイメージだけどねん!」

 天馬の心の内を読み取ったように、一成は言葉を続ける。薔薇色という色名は、ピンクにも近い薄紅色だったり、紫みを帯びた赤に近かったりするらしい。目の前に広がる、濃いピンクを混ぜ込んだ紅色は該当しないだろう、と言う。それでも、一成はこの景色を薔薇色と呼んだ。

「こんなにきれいな夕焼け、胸がいっぱいになっちゃうっしょ。それって、幸せで仕方なくて、このまま今の瞬間がずーっと続いたらいいのにって思っちゃうときに似てるなって、思うんだよねん」

 告げる一成は、やさしく目を細めている。その瞳が濡れるように光っていて、映り込んだ夕焼けが不思議な色彩を描いていた。一成の緑の目に夕焼けの赤が混じり合って、この世に二つとない宝石のようだった。

「幸せで胸がきゅーってなっちゃうときと、おんなじ気持ちになるからさ。ああ、薔薇色ってきっとこんな色なんだろうなって思うんだ」

 眼前に広がる夕焼けの色彩。よく目にするオレンジ色とも違っていて、ピンクを混ぜ込んだ濃い赤色をしている。浮かんだ雲に照り映えて、圧倒的なまでの美しさをたたえている。そんな風景を指して、一成は言うのだ。目前の夕焼けを見て動かされる心は、全身の全てで幸せを受け取っているときと同じなのだと。

「そういう風に考えたことはなかったな。薔薇色っていうと、思い浮かぶのは花のほうだ。真っ赤な薔薇っていうだろ。あっちのほうを連想した」
「普通はそっちのほうだよねん! オレのほうが特殊かも!」

 だから気にしなくていいよ、とでも言いたげな様子だ。しかし、天馬は別に一成と反対意見だということを主張したいわけではなかった。伝えたいことは、もっと別にあるのだ。だから、天馬は一つ深呼吸をしてから言葉を続けた。

「この空を薔薇色って言うのは、納得できると思った」

 実際の色名としては正しくないのかもしれないけれど、天馬はきっぱりと言った。薔薇色というのは、希望や幸福を象徴する色だとされている。きっとこの空は、それにふさわしいと思ったのだ。
 目の前に広がる夕焼けは、圧倒的な美しさをたたえている。胸に迫るような色彩は、心の奥底からこみ上げる強い情動を連れてくる。きっと、それはこの上もない幸せや希望に満たされたときに似ているのだ。抑えきれないほどの、強い思いが押し寄せて、胸がいっぱいになるような。そんな瞬間を指して、一成はこの空を薔薇色と形容した。

「お前はオレより、よっぽどたくさんの色が見えてるんだろうな」

 しみじみとした気持ちで言ったのは、天馬の紛れもない本心だ。そもそも、薔薇色と言われたところでそれが実際どんな色を指すのかなんてわからない。一成は、本来の色を知った上で新しい解釈をしてみせたけれど、天馬ではスタート地点にさえ立てないだろう。

「そっかな~? まあでも、現役美大生だからねん!」
「そうなんだよな。最近、それはよく思う」
「最近ってどゆこと。オレずっと美大生なんだけど!」

 文句を言うような口ぶりだけれど、本心ではないことくらいお互いわかっている。あくまで冗談の響きだし、ちょっとしたじゃれあいのようなものだ。わかっているから、天馬も軽い口調で「普段の行動を思い返せよ」なんて返している。
 ただ、一成が美大生である、ということを最近特に意識していることは事実だった。感情の変化が色となって見えるようになってから、ずっと思っている。それは、一成が宿す色彩のあざやかさを強く感じ続けているからだ。
 身にまとう色彩がカラフルであることも、目の覚めるような赤を宿すことも、恐らくそれは一成が持つ色彩への鋭敏な感覚から来るのだろうと思っていた。美大生として――絵を描く人間として、世界にあふれる色彩をつぶさに見つめてきたからこそ。
 その推察は間違っていないだろうと天馬は思っているけれど。圧倒的な夕暮れを前にした会話で、もう一つの可能性にも思い当っていた。むしろ、こちらこそが真実なのではないかと天馬は思う。
 夕暮れを指して、一成は薔薇色と呼んだ。実際の色名としてではなく、喜びに震える心を、体中全てで感じる幸せを、奥底からこみ上げるような情動を、薔薇色と名づけたのだ。そんな風に、心の動きに美しい名前を与えるのは、一成らしいと天馬は思った。同時に、当たり前の事実のように理解した。一成の目はきっと、オレよりもっときれいなものを見つめているんだろうな、と。
 一成が宿す色彩は美しい。誰よりもあざやかで、明るくて、どこにいたって目を引く。それはきっと、一成の目に映る世界がどこまでも美しいからだ。一成自身が美しい世界を見ようとするからだ。
 世界中にあふれる色彩を、一成の目はきちんと見つけ出す。心の動きにだってあざやかな色彩を感じ取り、美しい名前を与える。一成はきっと、世界が宿す彩を抱きしめていようとするのだ。そんな人間だからこそ、他の誰とも違って、カラフルな色彩を宿すのだ。

「それじゃちょこっとスケッチしよっかな。テンテンも何か描く?」
「いや。お前が描いてるところ見てる」

 鉛筆を持った一成に問いかけられて、天馬は首を振る。一成は一瞬黙ってから、面白そうに笑った。周囲を彩る紅色がいっそう濃くなり、夕暮れに溶ける。

「テンテン、マジでオレの絵好きじゃんね」

 やわらかな笑みをたたえた唇でつぶやいたあと、一成はすっと表情を変えた。真剣なまなざしで目の前の風景を見つめているから、天馬はその横顔を眺めている。
 何もない空間に、一成は世界を生み出していく。色あざやかに、美しく、あふれるばかりの色彩を乗せて一つの世界を描いていく。それはきっと、一成自身が宿す色と呼応するように。自身の心さえ織り込むように、カラフルに何もかもを彩るのだ。
 天馬は一成の横顔を見つめながら、思っている。いつだって明るいやつだし、楽しいことが大好きな人間だ。だから笑顔でいることが多いし、別にいつも無理してるわけじゃない。だけれど、案外繊細で落ち込むことだってある。わかっているから思うのだ。
 笑顔でいられないような、そんな時は。カラフルな色彩がくすんで、曇ってしまうことがあるなら。そんな時は、ちゃんと支えてやろう。大事な友達として、夏組の仲間として。