夏と神様 15話
勝手知ったるといった素振りで、燦飛がリビングに入ってくる。台本を読んでいた天馬は顔を上げて、「悪いな」と言った。手に持っているのは、天馬の分も含めた夕食だとわかっていたので。
スケジュールの合間を縫って、燦飛が天馬の家を訪れることはよくあった。合鍵も持っているししょっちゅう来訪するので、ほとんど家族の一員のようなものだ。こうして夕食を調達してくるのもいつものことである。
名前の知られた料亭の弁当だと言って、燦飛はキッチンへと向かう。すっかり慣れた場所なので、どこに何があるかは把握していた。夕食の用意をしようと、食器棚を開けると天馬が近づいてくる。手伝うつもりだ、ということを察して燦飛は口を開いた。
「任せてくれていいのに。もうすぐ白澤監督のオーディションもある。役作りが必要だって言ってただろう」
袋から弁当を取り出しながら、燦飛は告げる。この前の食事会から少しして、正式に白澤監督からオーディションの案内があった。実施時期はまだ先だけれど、いくら時間を掛けても悪いことはない。
「伝奇要素のある話で、ホラー展開もあるんだ。いろいろ慣れておかないとだめだろう。天馬は怖がりなんだから」
「別に怖くない! ただ、好きで見たりしないだけだ!」
燦飛の言葉に、心外だ、とでも言いたげに反論するけれど。「本当かなぁ」と肩をすくめるのは、今までの天馬を見てきたからだ。
お化けやら幽霊やら、怪談などのオカルト系番組に出演する際は相当の気合いを必要としているし、収録後はしばらく小さな音にもびくびく反応している。怖いものが苦手だということは充分わかっている。
だからこそ、白澤監督のオーディションに向けてしっかり時間を掛けて取り組む必要がある、と燦飛は思っている。
「――天馬はいろいろ無防備だから、ロケ先とかでも心配だよ」
「子供扱いするなって言ってるだろ」
ふてくされた表情を浮かべる天馬だけれど、怖がり以外に方向音痴も発揮する人間である。くわえて、芸能人としての生活が当然だったので一般的な常識と若干の隔たりがあることも否めない。非常識ではないものの、予想外の行動を起こしかねないのだ。
それは決して天馬の欠点ではないし、魅力の一つでもあると思ってはいるのだけれど。燦飛は心から、といった調子で口を開く。
「今度の映画も、地方での因習を知らずにタブーを犯したのがきっかけで事件に巻き込まれるだろう。ロケ先でうっかり、何かやらかさないかって心配なんだよ」
都会のロケならまだいい。天馬の生活スタイルとしては慣れたものだから、そこまで突拍子もないことはしないだろう。ただ、地方の山奥などはいろいろな意味で心配だった。もしも白澤監督のオーディションに合格すれば、赴くはずのロケ先である。
「そこまで心配することないだろ。確かに気をつけることは多いだろうが……」
天馬とて、地方ロケが初めてではないのだ。都会の感覚で自然に踏み入るなとか、人間はあくまで添え物、主役は自然の方だとかさんざん言われている。
夜になるとまったく明かりがなくなって真の暗闇を経験したこともあるし、一番近い商店は車でなければ辿り着かない、なんてこともあった。だから、燦飛がそこまで心配しなくていいはずだ、と言ったのだけれど。
「でも、天馬は地方の風俗まで詳しくないだろう? 知らずにうっかり破ったりしたら心配だなって話だよ」
淡々とした調子で言った燦飛は、そのままの口調で続けた。地方に伝わる奇妙な風俗。
ひっそりと受け継がれてきた独自のしきたり。
たとえば、夜十時以降は外に出る時、白い布を持たなければいけない。たとえば、川を渡る時に口にしてはいけない言葉がある。
一体どこで聞いたのか。燦飛の作り話だと言うこともできたのに、やけに説得力があって天馬はごくりとつばを飲む。
