夏と神様 05話
少し用事がある、と言って井川は部屋を出た。あちこちに電話を掛けなくてはいけないようで、大学構内にはいるものの、しばらく席を外すという。その間に、一成は絵を描くことにした。
「それじゃ、テンテンのこと描いていい?」
「別に構わないが、みよ……一成は風景画の方が得意そうなイメージだな」
「結構人物も描くよん。一応題材の一つに美人画とかあるしね~」
のんびり言いながら、いつでも持っているスケッチブックを開いた。鉛筆を握りつつ笑みが浮かんでしまうのは、天馬がちゃんと「一成」と呼んでくれるからだ。
道具を取り出して絵を描き始めようか、という段になって一成は「名前で呼んでくんね?」と天馬に言った。敬語からタメ語にはしてくれたものの、呼び方は「三好」である。一成は比較的名前で呼ばれることが多いし、せっかくなら天馬にもそうしてほしかった。名前呼びの方が、距離が縮まるように思えたのだ。
天馬は「三好は年上だろ」と遠慮していたものの、「年上本人がいいって言ってるじゃん!」と押し切ったら折れてくれた。「名前で呼ぶのが嫌ならいいよ」と言ったら、「別に嫌じゃない」と言質を取ったのも効果があったのかもしれない。
何だかちょっと照れくさそうではあるものの、「一成」と口にする天馬に嫌がっている素振りはない。テンテンという呼び名自体も、不思議そうな顔はしたものの受け入れてくれているし、一成はうきうきとした気持ちでスケッチブックに向かっている。
「まずは構図決めるんだけど、テンテンどこから見てもかっこいいからな~。描きたいとこいっぱいで困んね」
どの角度がいいか、と天馬を眺めながら一成は言う。天馬はまんざらでもなさそうで「そうか」なんて答えるので、一成の唇は自然とほころんだ。
あれこれと天馬をスケッチしてみて、結局横顔を描くことにした。真正面はメディアでさんざん見ているし、横顔が印象的だったということも大きい。自分の絵を見つめていた天馬の横顔を、一成はずっと覚えているだろうと予感している。
「絵を描く時、一成はどんなこと考えてるんだ」
「ガチで集中してる時は、今どの線を引くのが正解かとかこの色を乗せる分量はとか、目の前の絵のことかな~」
真剣な表情で天馬を見つめて、アタリをつけながら一成は答える。ただ、本格的なモデルというわけでもないので、ささやかな雑談をしながらだ。
「でもやっぱり、見てる人のこと考えて描くことが多いかな。見てくれる人の心に少しでも何かが残る絵を描きたいって思う。テンテンもそうじゃない?」
「ああ、そうだな。芝居自体が楽しいっていうものあるが、やっぱり受け取ってくれる人がいてこそだ。ちゃんと届けたい、と思う」
力強い肯定に、一成は「うん」とうなずく。絵画と芝居。一成は今まで、特に演劇に触れたことはないけれど、正反対のまるで違う世界ではないのだろう、と思えた。
「一成は昔から絵が好きなのか?」
「小学生の時美術館行ったことがきっかけ。それからずっと、絵は好きだよん。ただ、美大目指そうって思ったのは高校からなんだけど」
「そうなのか? てっきり、小さい頃から美大目指してたのかと思ったぞ」
「ううん。高校の友達に、オレの本当にやりたいことは何なのかって聞かれて、それをガチで考えたら、オレ絵が描きたいんだなって気づいた感じ」
言いながら思い出すのは、皓望のことだった。
高校へ入ってしばらくして、一成が本音を隠して上辺だけの答えを返していることに気づいた。その過程で、皓望は問いかけた。一成の心の奥底にあるもの。一成が本当に望むもの。やりたいと思うもの。一成の心を取り出して教えてほしい、と言われたことが、きっときっかけだったのだ。
「おかげで画塾も一年生から通えたし、ロミーには感謝してるんだ。あ、ロミーっていうのがその友達なんだよねん。因幡皓望だからロミー」
「……お前は誰にでも妙なあだ名つけるんだな」
「妙じゃなくね!? かわいいじゃん!」
呆れたような口調で言われるので、一成は憤慨した調子で叫ぶ。もっとも、それは心からのものではなく冗談の響きをしている。天馬は当たり前のようにそれを受け取る。
「オレは今まで、テンテンなんて呼ばれたことないからな。妙ではあるだろ」
「え~、でも、天馬だからテンテンとかわかりやすくね? もっとアクロバットな感じがよかった?」
「アクロバットってなんだよ……」
「天馬のウマから取って、ヒヒーン号とか」
「いななくな」
思わず突っ込むと、一成が心底楽しそうに笑うので。つられるようにして、天馬も笑いだす。
