夏と神様 17話
「お前がやりたいと思ったことなら、いくらだってやってみればいいだろ」
きちんと背中を押してやりたくて、天馬は言葉を続けた。
一成が好奇心旺盛な人間であることは、今までの言動からよくわかっている。いろいろな方向にアンテナを張っているのは、絵を描くためという意味もあるのだろうけれど、単純に一成の性質によるものだろう。
楽しいことや美しいものを見つけるのが得意な人間だ。笑顔の種をあちこちから拾ってきて、大きな花を咲かせてやれる。そんな一成が、あらゆることに興味を示して「やってみたい」と思ったとして、何の不思議があるだろう。
そういう一成の性質を天馬は大事にしたかった。芽生えた気持ちを抑圧することなく、ただ素直に手を伸ばしてほしかった。
「一成がどれだけ好奇心旺盛なのかは、よくわかってる。オレの言ったことがきっかけでも、そこからイベントに発展していくのは、一成がいろんなことに興味を持ってるからだ」
一成は天馬の言葉をヒントに、楽しいイベントへと変えていった。様々なアイデアを出して「こうしたらどう?」なんて言ってくれるのは、ひとえに一成が多方面にアンテナを張っているからだ。身の回りのあらゆることに好奇心を発生させるから、ぽんぽんとアイデアが形になっていく。
「そのおかげでいろんな体験ができたのも嬉しかったし、助けられた」
だから胸を張っていればいいのだ、と天馬は思う。
絵以外の道を歩いたって、裏切りなんかじゃない。絵を描くことを蔑ろにしたわけではなく、心が弾む瞬間をいくつも抱えているだけだ。まるで花束でも抱きしめるみたいに。
一成は聡い人間だから、それくらいきっと理解している。それでもやさしさから尻込みしてしまうなら背中を押してやりたかった。だから、天馬は一成のおかげで知っていったことを数え上げる。
「コンビニだって初めて行ったし、見たことない商品がいっぱいあって面白かった。外で何か食べるのも、気軽に声を掛けられるのも初めてだった」
単なる役作りのために、天鵞絨美術大学を訪れただけだった。しかし、一成と出会ったことで天馬はいくつも新しい体験をしていった。まるで普通の学生みたいに。高校時代まではできなかったことを、一緒に体験するみたいに。
期間限定品にはどんなものがあるかだとか、カラオケで何を歌うかなんて話題でずっと笑っている。大きなスイカを中庭まで運んでスイカ割りを始めて、夏休みの課題だなんて言って手製のドリルをプレゼントされる。ずっと気になっていたかき氷を、二人で食べに行く。
一つ一つ挙げていくのは、ささやかな日常だ。周りから見たら大したことなんかじゃなくて、その内忘れ去ってしまってもおかしくない風景の一つ。だけれどその日常は、天馬にとってたくさんの初めてを連れてきた。
「一成のおかげだ。お前がいなければ、体験できなったことがいくつもある」
天馬は自分のことを慎重な性質だと思っている。芝居に関しては何にでも挑戦するつもりだけれど、それ以外では保守的だ。新しい世界へ飛び込むことにためらいはあるし、そもそも毎日忙しいこともあり、わざわざ何かを始めようと思うことも少なかった。
きっと一人なら、「コンビニに行ったことがないな」と思ったところでわざわざ足を向けない。何かを外で食べるなんて発想もないし、カラオケだって芝居に必要でなければ歌いになんて行かなかっただろう。
しかし、一成はきらきらとした笑顔で天馬の手を引く。やりたいことは全部やってみよう、なんて言って新しい世界の扉を開く。
「ありがとな」
「そんなの――オレがやりたいって思ったからだよ」
感謝を告げれば、一成は困ったように笑って答えた。本当に大したことをしたとは思っていないのだろう。一成が自分の心に従っただけでお礼を言われるようなことではないと。
そういう風に思えるのは一成の長所だし、尊重したい気持ちはもちろんある。ただ、ちゃんと伝えたくて天馬は口を開く。
一成がしたこと。一成がくれたこと。どれだけ天馬の力になって、新しい世界を開かせたか。
「控えめなのは一成のいいところだが、本当に感謝してるんだ。いろいろ挑戦できたから、やってみたいことをあらためて考える機会にもなった」
一成は、そっと打ち明けるように教えてくれた。「本当はデザインとかやってみたい」と。心の奥で望むこと。やってみたいと心が走り出すこと。そういうものを教えてくれた一成には、きちんと言いたかった。きっかけになってくれたことも、天馬の心に芽生えた決意も。
