夏と神様 03話




 天鵞絨町なら、何度か訪れたことがあった。知り合いの役者に招待されて、芝居を観に行ったのだ。
 天馬は小劇場の舞台に立ったことはないけれど、それぞれが独自の世界観を持つような芝居は新鮮で、強く興味を惹かれた。
 ただ、事務所との兼ね合いもあり、小劇場の舞台へ立つことは難しいだろうな、ということも理解していた。
 それでも魅力的なことに変わりはなくて、機会があれば何度か小劇団を訪れることはあったのだ。だから天鵞絨町のことなら何となく知っていたし、天鵞絨美術大学の存在自体は初めて聞いたわけではない。
 もっとも詳細は知らないし、訪れたことだってなかったので、何も知らないと言ってよかった。

 そういうわけで、天馬には何もかもが新鮮だった。
 事務室で入構手続きを終えたあと、目的地に向かってキャンパスを歩く。井川の先導で道を行く天馬にとって、目に映るもの全てが興味深い。
 大学へ進学しなかったのでキャンパスを歩くことも初めてだし、やたらと大荷物を抱えた人間だとか白衣の集団を目にする、なんてことも経験がない。
 一応変装しているし、遠目からでは皇天馬であるとは気づかないのだろう。特に騒がれることもなく、まるで自分も大学生になったように気持ちで構内を歩く。
 学生とすれ違い、目的地を目指して颯爽と大学内を移動する。わくわくとした気持ちで辿り着いたのは、キャンパスの中央にある講堂だった。ホールがあり、講演会などを行う場所だという。協力者である学生とはここで待ち合わせをしているらしい。
 講堂に入ると、高い天井と広い空間に出迎えられる。どうやらロビーのような場所で、奥にある重厚な扉がホールへの入り口なのだろう。
 天鵞絨町にある劇場にも似た空気が漂う。ただ、美大ならではと言えるのはロビーに当たる部分に、絵画や彫刻が展示されていることだ。展示会スペースも併設している、といった設計になっているようで、様々な作品が並んでいた。

「恐らくもう到着していると思うのですが――少し探してきますね」

 きょろきょろと辺りを見渡してから、井川はそう言った。講堂にはそれなりの人数がいるけれど、待ち合わせ相手の姿が見えないのだろう。
 天馬が「わかった」とうなずくと、「天馬くんは講堂にいてくださいね」と言い残してから、井川は足早に去って行った。
 その背を見送った天馬は、さて、と辺りを見渡す。井川が講堂へいるよう念押しをした点についてはいささか言いたいこともあったけれど、わざわざ外に出る理由がないのは確かだ。それに、せっかくなので展示された作品を見てみたいと思った。
 展示スペースは特に受付などがあるわけではない。自由に作品を見て構わない、ということなのだろう。その気軽さをありがたく思いながら、天馬は展示スペースに足を踏み入れた。
 並んだ作品には、これといった統一性があるわけではないらしい。油絵の横に彫刻が並び、グラフィックデザインと版画が同じスペースに置かれているなど、種類は様々だ。
 天馬はこういった芸術的なことはさっぱりわからない。ただ、どれもが情熱を傾けられた作品だということは伝わったし、純粋にどれもがよくできている。「上手いもんだな」と思いながら、一つ一つの作品を見ていく。
 簡単な順路に従い、突き当たりまで進む。左折の表示通りに道を折れた天馬は、目の前に現れた絵に息を飲んだ。

 展示スペースの中央に飾られた、大きな絵。青空を背景にした向日葵畑だった。

 吸い込まれそうな青空は、絵の中とは思えないほど澄み切っている。どこまでも高く、空の果てまで飛んでいけそうなあざやかさ。絵の向こうに夏の空が広がっているような気がした。
 さらに、一面の向日葵は太陽の光を受け止めて輝いている。花弁は目の覚めるような金色の光を放ち、どこまでもきらきらとまばゆい。
 まるで夏を切り取ったみたいだ、と天馬は思った。目の前にあるのはただの絵ではなく、夏につながる窓が開いている。熱をはらんだ風さえ運んできそうな絵に目を奪われて、身動きが取れないでいる。
 立ち尽くした天馬は、じっと絵を見つめていた。他のものは一切目に入らない。ただの絵のはずなのに、胸がドキドキと高鳴る。舞台に立つ直前にも似た高揚感で、天馬はただ目の前の絵を見つめている。
 どれくらい時間が経ったのか。魅入られたようにじっと視線をそそいでいた天馬は、はっと我に返る。隣に人の立つ気配を感じたからだ。とっさに顔を動かすと、一人の青年が立っていた。
 光を宿したようなあざやかな金髪に、日焼けを知らない白い肌。朝露に濡れるような、新緑色をした大きな瞳。青年は天馬の視線を受け止めると、にっこり笑った。
 胸の奥まで照らすような笑顔に、天馬の心臓がドキリと鳴る。人懐っこさと慕わしさが真っ直ぐ届いて、あまりにもまぶしい。胸の奥が騒ぐ。落ち着かない心臓がうるさい。
 青年はそんな天馬の様子に気づいているのか、いないのか、そっと口を開く。