燦飛は妙なことにも詳しいので、どこからかこんな話を聞きつけていても不思議はなかった。何より、静かでありながら落ち着いた声に冗談の響きはまるでない。単なる事実を口にしているのだ、と思わせる力があった。
天馬が真剣な面差しで聞いていることを察したのだろう。燦飛は一旦口を閉じる。一つ呼吸をして、それから、と続けた。
犯してはならないタブー。破ってはならない決まり事。
「――さびれた神社に手を合わせてはいけない」
強い響きの言葉に、天馬は目をまたたかせる。言葉の意味はわかるけれど、どうして、と思ったのだ。神社を粗末に扱うのがもってのほかだということはわかる。しかし、手を合わせるのはむしろ丁重な行いであって、歓迎されるべきじゃないか、と思ったのだ。
燦飛は天馬の考えを察して、説明を加える。さびれた神社に手を合わせてはいけない。その理由。
「信仰を失った神様ほど厄介なものはないんだよ、天馬」
きっぱりと言った燦飛は、淡々と言葉を続ける。さびれた神社だ。祀られた神も一緒に朽ちてしまうならいい。問題は、かろうじて神としての欠片が残っている場合だ。
「神様なんて、人間の信仰がなければ存在できない。だからずっと、誰かに手を合わせてほしいと願っている。最初に祀られた時のように、神様として祈りを捧げてほしい。願いの対象にしてほしい。そう思った神様の前に、手を合わせる誰かが現れたらどうなると思う?」
金色の瞳は、真っ直ぐ天馬を射抜いた。ゆらゆらと揺らめいて不思議に光る。見つめ返す天馬は、燦飛の言葉を反すうする。信仰を渇望する神様。誰かに手を合わせてほしいと願っている。目の前に、願い通りの誰かが現れたなら?
燦飛は目を細めると、低く静かな声で言った。真剣な表情で、いっそ鬼気迫る調子で。
「執着するに決まってるだろう。手放したくないと、もう二度といなくならないように捕まえておこうとするんだよ」
天馬の言った通り、手を合わせる行為は神様にとって歓迎されるべき対象だ。だからこそ、うかつに手を合わせてはいけないと燦飛は言う。
さびれた神社にいるのは、信仰に飢えた神様だ。ずっと願っていた。ずっとずっと待っていた。ようやく現れた、手を合わせてくれるひと。もう二度と離すまいと、全身全霊の力を傾けるのだ。神様の力で。人知を超えた、超常的な力を使って。
その意味を、天馬は理解している。創作の世界で、天馬は何度も経験してきたから知っている。
きっとそれは間違いなく神様からの寵愛の証で、もしかしたら祝福と呼んでいいのかもしれない。しかし、人間にとって同じ意味を持っているとは限らない。人間には理解できない理論で行使される力は、必ずしも幸いを意味しないのだ。
創作の世界における神様の寵愛は、時に人を傷つける。神様と人間ではどうしたって理屈が違うからこそ、結果として悲劇を招くことが多々あった。燦飛が言いたいのは、きっとそういうことなのだと天馬は察している。
渇望した信仰を与えてくれるひと。決して手放すまいと執着して、神様が力を発揮したなら、待っているのは絶望的な未来かもしれない。だからこそ、うかつに手を合わせてはいけないと燦飛は言うのだ。
あまりにも真剣な顔に、天馬は息を飲んで燦飛の言葉を聞いていた。いっそ恐れるような雰囲気を察したからだろうか。燦飛は、ぱっと表情を切り替える。
「――なんてね。まあでも、真偽のほどは置いておいて、そういうところは危ない動物とかいるかもしれないからね。近づかない方がいいよ」
続く言葉は、冗談めいた響きをしている。あくまで通常の注意といった素振りで、さっきまでの話なんてまるでなかったような雰囲気だ。
そのままの調子で「さて、夕食の準備をしないと遅くなるね」なんて言って、食器を取り出し始めてしまうので。天馬もくわわっている内に、話はうやむやになっていった。