「――コメディに挑戦したいって、思ったんだ」
そう言う天馬の脳裏に浮かぶのは、スイカ割りのワンシーンだ。
バラエティー番組で見たことはあったけれど、実際やるのは初めてだった。スイカやビニールシート、適当な棒や目隠しを用意するのも、いざスイカ割りに挑戦すること自体も、初めての経験でわくわくした。
ただ、天馬の胸を特に弾ませたのは、スイカ割りに端を発するエチュードだった。
中庭で突然スイカ割りを始めるものだから、周囲には人が大勢集まっていた。やんややんやと騒ぎ立て、みんなが天馬の一挙一動を見つめていた。
ただ、天馬にとっては初めての経験ということもあり、上手くスイカを割ることはできなかった。
盛大に割れるだとか、いっそ完全に失敗するのなら、まだオチはついたかもしれない。しかし、中途半端に割れた程度だったので、周囲の人たちもどう反応したらいいのか、と戸惑う雰囲気が流れた。
すると一成は、おどけた空気で「テンテンってば、スイカ相手にもやさし~!」なんて言って天馬を茶化した。スイカ相手にも手加減するなんて紳士的だねん、と続いた言葉は楽しげで、天馬は思わず「紳士はそもそもスイカ割らないだろ」と答える。一成はすぐさま反応して、「ええ、そんなことなくね? むしろ紳士的スイカ割り挑戦してみよ?」と返したのだ。
天馬は茶化すような一成の言葉についつい突っ込むし、それが何だか漫才のようだ。集まった人たちも面白そうにやり取りを眺めているし、周囲の空気は新しいイベントを見守るものに変わっていった。
敏感に察知した一成は「紳士的スイカ割り」というテーマでお芝居が見たい!なんて言い出す。純粋な一成の好奇心ということもあるけれど、天馬の得意分野に話を持って行く気遣いでもあったのだろう。
結局天馬は、今までにないテーマへの興味と、その場の空気感に押されてエチュードを始める。何があっても一成なら楽しんでくれると思えたのも大きかった。
初めてスイカ割りに挑戦する高揚感や、きらきらと降りそそぐ太陽のまぶしさ。集まった人たちの声援、テンポよく返ってくる一成の言葉。今まで演じたことのない新しい役とテーマ。全てがあわさって、天馬の胸を弾ませる。
「オレは恋愛ものやシリアスな役のオファーが多いんだ。オレならこの役がいいって求められるのも嬉しかったんだけどな。今までに挑戦したことがないジャンルをやってみたい、とは思ってたんだ」
そんな中で、偶然が重なって始まったエチュード。それまでの漫才のようなやり取りが下敷きになっていたし、テーマがテーマだ。漂う雰囲気もイベントを楽しもうといったものだったから、求められるのは笑顔になれる芝居だと思った。
まだまだ慣れていないから、きっと拙い演技だったはずだ。それでも、バラエティー番組に出演した経験だとか、アドリブの上手い役者の芝居なら何度だって見てきた。
自分なりに研究もして演技に取り入れてきたから、遺憾なく全てを発揮する。相手を務める一成とは、テンポのいい掛け合いを何度もしてきたおかげで、空気も間もわかっていた。
「スイカ割りの時、エチュードやっただろ。褒められた芝居じゃないとは思う。でも、精一杯やって笑ってくれた。あんな風に、もっと人を楽しませたいって思ったんだ。オレの芝居で、たくさん笑ってほしい」
芝居を通して誰かの心を動かせることは、天馬にとっての喜びだ。もっと高みを目指して、あらゆる感情に働きかける芝居をしたい。その想いは、スイカ割りのエチュードで決定的になった。
今までこんな風に、大きな口を開けて笑う観客はほとんど見たことがない。コメディの芝居ではないから当然だろう。だからこそ、自分の芝居で笑ってくれることが嬉しくて、もっとこの芝居がしたいと思ったのだ。
「オレの役には笑いの要素が少ない、とは薄々思ってたんだよな。ただ、皇天馬のイメージじゃないからって、オファーもあんまり受けてこなかった」
バラエティー番組への出演は、あくまでゲストの立場であり人を笑わせるためのものではない。芝居でもコメディ要素が皆無ではないので、まったく演じたことがないわけではないけれど。
それでも、コメディを主軸とした作品へ出演したことはなかった。事務所としても、皇天馬のイメージに笑いの要素はふさわしくないと判断しているのだろう。
「でも、やっぱりやってみたい。コメディに挑戦してみたいんだ」
恐らく事務所関係者や長い付き合いのある人物は、あまりいい顔をしないかもしれない、とは思った。今まで築いてきた天馬のイメージに、コメディの要素はかけらもないからだ。