二人で交わす会話に心が弾む。発した言葉がちゃんと届く。受け取ってくれると素直に信じられる。初めて会ったとはとうてい思えないくらい、すんなりと全てがなじんでいくのを、二人は肌で感じていた。
まるでずっと前から知っていたみたいな。長い時間を一緒に過ごしたことがあるような、そんな気持ちだった。
「そういえばオレ、ロミーにもウサギっぽいあだ名もいいかなって思ったんだよねん。ロミーってさ、小柄で色白でちょっとウサギっぽいんだよねん。名字も因幡だし」
因幡の白兎からの連想であることは、天馬もわかった。くわえて、どうやら容姿も小動物を思わせるタイプなのだろう。ウサギを連想させてもおかしくない人物で、本人も自覚があるようで、日本画の題材にもよく選んでいるらしい。
「アイコンもウサギだし、落款デザインする時もウサギをモチーフにしてたしねん」
しみじみとした調子で語る一成は、今までの思い出を振り返っている。やさしい目をして、明るい表情で。その様子を見つめる天馬は、思わずといった調子で声をこぼした。
「仲良いんだな」
皓望のことを語る一成は、嬉しそうに唇をほころばせている。二人で過ごした年月を目の当たりにするようで、ほとんど無意識で天馬は言っていた。一成は、ぱちり、と目を瞬かせたあと、笑みを浮かべて答えた。
「まあねん。七年の付き合いだし、ロミー面白いからねん。外見かわいいけど気強いし、ギャップもいろいろあるし。あと、めっちゃ強運の持ち主とか、エピソードいろいろある系」
楽しそうな一成は、「クジ引きとか抽選系最強だし、ジャンケンとかも負けたとこ見たことないんだよねん」と続ける。それを聞く天馬は「一体どんな人間なんだ」と思ったのだけれど。強運の持ち主、という言葉に思い浮かべる顔があって、反射的に答えていた。
「燦飛もやたら運が強いな」
天馬の身の回りで最も強運な人間、といえば燦飛だった。一成がその言葉に「燦飛って、八高燦飛?」と尋ねれば、天馬は「知ってたのか」と答えるので。
「八高燦飛知らない人探す方がむずくね!?」
一成は思わず叫んだ。八高燦飛は、天馬と同じく売れっ子俳優として名高い存在である。子役時代から有名だし、近年では大ヒットしたドラマには必ずといっていいほど名を連ねている。
幻想的な雰囲気の連続ドラマで、主人公を惑わすカラスの化身を演じた際は、カラスをモチーフにしたグッズが飛ぶように売れて、社会現象になったくらいである。
十年以上一切のマスメディアを遮断した生活でもしない限り、存在を知らないでいることは不可能だろう。
そんな燦飛が強運の持ち主である、というのは一成にもうなずける話だった。作品のヒットには運の要素もからむということもあるし、テレビで見かけた姿に思うこともあった。
「確かに……バラエティーのクジ系とかって、大体いつもいいの引いてる気がする」
「おかげで最近は、クジとか運の要素がからむもののオファーがないらしい」
オチが見えていてはつまらない、というわけで最近燦飛はそういうバラエティーに出演していない。ならオレにオファーすればいいだろ、とは言っているものの、燦飛は「天馬のイメージじゃないからね」と言うし、事務所も同じ方針らしかった。
「事務所関係でビンゴとかやっても、いつもイチ抜けするんだよなあいつ。当たり付きの自販機で何回も当たりが出た時は、自販機が壊れたかと思った」
「待って、それロミーもやってた。何かもう途中から、当たりつきなら二本出る前提だったもん」
「燦飛もそうだな。オレの分と自分の二本換算だった」
「そそ。ロミーもいつもカズの分だよ~ってくれる」
互いの知っている強運エピソードを披露すれば、似たような経験が返ってくる。まさかそんなところで共通点があると思っていなかったので、二人は顔を見合わせて笑った。
何でもない話だ。ちょっとした雑談で、大した意味があるわけではない。それなのに、ささやかな話をしているだけで、笑顔がこぼれていく。こんな風に過ごしてきた時間があったんじゃないか、と錯覚してしまうくらい。二人でいることが、同じ時間を過ごしていることが、とても自然だった。
「――てかさ、テンテンも描いてみる?」
会話しながら鉛筆を動かしていた一成は、手を止めて尋ねた。スケッチブックには天馬の姿が写し取られている途中だけれど。そもそも、日本画を描く役なのだから天馬も実際に描いてみた方がいいのではないか、と思ったのだ。天馬は少しだけ考えたあと、ゆっくり答える。
「そうだな。何回か時間も取ってもらうし、実際に描いてみたいとは思う。ただ、日本画なんて描いたことないぞ」
「だいじょぶ、だいじょぶ! 普通の絵とあんま変わんないし! 使う道具とか手順が違うとかはあるけど、ばっちしオレが教えてあげるかんね!」