「この絵――」
「あ、ああ、いい絵だな」

 混乱したままの天馬は、反射的に答えていた。やわらかな青年の声に、「こんな声をしているんだな」と熱に浮かされるような気持ちで思ってから、そのまま言葉をこぼしていく。

「きれいな景色だっていうのもあるけど、どこまでだって飛んでいけそうだ。明るくて、力強くて、まぶしい。目が離せなかった」

 この絵を見た時に感じたことが、自然と言葉になる。現れた絵。胸が高鳴って仕方なかった。青空と向日葵に、どうにも心を奪われた。

「夏そのものみたいだって、思った。青空も向日葵も強い光を持ってて、すごくきれいだ。この光を目指して走っていける気がする」

 夏を切り取った絵のまばゆさ。胸に真っ直ぐ届いた光はあまりに強くて、きっとこの光は未来まで照らしてくれるのだ、とただ自然に思った。天馬は心からの言葉を告げる。

「この空の果てまで、どこまでだって駆け上がっていけそうだろ。好きな絵だ」

 絵のことなんてさっぱりわからないけれど、これだけは確かだった。心が動いた。描かれるものは真っ直ぐと胸に入り、好きだと思った。たった一つの確かさを握りしめるような気持ちで、天馬はそう言う。
 すると、青年はやわらかく笑った。さっき見せた、まばゆい笑みとは少し違う。もっとたおやかで、やさしい。嬉しそうに、とろけるひだまりみたいに笑うものだから、天馬の心臓は一際速い鼓動を刻み始める。顔が熱い。何もかもを抱きしめるような笑みから、目を離せない。
 青年はその笑みを浮かべたまま、ゆっくり口を開く。何かを告げようとしている、と天馬は耳をそばだてる。しかし。

「天馬くん! こんなところにいたんですね」

 青年より速く声が飛び込む。振り向けば井川で、困ったように眉を下げて天馬のもとへ駆け寄ってくる。姿が見えなくなって、慌てて辺りを探していたらしい。悪い、と頭を下げると「いえ」と首を振ってから、天馬の隣で視線を止めた。青年を見て、「ああ」と納得したように声を上げる。

「三好さんとすでに対面されていたんですね。絵の説明もされていたんでしょうか」

 自然な口調で続いた言葉に、天馬は頭上にハテナマークを浮かべる。何を言っているのかすぐに理解できなかったのだ。
 しかし、青年は違っていたらしい。井川の言葉で瞬時に事態を把握したようで、さっきまでのものとは違う笑みを浮かべて口を開く。ぱっと明るい、華やかな表情。

「自己紹介はまだだよん、いがっち!」

 いがっち?と首をかしげている間に、青年は真っ直ぐ天馬を見つめた。
 濡れたように光る緑色の瞳。いきいきと輝いて、天馬は感心したような気持ちで見つめ返す。「きれいだな」なんてぼんやり思っていると、青年は言った。

「そんじゃ、あらためて。今回、美大とか日本画専攻の説明を任されました、三好一成です!」

 きらきらと明るい笑顔で告げられた言葉。みよしかずなり。それが目の前の青年の名前なのだ、と天馬は胸中で名前を繰り返した。大切な、とっておきの呪文を唱えるような気持ちで。
 青年――一成は、それからさらに言葉を続けた。ぴかぴか光る、何もかもを照らし出すような明るさで。辺り一面を、あざやかな色彩で塗り替えていくような雰囲気で。

「あと、これオレの描いた絵! よろしくね、テンテン!」

 青空と向日葵の絵を示して、一成は力強く言う。テンテンってなんだ?とか、この絵描いた本人だったのか、とか。あらゆる気持ちが押し寄せて、天馬はただまじまじと一成を見つめた。