ただ、一成の答えはわかっていた。今までの天馬のイメージも一成は理解しているだろう。それでも、これから先のことを思い描いた言葉を口にするなら一成はきっと。
「コメディやってるテンテン、めっちゃ見たい!」
きらきらと顔を輝かせて、一成はテンション高く答える。天馬は思わず唇をほころばせた。
一成ならそう言うと思ったのだ。もしかしたらそれは、一成が天馬へ告げたのと同じ意味があるのかもしれない。これまでの積み重ねがないからこそ、まっさらな未来を誰より確信できる相手だからこそ。
「テンテン、素でコメディの素質あるもんね。普通にしてるのが一番面白いっていうか」
「どういう意味だよ」
「あ、自覚ない感じ? そゆとこだよね~」
茶化した言葉で軽口を叩き合う。テンポのいいやり取りに二人は顔を見合わせてから、笑い声を弾けさせた。
「まあ、いきなりコメディがやりたいって言ったところで、すぐ仕事に結びつくかはわからないが――コメディドラマも出てみたいし、コメディ劇にも挑戦してみたい」
「いいね! テンテン、その場の返しが面白いもん。アドリブ向いてるよねん」
「一成の返しが上手いのもあると思うが。お前は、どういうデザインがやりたいとかあるのか」
「オレ? オレは装丁とかもやってみたいし、フライヤーとかも作ってみたい! 文字情報の置き方一つで全然見え方変わるよねん!」
やってみたいことを、二人はあれこれ口にする。
アドリブ満載のコメディを演じてみたい。作品の持つ世界を表現するフライヤーを作ってみたい。バラエティー番組だってもっと積極的に出たい。Webデザインにも興味あるから、サイトも作ってみたい。
一つ一つを言葉にすれば、その分だけ未来が広がっていくように思えた。見たいものが、つかみたいものが、どんどん形になって確かな姿を描き始める。心の奥であたためていただけの物語が動き出すように、単なる夢物語から叶える目標へと変わっていく。
「オレめっちゃ応援するし! できることあったら何でも言ってねん! 漫才付き合おっか!?」
「漫才の自覚あったんだな……まあ、確かに一成とのやり取りは勉強にもなる」
「でしょ~!? もしテンテンがスランプになったら、オレが漫才して勘を取り戻してあげんね」
「なんでスランプ前提なんだ」
苦笑を浮かべた天馬は、「他にももっと協力するところあるだろ」と言うけれど。同時に何だか納得する気持ちも芽生えていた。
「まあ、お前がスランプになった時はオレがモデルになってやってもいいぞ」
「マ!? テンテン描いてたら、確かにテンアゲになりそう!」
楽しそうに笑った一成は、「いざって時はお願いしようかな~」と軽やかだ。天馬は力強くうなずいて、一成はいっそうまばゆい笑みを浮かべる。このやり取りの意味を、二人はしかと理解していた。言葉にする必要はない。ただ素直に受け取り合っていると信じられた。
これから先の未来を描いた。叶えたい現実を、辿り着きたい場所を口にして分かち合った。
その道は決して簡単ではないから、立ち止まってしまう日は来るだろう。近くにそっと寄り添って、やさしい言葉を掛ける場面もきっと必要だ。だけれど、お互いの取る行動は一つだった。だって、たった一つを確信している。
もしもきみが立ち止まったなら手を引こう。オレが立ち止まったなら、きみは手を引いてくれる。
そういう風に行動するのだと、天馬も一成も理解していた。はっきりと言葉にしたわけではないし、約束を交わしたわけでもない。それでもきっと、お互いがお互いの力になる。
やってみたいことがあると口にした時みたいに。ためらいや戸惑いがあっても、恐怖や不安で立ち止まってしても。目指す未来を知っている。辿り着きたい場所を知っている。誰より強く肯定して、あそこまで行くんだと言ってくれる人がいる。それら全てが、進むための力になるのだ。
言葉はなくてもわかっていた。二人がそろっていれば、思い描く未来は明るいのだと疑いなく思えた。だって何があっても、どんなことがあっても、互いが互いの力になるというなら。どこまでだって未来に向かって歩いていける。
「こういうこと話してると絵描きたくなるんだよねん。デザイン画も描きたいし!」
「ああ、確かに芝居したくなるな」
うきうきした調子で言った一成の言葉に、天馬も同意を返す。胸が弾む瞬間、自然と心が求めるもの。それがきっと未来の先まで自分が選んでいくことなのだろう。