嬉々とした表情で一成は答えて、大いに胸を叩いた。天馬が乗り気でいてくれることが嬉しかったし、天馬が絵を好きになってくれたらいいな、という気持ちもあって胸が弾む。わくわくとした雰囲気は天馬にも充分伝わった。
「楽しそうだな」
「テンテンと絵描けるとかめっちゃテンアゲっしょ!」
心からの言葉を返して、「そんじゃ、こっちのテンテンも完成させちゃうよん」と再びスケッチブックに向かった。天馬の横顔。すっと通った鼻筋や強い意志を宿す瞳。鉛筆一本だけでもしっかり特徴をとらえて、生き生きとした横顔が描かれていく。
真剣なまなざしを一心に受ける天馬は、何だかくすぐったい。
一成は明るい笑顔がよく似合う。本人の性格に端を発するもので、一成の言動も周囲に光を連れてくるようなまぶしさがある。ただ、絵を描く時の表情はそれまでと違って、静けさをまとう。にぎやかな空気は影を潜めて、ただしんとした静謐さを宿すのだ。
天馬は不思議と、意外だと思わなかった。一成の真剣な表情を、密やかな静けさをずっと前から知っているような気持ちで受け取ったし、それが自分に向けられていることが嬉しかった。
こんな風に描くんだな、と天馬は噛みしめる。この空気を、表情を、まなざしを、全て自分に取り込んで演技で返すのだ。一成からそそがれるものに自分なりの答えを返すなら、芝居以外にないのだから。
いい演技をしよう、と決意を固めた天馬が役作りについてあれこれ考えていると、ふっと空気がゆるんだ。一成が鉛筆を置いたのだ。
「じゃーん、完成! ねね、テンテンめっちゃカッコよくね!?」
ハイテンションで一成はスケッチブックを掲げる。そこには精緻な筆さばきで、天馬の姿が描かれている。にぎやかな一成の様子とは不釣り合いとも言えるほど写実的だ。ただ、単純に写真のようだ、とうわけではなかった。
真っ直ぐと前を向く天馬の横顔。その瞳はひたと前を見据えていて、宿す雰囲気は凛としている。何もかもをきちんと見つめようと、決意するような。はるか先の未来を見据えるような、そんな目をしていた。
一成の目にオレはこんな風に映るのか、と天馬は思った。それは何だか面映ゆくて、同じくらいに背筋を正すような気持ちになる。
ただ真っ直ぐと未来を見つめる。そんな人間だと一成は思ってくれていたのだ、という事実が目前に示されている。一成の描いた絵。その目に映る自分自身を、天馬はことさら強く意識する。
「オレ的にはよく描けたと思うんだけど、テンテン的にはどう?」
「――ああ、よく描けてると思う。さすが一成だな」
「ベリサン~!」
天馬の言葉に、一成は頬を紅潮させて礼を言う。きらきらした輝き。頬に差す色のあざやかさ。ああ、こういうものを芝居にできたら、と天馬は思う。今この瞬間の何もかもを芝居に乗せて演じたい。心の動きも美しいものも、すべて。
衝動のような気持ちで思うものの、まさかここで芝居を始めるわけにはいかない。劇団ならばいざ知らず、一成は単なる一般人だ。いきなり芝居の相手をさせることはできないだろう。残念だな、とは思うものの仕方ない。一成は今までずっと、絵の道に専念してきたのだから。
「そういえば、いがっち遅くね?」
この絵はテンテンにプレゼントするねん、と言ってスケッチブックを一枚破った一成は、ふとした様子でそう言った。天馬は絵を受け取ってから、「ああ」とうなずいた。
「長引いてるって連絡が入ってたな。――というか、もうこんな時間か」
折り目をつけたくなくて、もらった絵を慎重にノートへ挟む。何の気なしに時計へ目をやれば、ずいぶん時間が経っていた。
同時に、次の予定のことも頭に浮かぶ。役作りのためにしっかり時間を取っているとはいえ、全ての時間をあてられるわけではない。夜には収録番組の打ち合わせが入っており、そろそろ大学を出る必要がある。
スマートフォンを確認すれば、井川からもその旨の連絡があった。そろそろ部屋に戻るという。
一連の動作で、一成はおおよそのことを察したのだろう。勘のいい人間だ。「そろそろお開きの感じ?」と軽やかに尋ねる。
「そうだな。悪いが、次の予定が入ってる」
「全然! むしろ、今日とかよく時間取れたよね的な?」
「ああ。あんまりない機会だからな。ちゃんと時間を作ってもらうようにした。そうしてよかった」
心からの感嘆が形になったような声だった。美大に通う日本画専攻の学生、という意味で役に立つ話を多く聞けたということもある。生き生きとした役を演じるため、確かな力になるだろう。
ただ、それ以上に天馬は思っている。今日の時間は、単なる役作り以上の意味を持っている。
