夏と神様 24話




 楽屋の椅子に座った天馬は、大きく息を吐き出す。
 朝から分刻みのスケジュールで、夕方すぎの今になってようやく椅子に座れた。ドラマの撮影に、舞台のオーディション、コマーシャル撮影にドキュメンタリー撮影の打ち合わせなど、スケジュールは一気に埋まっていた。
 今まで天馬のマネージメントをしていた井川から、マネージャーが変わったことも大きい。
 天馬の仕事に慣れていないこともあり、二度手間が増えたり段取りを上手く取れなかったりといった場面が増えていた。多忙なスケジュールそのものにくわえて、そういった細々とした点でも疲労がたまっていた。
 食事を取る時間もなかったので、何かを腹に入れなくては、と思う。ただあまり食欲はなかった。とりあえず栄養補助食品を口にするものの、特に美味しいとも思わない。単なる栄養摂取以上の意味を見出せなかった。

(――クリームソーダ美味かったな)

 ぼんやり思い出すのは、一成と訪れたプラネタリウム。オレンジのソーダとアイスクリームという組み合わせは初めてだったけれど、悪くはなかった。むしろ、酸味と甘さのバランスがちょうどよくて、もう一度飲みたいと思ったくらいだ。もっともあれは、一成が一緒にいたから、というのも大きな理由になっているのだろう。
 パッケージをゴミ箱に捨てた天馬は、大きく息を吐き出した。次の収録までは、もう少し時間がある。マネージャーは何やら連絡するために部屋を出ているから、楽屋には一人きりだ。多少はゆっくりできるだろう。
 今までの天馬なら、スマートフォンのチェックをしていた場面だ。しかし、今天馬の手元にスマートフォンはなかった。スキャンダルにともなって回収されたまま、まだ戻ってきていないのだ。

(まさか、スマートフォンがなくてこんなにこたえるとは思ってなかったな)

 はあ、と息を吐いた天馬は不思議な気持ちで思っていた。ほんの数ヶ月前の天馬なら、スマートフォンがなくてもそこまで困ることはなかっただろう。せいぜい、燦飛からマメな連絡が来るくらいだし、燦飛本人とは顔を合わせる機会も多い。連絡を取れなくても気にすることはなかった。
 しかし、今は違う。焦燥のような気持ちで、天馬は「連絡がしたい」と思っている。もちろん相手は一人きり。出会って以降、時間を見つけては連絡を取り合っていた一成だ。
 役作りのための美大通いは、ドラマのクランクインにともなって終わりを告げた。もとからその予定だから当然だ。
 ただ、LIMEでのやり取りができない現状では、一成への連絡手段が一切ない。電話番号だって覚えていないから、電話を掛けることもできなかった。スマートフォンのアドレス帳だけではなく、きちんと手帳に控えておくべきだった、と後悔しても遅いのだ。
 せめて、どうにかして連絡が取りたかった。スキャンダルの記事以降、どんな言葉もかけられていないのだ。笑い飛ばしてくれただろうか。アイドルと恋人なんてやるじゃん、なんて思われていないだろうか。あれこれと想像しては、天馬は終始落ち着かない。
 何かメッセージを送りたかった。
 仕事で運営しているSNSやブログに、自分たちにしかわからない話を書き込めば気づいてくれるんじゃないか、と天馬は思った。
 たとえばコンビニアイスの話だとか、かき氷だとかクリームソーダとか。夏休みの宿題やスイカ割り、プラネタリウムの話だっていい。夏らしい話題だから不自然に思われないだろう。至って普通の、何てことない話だと思われる。
 それでも、一成だけは気づいてくれるはずだ。込められたメッセージ。一成と過ごした時間を連想させるものたち。楽しい思い出だと記せば、一成は天馬が気にかけていることを察してくれるだろうと思った。
 一成のことなので、何か事情があるにせよ天馬がちゃんと一成のことを大事にしている、というところまで読み取ってくれるかもしれない。
 そう思って、ブログやSNSを更新したいと申し出た。仕事での運営なので、事務所のスタッフを経由しなくてはならないし、内容も精査される。ただ、当たり障りのない夏の話題だからすんなり許可が出ると思っていた。しかし、予想は覆される。天馬の個人的な投稿は認められていない、とNGを出されたのだ。
 生放送の番組を使うことも一瞬考えたけれど、自分勝手に番組を私物化して、流れを無視した話をすることは言語道断の行為だ。万が一、流れとして不自然でないなら――とは思っていたけれど、そんな場面は一度もなかった。
 連絡が取れないなら、実際に会いにいくしかない。どうにか理由をつけて、美大へ向かうことさえできれば一成には会えるはずだ。夏休み中でもやることがある、ということで大学には来ていると言っていた。
 そう思ったのだけれど、分刻みのスケジュールに余裕があるはずもない。美大へ行く時間なんて、とうてい取れなかった。
 結局、天馬は一成とまったく会えないし、どんなやり取りもできていなかった。声も聞けない。文字だけでもいいから言葉を交わしたい。そう思っているのに、何もできないまま時間だけが過ぎていく。