「テンテンのお芝居見たいな~。今度出るのって美大ドラマ? 他のもある系?」
「いや、舞台はしばらくないから次はドラマだな。明日からクランクインだ」
「マ!? めっちゃ応援してる!」
「ありがとな。一成こそ、展示会とかはないのか」
「展示会はないけど、ちょこちょこ頼まれてることはあるかな~」
本格的に絵を売り出しているわけではないものの、一成の絵は評判が高い。卒業後に名前を売るための布石としても、求めに応じて作品を仕上げることがあるらしい。
なるほど、と天馬はうなずいてから、ふと気になって「忙しくはないのか」と尋ねる。一成は楽しそうに笑った。
「テンテンほどじゃないよん。それに、楽しいことは先に取ってあるからご褒美にして頑張れるし。テンテンのドラマも楽しみだし、週末パーティーもあるし」
そういえばもうすぐだな~とのんびり言う一成は、ときどきイベントの類に出席している。絵画系のイベントがほとんどなので、今回もそうなのだろうと思った。
「美術系でもパーティーとかあるのはちょっと不思議だよな。授賞式のあととかなら話は聞くが、そういうのじゃないだろ」
「みんなで絵を楽しもう的なやつだねん。まあ、週末のはただの飲み会みたい感じだけど。オレの誕生日パーティー兼ねてるから」
「――は!?」
さらりと言われたので流しそうになったものの、言葉の意味を理解した瞬間天馬は叫ぶ。
誕生日? 待て、今誰の誕生日って言った?
「お前、誕生日なのか」
「正確に言うと一昨日だけどねん」
二十二歳になりました~!と、ブイサインを示した一成は明るく言った。一昨日。今日は八月三日だから、つまり八月一日が一成の誕生日だ。忘れないように何度も心の中で繰り返していると、一成は「みんな集まってお祝いしてくれるの嬉しいよねん」とにこにこしている。
その言葉に、天馬は反射で思う。オレだって、できるなら週末のパーティーとやらに参加したい。
一成のことだからうなずいてくれるだろう、とは思ったけれど、いかんせんドラマがクランクインした直後である。とても週末に時間を取れそうになかった。
ひとまず当日、連絡はどうにか入れるとしてもそれだけで終わりにはしたくなかった。誕生日なのだ。めいっぱいお祝いしたいし、何かプレゼントだって贈りたかった。一成にはたくさん世話になったし、初めての経験や感情をたくさんもらった。何かを返したい、と思うのは自然な流れだ。
一成の望むものを贈りたいと天馬は思うけれど、いまいち思いつかない。何だって喜んでくれると思えるから、決定打に欠けるのだ。それならどうすればいいか。一瞬考えた天馬は、すぐに答えを導き出す。
「一成、ほしいものはないか。お前の誕生日だろ。お前に何かしてやりたいんだ。ほしいものとか、オレにできることはないか」
「え! いいって、いいって! テンテンに何かもらいたくてパーティーの話したわけじゃないし!」
「それはわかってる。でも、オレが何かしたいんだよ」
「気持ちだけで充分だけどな~」
「それじゃオレが収まらない。何か言ってくれ」
「んー……それじゃあ、おめでとうって言ってくれればおけまるだよん」
「そんなの最初から言うつもりだからだめだ。他に言え」
「ええ~……」
天馬の答えに、一成は困ったように眉を下げる。
「どうしよう」と思っていることはよくわかったものの、嫌がっているだとか迷惑がっているわけではない。天馬に何かをしてもらうことが心苦しくて遠慮しているだけだ。
「オレが一成に何かしてやりたいんだ。迷惑だなんて思うな。むしろ、オレのためになると思ってろ」
傲然とも言える言葉だけれど、一成にはこれくらい強く出た方がいいのだと天馬は理解していた。何かを望むことが負担になるのではないかと一成が心配しているなら、それは違うと言い切ればいい。むしろ、一成の望みを叶えることは天馬のためなのだ。
一成は天馬の言葉に、戸惑うように視線をさまよわせる。ただ、それは「言ってもいいのかな」というためらいだ。何も思いつかないわけではなく、望んでいることがある。口にしてもいいのか、天馬に告げてもいいのか、と逡巡している。だからこそ。
「何でも聞かせてくれ。一成に何かしてやりたい」
背中を押す意味できっぱり言った。声の真剣さを、天馬が心から言っていることを理解できない一成ではない。深呼吸をしたあと、おずおずと口を開く。
「――もしもテンテンがいいなら、オレ、テンテンと行きたいところがあるんだ」