絵を見たこと、絵の話をしたこと。芝居や演技、役作りについて尋ねられて答えた。何でもない話で盛り上がって、お互いの言葉を受け取りあった。居心地がよかった。互いの距離を測りあうような必要もない。
初めて会ったとは思えないくらい、ともに過ごす時間が自然だった。このままいくらでも、話をしていたかったし、それは一成も同じだと疑いなく思えた。
「うん。オレもテンテンの役に立てたらめちゃくちゃ嬉しい」
天馬の言葉を受けて、一成はばっと明るい笑みで答えた。それから、心からの思いが形になったようなやわらかな表情で続ける。
「それに、テンテンといっぱい話できたのも嬉しい」
ぴかぴかとした明るさではなく、包み込むような光をまとって、一成は言う。最初の印象とはまるで違った表情だけれど、これが一成の心からの言葉だと天馬は理解していた。
心の奥のやわらかな場所。そこからやってきた気持ちを、一成は隠すことなく天馬に伝えてくれるのだ。
「聞きたいこととか気になることあったら、いつでも言ってねん! ついでにちょっと話できたら嬉しいかも!」
一転して力強く言った一成は、わくわくとした様子で告げる。次回の日程も決まってはいるけれど、その間に何か知りたいことがあればいつでも聞いてほしかったのだ。
「あ、でも、いがっち経由でそんな話してたら迷惑だよねん」
天馬と話がしたいとは思ったけれど、やり取りはあくまで井川とのものなのだ。ちょっとした雑談程度なら付き合ってくれるかもしれないけれど、井川も忙しい。伝言ゲームをさせるわけにはいかないだろう、と一成はしょんぼりとした空気を流す。
その様子に、天馬は一瞬不思議そうな表情を浮かべる。しかし、すぐに何てことのない調子で言った。
「オレに直接連絡すればいいだろ」
プライベート用のスマートフォンを操作して、LIME画面を起動させる。ただ、連絡先の交換方法がよくわからなくて戸惑っていた。一成はそんな天馬に、「コード読み込めばできるよん」と声を掛けてから、おずおずと問いかけた。
「てか、オレに教えていいの? テンテンと直でコンタクトできる連絡先とか、めっちゃレアだよ」
「誰彼構わず教える趣味はないが、一成なら平気だろ」
あっさり言った天馬は、コード画面を表示させて一成に向けた。それから、心配そうな一成にイタズラっぽい表情で尋ねる。
「それとも、悪用する予定でもあるのか?」
「あるわけないっしょ! テンテンの連絡先とか死守するし!」
勢いよく首を振って訴える。悪用なんてもってのほかだ。むしろ、他に連絡先が渡らないよう、情報漏洩にはより注意しなくては、と気合いが入る。天馬は一成の答えに「だろ」と楽しそうに笑った。
そう言われてしまえば、一成に断る理由はない。連絡先を教えてもらうこと自体は嬉しいのだ。一成はいそいそと自分のスマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。
天馬の名前と盆栽写真のアイコンが追加されれば、一成はきらきらと表情を輝かせた。自分のスマートフォンに天馬の連絡先がある、という事実に気分が高揚する。
「ベリサン! テンテンのアイコンあるの、マジでテンアゲ! オレめっちゃ連絡しちゃうかも!」
もともと、一成はマメにメッセージを送る人間である。制作中など集中する時はこの限りではないものの、それ以外なら思いついた時にすぐメッセージを送っている。今までの話から、一成がそういうタイプであることは天馬も予想がついていた。
いつもの天馬であれば、そう頻繁にメッセージを送られても返信に困るだろうな、と判断していた。忙しい人間だし、マメにメッセージを送るようなタイプでもないのだ。だから、「ほどほどにしろよ」とても答えればいいのだとわかっていたのだけれど。
「いくらでもしていいぞ」
するりと口から出たのはそんな言葉で、天馬は自分自身に苦笑するしかない。
一成と話をするのが楽しかった。何でもない話も、ささやかな雑談も、何もかもが心を満たす。もっとこんな時間を過ごしたくて、別れてしまうのが惜しかった。だから、自分らしくない、心からの本音を返した。
一成は天馬の言葉に、大きな目をぱちぱちと瞬かせる。びっくりしたような表情で天馬を見つめてから、ゆっくり口を開く。
冗談めかした言葉だったから、天馬もあくまで軽口で答えたのだと判断することもできた。しかし、これは天馬の限りない本音であると、一成もすとんと理解していたので。
「それじゃオレ、テンテンにいっぱい連絡するよ」
軽口でも冗談でもない、単なる事実を告げる口調だった。天馬はそれをしかと受け取って、「ああ、そうしてくれ」と返した。