(一成に会いたい)

 椅子に座った天馬は、噛みしめるように思った。今までの人生、一成のことなんか知らなかった時間の方が長いのに。今では、一成がいない時間のことが思い出せないくらい遠かった。
 楽しそうに笑う顔。きらきらと光る大きな目。何でもない話が楽しかった。ささやかな話題も、一成にかかればとびきりの話になる。心地のいい声で名前を呼んでほしい。会いたい。声が聞きたい。
 好きだと自覚した途端会えなくなったのだ。会いたい気持ちに拍車がかかる。
 近くに行きたい。傍にいたい。名前を呼んでほしい。声が聞きたい。会いたい。呆れるほどの飢餓感は日増しに強くなっていて、どうにかできないか、と天馬は毎日試行錯誤している。楽屋での空き時間も、現状を変える方法について思案を巡らせていた。
 だから、扉が開いてもすぐに反応できなかった。恐らくマネージャーが戻って来たのだろう、とぼんやり判断したのだ。しかし、すぐにはっとした表情を浮かべる。マネージャーにしては小さすぎる人影であることに気づいたのだ。
 視線を向ければ、皓望が立っていた。
 フードのついた、大きな白いパーカーに、白いジーンズ。スニーカーまで真っ白だ。皓望は跳ねるような足取りで、すたすたと近づいてくる。天馬の前まで歩いてくると、笑みを浮かべて言った。

「皇天馬。カズは、もうきみと会いたくないって」
「何を言って――」
「きみと遊んでる暇なんかないんだよ。カズの邪魔をしないで」

 眉を跳ね上げた天馬の言葉など気にせず、皓望は淡々と続ける。嬉しそうに弾んだ声で、天馬への敵対心を奥底に宿して。

「カズはね、海外留学の話が出てるんだ。来年の三月まで、半年海外で絵が学べる。きみとどうでもいいことに時間を割いてる場合じゃないんだよ」

 一成の才能は界隈で高く評価されている。日本画専攻といえど、国内だけに留まる必要はないし、むしろ海外で多くのことを学べば一成の日本画にもより深みが増すだろう。大学の推薦であることから、卒業制作の一環としても認められる手はずになっている。一成の師事する教授はそう言って、ぜひにと勧めたらしい。

「もう用事なんかないでしょ? カズを解放してよ。連絡なんかしてこないで。会いに来ないで」

 天馬との時間は一成にとっての邪魔になるのだ、と皓望は告げる。これから、一成は海外留学のための準備を始める。その前に依頼された仕事はきちんと完成させなくてはならないから、怒涛の忙しさになるのだという。天馬との時間を取っている場合ではない。
 一成が忙しい人間であることは、天馬も充分わかっていた。分刻みのスケジュールというわけではなくても、やるべきことがあまりにも多いのだ。いくつもの作品を並行して仕上げなくてはならない、となれば確かに天馬と時間を過ごす、というのは難しいかもしれない。
 皓望の言葉は間違っていないのだろう。わかっていても、天馬はどうにもうなずけない。皓望の言葉を素直に受け取りたくない、という気持ちもあった。反発心が芽生えているのは確かだ。
 皓望はそれに気づいたのだろうか。大きく息を吐き出すと、やれやれといった風情で首を振った。心底呆れた調子で口を開く。

「やんなっちゃうなぁ。本当にわかってないの? カズは、もうきみに会いたくないんだってば。だから、きみから連絡がなくなってほっとしてるよ。やさしいから、こんなこと言わないけどね」

 物わかりの悪い子供を諭すような口調だ。ただ、納得できるはずがなかった。一成が会いたくないなんて言うはずがない、と思ったのだ。そんなこと信じられるわけがない。出まかせを言っているに違いない、とにらみつける強さで皓望を見据える。
 皓望は顔をしかめてから、ふう、と息を吐いた。苛立つような表情で口を開く。刺々しい声を隠しもしなかった。

「きみ、何だか恋人がいるんでしょ? カズはさ、何にも言ってくれなかったって落ち込んでたよ。きみにとって自分はその程度なんだって。大事なことも教えてもらえない。きみに蔑ろにされてるって」
「違う! そもそも、あれは事実じゃない!」
「それなら、そう言えばいいのに。何にも連絡しなかったでしょ。カズのことはどうでもいい証拠だよ」

 ぴしゃりと言葉を叩きつけられて、天馬は一瞬口ごもる。確かに何も連絡はできなかった。スマートフォンが手元になかったからだ。しかし、もっと別の手段があったのかもしれない。もっとがむしゃらに働きかければ、どうにかなったのかもしれない。
 そう思うと、すぐに反論できなかった。皓望はすかさず言葉を続ける。

