夏と神様 19話
走り去っていくバスが遠くに見えた。ぜいぜい、と息を切らした一成は呆然とした調子で「行っちゃった……」とつぶやく。
道の端に申し訳程度に作られたバス停は、ほとんど木々に飲み込まれている。バス停の標識があるおかげでバス停だということはわかるものの、森と一体化しているように見える。とはいえ、運転手からすれば慣れた場所である。乗客がいればちゃんと停まるし、仕事はきちんと果たすのだ。
だから今、去っていくバス停を見送ったのは単純な理由からである。発車時間に間に合わなかったのだ。
「テンテン、めんご~」
眉を下げた一成は両手を合わせて、天馬へ謝罪を向ける。天馬は目をまたたかせてから首を振った。
「一成が謝ることじゃないだろ。オレも時間忘れてたしな……」
追加注文のついでに一成が話しかけてみると、マスターは快く答えてくれた。一成の素直な感想も、天馬のたどたどしい感想も嬉しそうに受け取ってくれた。さらに、話をすることは嫌いではないようで、思いの外話は弾んだ。
一成は話題を広げるのが得意、ということもあるのだろう。マスターが作り上げた世界を受け取って、細かい部分までよく見ているのだ。さらに、一つだって相手を貶めることなどしない。心からの賞賛を送られて、マスターは表情をほころばせていた。
天馬は一成ほど、初対面の相手へ何のてらいもなく接することは難しい。ただ、一成は天馬に疎外感を抱かせないよう努めていたし、的確な質問を投げることも上手い。マスターと天馬の共通点を見つけ出して、話題を広げていく。
その手腕は天馬に持ち得ないスキルだったし、内心で舌を巻いていたほどだ。こいつ、バラエティー番組出てもやっていけそうだよな、なんて半ば本気で思うくらい。
結果として、マスターは映像制作についても研究熱心だということがわかった。
出演者という立場ではあるものの、天馬も映像制作については興味がある。だから、光の当て方だとか影の作り方だとか、映像的な観点でずいぶん話が盛り上がった。帰りの時間を忘れ去るくらい。
バスの本数が少ないことは、来る時点でわかっていた。だから、帰りの時間はちゃんと調べていたのだ。しかし、そんなことすっかり忘れていた。気づいた時には、バスの出発時間はとっくに過ぎていた。
ただ、バスは定刻通りに来るとは限らない。交通事情によっては、まだ来ていない可能性だってある。
そういうわけで、慌ててプラネタリウムを飛び出して全力疾走したものの、バスはすでに去って行ったあとだった。山中の長い一本道を、ゆっくり走っていくバスを二人は見送るしかなかった。
「どうしよ。次のバス夜じゃん……」
天馬の言葉にほっとしたように息を吐き出したあと、一成はつぶやく。バス標識に取りつけられた時刻表を確認したのだ。
天馬は「そういえばそうだったな」と難しい顔でうなずく。本数が少ないことは知っていた。このバスを逃せば、次に来るのは日が沈んで以降なのだ。今からでは三時間以上もある。
「さすがにそこまで待つのはな」
「だよね~。時間つぶせる場所もないし」
答える一成は、周囲をぐるりと見渡す。
視界に入るのは旺盛な木々たちと、木の一本になってしまったようなバス標識。それから真っ直ぐ伸びる、アスファルトの道路が一本。周囲は緑に染められて、ただ蝉の声がじわじわと降ってくる。車すら通らず、時折風が吹いて木々を揺らす音がやけに大きく響いた。
ここにあるのは、どこまでも広がる森ばかりだ。都内であれば、ちょっとした時間つぶしに店へ入ることもできる。映画を一本見るという選択だってできる。カラオケだったら三時間なんてあっという間だろう。しかし、ここにはそんな都合のいいものはなかった。
唯一店らしいものと言えば、さっきまで二人がいたプラネタリウムだ。ただ、慌てて出ていく二人と入れ違うように、次のお客さんが来ていたことは知っている。ちょうど自家用車を止めるところを見ていたのだ。
頼めば時間つぶしにスペースを貸してくれるかもしれない、とは思った。しかし、貸し切り状態で過ごせることも魅力の一つと言えるプラネタリウムだ。
あの場所で特別な時間を過ごせたからこそ、他の誰かの邪魔をしたくないと思った。心行くまで何にわずらわされることもなく、あの空間を楽しんでほしかったのだ。
だから、わざわざ戻るという選択は、あまり上には置いていなかった。いざという時は選ぶとしても、それはほとんど最後の手段だ。
同じことを考えているだろうな、ということはお互いにわかっていた。
しばし顔を見合わせていると、ゆるやかに風が吹き抜ける。夏らしいからりとした風。しかし、山の中だからだろうか。平地で感じるものより、熱はずいぶんやわらいでいる気がした。
「……スポドリはあるんだよねん」
ぽつり、と一成が言った。夏に出掛けるということで、熱中症対策のためのアイテムは二人ともしっかり持っている。プラネタリウムは冷房が効いていたし、飲み物は飲めたからほとんど減ってはいない。一成はファッションで、天馬は変装のため、帽子は常に着用だ。
「……木陰が多いし、直射日光は避けられそうだよな」
真っ直ぐ伸びる道路に目をやり、天馬も答えた。
バスに揺られてここまで来る途中、通った山道を思い出す。うっそうとした木々がトンネルのように空を覆っていた箇所も多い。そうではなくても、山の緑はずいぶん勢いがあり、真夏の太陽を遮っていた。幸い、暑さのピークも過ぎた時間帯だ。山の中ということで、気温も多少は低いだろう。
二人は互いの顔を見つめる。山の中。行ってしまったバス。必要なものなら持っている。もしかしたら、馬鹿な結論なのかもしれない。もっと賢い選択は、いくらだってあるのかもしれない。それでも、導きだした結論は一つだけだ。
「――駅まで歩くか」
真っ直ぐ一成を見つめて、とっくに知っている答え合わせをするように言った。
駅までは車で十分弱といったところだ。二人とも体力がないわけではないし、カフェで充分休養はできた。直射日光が照りつけるわけではないし、道自体は舗装されている。緑の下を歩いていくことは、そこまで無茶な結論ではないはずだ。
「うん! 歩こっか!」
嬉しそうに一成は答えれば、それが合図だ。二人はそろって足を踏み出す。