「だからね、カズはもうきみに会いたくない。きみの顔なんか、見たくないんだ」

 違う、と言いたかった。そんなことを信じられるか。信じられるわけがないだろう。思うのに、上手く言葉にならない。一成はそんなことを思わないと信じている。だけれど、連絡を取れなかったのは事実で、一成を悲しませてしまったのかもしれない。その可能性が天馬を怯ませる。
 口ごもった天馬に、皓望は笑みを浮かべた。きゅっと目が細くなる。体格が小柄で、外見も子供らしい。それなのに、今相対する皓望は不思議な空気をたたえていた。まるで、長い年月を重ねた生き物のような妙な風格。何もかもを見通すような顔で、絶対的な声音で告げる。

「きみとカズは、別々に生きることが正しい」

 きっぱり言うと、皓望はきびすを返した。どうやらこのまま出ていこうとしているらしい、と察して天馬はむりやり声を押し出した。何も言えないまま、帰してやるものかと思ったのだ。

「待て。いきなりそんなこと言われて、うなずけるわけないだろ」

 一声発すれば、続いて言葉は形になった。そうだ。別々に生きることが正しいなんて、そんな言葉認められるわけがない。これから先の未来を思い描いた時、一緒にいてほしい人なのだ。自分たちの関係が間違っているなんてこと、認めてたまるか。
 湧き上がる気持ちで、皓望へ強い視線を向ける。にらみつけるように、真っ直ぐ皓望の瞳を見つめる。金色の瞳をとらえた瞬間、天馬の胸を違和感が貫いた。何かがおかしい、と思う。一体何が? 頭をさらった天馬の唇から、声こぼれた。

「――お前、どうやってここに入ったんだ」

 ほとんど無意識の言葉だったけれど、よく考える必要はなかった。ここはテレビ局の楽屋だ。皓望がいるなんて、どう考えてもおかしかった。
 テレビ局の楽屋までは、何重もの警備をくぐりぬけなくてはならない。芸能人目当ての人間があとを絶たないから、相当厳しく警戒しているのだ。関係者ならまだしも、一般人である皓望が入ることは難しい。
 くわえて、天馬は芸能人の中でもトップクラスの扱いを受けている。簡単に入れないよう、楽屋の中でもさらに厳重な警備が敷かれている。

「誰か知り合いがいるとか、関係者につながってるとか、そういう話も聞いたことがない。お前がここにいるなんておかしいんだ」

 強い口調でそう言えば、皓望は目をまたたかせた。それから、すぐにおかしそうに笑いだす。天馬を馬鹿にする意図は一切ない、純粋な笑顔だった。

「そうだね。知り合いなんてだぁれもいない。だけど、僕はここまで来られる。僕を咎める人はいない。僕の言うことはみんな聞くんだ。現にきみだって、僕がここにいること今までおかしいって思わなかったでしょ?」

 そう言った皓望は、きゅっと目を細める。三日月形の瞳が妖しく光り、天馬の心臓がどくどくと早鐘を打つ。何かがおかしい、と訴える違和感が全身を巡る。
 だって確かに変なのだ。おかしい、と思ったのはたった今だけれど、本来なら皓望が登場した時点で反応するべきだ。いくら一成の友人だからと言って、事前に約束をしていたわけではないのだから、どうしてここにいるのかと思うのが当然だった。それなのに、天馬は今の今まで何一つ違和感を覚えなかった。
 何かがおかしい、と思った。本来なら辿るべき思考回路が働かなかった。いつもの自分と違う反応をした。まるで、知らない内に別方向へ誘導されているような。まるで何かに操られて、思うがまま動かされているような。そんな感覚に、天馬はぐっと唇を噛んだ。
 今まで天馬はどんな時だって自分を律して、コントロールして結果を出してきた。皇天馬という身一つで勝負してきたのだ。それが、たった今侵害されたのだと思った。皇天馬に勝手に踏み入って、思い通りに操るなんて。そんなものは、皇天馬に対する侮辱でしかない。
 燃え立つ瞳で、天馬は皓望をにらみつける。理論も理屈もわからない。何かが変でおかしいことはわかっている。ただ、それを許してやるものかという意志だけは揺るぎなかった。
 天馬の視線を受け止めた皓望は、ふっと唇の端で笑った。同時に、光る金色がすうっと落ち着く。皓望は肩をすくめると、呆れたように口を開く。

「僕にとっては、こんなの簡単なことだもん。教えてあげる義理はないけどね」

 それだけ言うと、すたすた扉へ歩いていく。このままいなくなるつもりだ、と察して天馬はがたりと席を立つ。皓望はもちろん気にすることなく、楽屋を出て行った。言いっぱなしにされたままにできるものか、と天馬もあとを追い、扉を勢いよく開いた。

「待て、お前――」

 背中に向かって投げつけたはずの言葉は、しかし途中で消える。楽屋の前の廊下。左右に真っ直ぐ伸びて、どこまでも見通しがいい。しかし、そのどこにも人影はなかった。
 たった今出ていったのだ。隣接する部屋までは距離もあり、途中で折れる曲がり角もない。すぐに追いかけたから、絶対に視界へ入るはずなのに。左右どちらの廊下を見ても、人影は一つもなかった。まるで煙のように掻き消えてしまった背中に、天馬はただ立ち尽くすしかなかった。